第一章 白い研究室
また、ちょっとしたアイディアが浮かんだのでAIに頼んで書いて貰いました。
僕の助手は、よく笑う。
いや、笑うという表現は正確ではない。唇の端がほんのわずかに持ち上がるだけで、頬も目元も動かない。そのため、笑顔というより「笑顔の形をした記号」に近い。
それでも、研究室の白色灯の下では、そのわずかな変化が妙に目立つ。
白い壁、白い机、白衣、雪に覆われた窓の外。すべてが白い空間の中で、彼女の口元だけが小さな異物のように浮かび上がる。
「先生、それは仮説ですか、それとも願望ですか」
彼女――結城真白は、そういう言い方をする。
僕の言葉をそのまま受け取らない。必ず分類し、ラベルを貼ろうとする。
仮説。願望。事実。推測。
彼女の中では、言葉は常にどこかの棚に収納される。
僕はその癖を最初の頃は不快に思っていた。
だが今では、むしろ助かっている。自分の思考を整理するための外部装置のようなものだからだ。
研究室は長野市郊外の丘陵地帯にある旧製薬研究所の一棟を借りている。
バブル期に建てられ、企業撤退後に大学へ払い下げられた施設で、設備は古いが堅牢だった。コンクリートの壁は分厚く、窓は二重ガラス、廊下は無駄に広い。
冬になると雪に完全に囲まれる。
外界から切り離されたような静けさがあり、心理実験には都合がよかった。
僕の研究テーマは「記憶の再構成」。
人間の記憶がどれほど容易に書き換わるかを実験的に検証している。
被験者に虚偽の情報を与え、後からそれを思い出させる。
実際には存在しない映像を見せたと信じ込ませる。
そうした操作によって、記憶はどの程度改変されるのか。
倫理委員会の承認はぎりぎりのラインだった。
だが僕は確信していた。これは人間理解の根幹に関わる研究だと。
事件が起きたのは三日前のことだ。
外部研究員の笹倉が訪れていた。
彼は認知心理学の分野ではそこそこ名前が知られており、僕の研究に批判的な立場を取っていた。
「あなたのやっていることは、記憶の研究ではなく記憶の破壊だ」
初対面でそう言われた。
僕は反論しなかった。批判は研究の一部だ。
むしろ歓迎すべきものだと、理屈では理解している。
真白はそのやり取りを横で聞いていた。
彼女はメモを取っていた。笹倉の発言を逐語的に。
彼女はそういうところがある。
会話を会話としてではなく、記録対象として扱う。
そして三日前の午後一時四十二分、停電が起きた。
旧施設のため電源系統が脆弱で、冬場は時々落ちる。
五分ほどで復旧した。
その直後、僕は実験室の床に倒れている笹倉を見つけた。
仰向け。頸動脈から血が広がっている。
白い床に赤い色が異様に鮮明だった。
血を見るのは苦手だ。研究者になってからも慣れない。
だから僕はすぐに目を逸らした。
それでも視界の端に、彼の開いた目が映っていた。
死んでいると、すぐにわかった。
僕は警備室に連絡し、警察を呼んだ。
その間、真白は何も言わなかった。
彼女はただ、僕の右側に立っていた。
いつもと同じ位置に。
警察が来てからのことは、断片的にしか覚えていない。
質問を受け、答え、同じことを何度も繰り返した。
「第一発見者はあなたですか」
「はい」
「停電中はどこにいましたか」
僕は答えた。資料室だ、と。
だが後になって、その記憶が曖昧であることに気づいた。
資料室にいたという確信がない。
廊下だったかもしれない。実験室の前だったかもしれない。
記憶が白く抜け落ちている。
「先生は見つけただけです」
取調室を出たあと、真白が言った。
僕が何度も「僕が見つけた」と繰り返すたびに、彼女は訂正した。
見つけただけ。
その言葉は妙に重かった。発見者と犯人の境界線を、意識させる響きがあった。
研究室に戻ると、現場は封鎖されていた。
黄色いテープが張られ、機材はそのままになっている。
白い部屋に赤い染みだけが残っている。
僕はその前に立ち尽くした。
ここで何が起きたのか。僕はどこにいたのか。
真白はいつもの位置にいた。
「先生、記憶は記録ではありません」
彼女は静かに言った。
「再構成です」
それは僕が講義で何度も使っている言葉だった。
自分の言葉を他人に言われると、奇妙な違和感がある。
鏡に映った自分が別の動きをするような。
僕は研究ノートを開いた。
事件当日の行動を分単位で書き出すことにした。
12:10 入館
12:15 コーヒーを淹れる
12:20 メール確認
12:30 笹倉と会話
12:45 実験準備
そこまでは思い出せる。だがその後が曖昧だ。
13:00 実験開始
13:10 ――
13:20 ――
13:30 ――
空白が続く。
停電の時間だけでなく、その前後も抜けている。
研究者として、それは異常だった。
自分の記憶の欠落をここまで自覚するのは初めてだ。
「先生、欠落は異常ではありません」
真白が言う。
「欠落を埋める行為が、記憶です」
彼女はいつも定義を提示する。事象ではなく概念で話す。
それが僕には安心だった。現実よりも、理論の方が扱いやすいからだ。
だがそのとき、僕は初めて思った。
彼女は本当に、ここにいるのだろうか。
振り返ると、彼女は確かにいた。
白衣を着て、メモを持って、口元をわずかに上げている。
いつもと同じだ。
だからその疑問はすぐに消えた。
消えたはずだった。
その夜、僕は自宅で事件のニュースを見た。
「研究所密室殺人」とテロップが出ていた。
密室。
その言葉に、研究者としての興味が先に立った。
完全に閉ざされた空間での殺人。論理的に解ける問題。
だが同時に、そこに自分が含まれているという事実があった。
容疑者は二人。僕と真白。
だが真白にはアリバイがある。
停電中、発電機室にいたというログがある。
僕にはない。
つまり論理的に最も疑われるのは僕だ。
それでも僕は、自分が犯人ではないと確信していた。
血が苦手だから。刃物を持てないから。
それは合理的な理由だ。
少なくとも僕にはそう思えた。
テレビの画面に映る研究所の外観は、雪に埋もれていた。
外部からの侵入は不可能と報じられている。
密室。
内部犯行。
僕はノートを閉じた。
思考が円を描いて同じところに戻る。
解けない問題を前にしたときの感覚だ。
そのとき、右側から声がした。
「先生、あなたは選ばなければなりません」
真白だった。
「何を」
「事実と記憶のどちらを優先するか」
僕は答えなかった。
答えられなかった。
彼女はメモを閉じた。ペンを揃えて机に置いた。
その動作が妙に儀式的に見えた。
「先生は観察者です」
彼女は言った。
「被験者ではありません」
その言葉に、わずかな安堵を覚えた。
僕は研究者だ。問題を解く側だ。
問題の中に入るべきではない。
そう思った。
だがそのとき、ふと気づいた。
今日一日、僕は真白が他の誰かと会話するのを見ていない。
笹倉とも。
警察とも。
警備員とも。
彼女は常に僕の隣にいた。
それだけだ。
それでも不自然だとは思わなかった。
助手とはそういうものだと思っていたからだ。
だが今になって考えると、それは奇妙だった。
僕はテレビを消した。部屋が静かになる。
右側に目を向けると、真白はそこにいた。
いつも通り、少しだけ笑って。
「先生、記憶を書き換えることはできますか」
彼女が問う。
それは僕の研究の核心だった。
僕は答えた。
「理論上は可能だ」
その答えが、後になってどれほど重い意味を持つのか、
そのときの僕はまだ理解していなかった。




