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第5話 泥だらけの清掃員と、完璧な報告書

「ダメ!! 書き直して!」


 そう言われ、報告書が突き返されたのは、今朝のことである。


 その時、俺……いや、私、安岡信一は、自席で書類の確認をしていた。  朝、いつものように事務所を訪れ、入り口のすぐ横に設置された机のクリップボードを確認する。  ボードには、今日一日の予定が書かれた紙が挟まれていて、そこに書かれた業務上必要と思われる情報をチェックする。  一通りのチェックを終えると、安岡は、目の前の衝立に置かれた一冊のノートを手に取り、昨日の日付が書かれたページを開く。内容は、昨夜の引き継ぎ事項や連絡事項が綴られていて、その内容を確認する。


 ノート、ボードを所定の位置に片づけると、部屋の中央、自身のデスクがある場所に足を向かった。持っているカバンを机の上に置き、カバンから愛用の手帳と手のひらサイズの小さなノートを取り出すと、席に腰を下ろし、手帳とノートを広げる。  そこに先ほど見た報告、引き継ぎ事項を書き込んでいく。


(相変わらず、汚い字だな)


 書き殴った文字を見ながら、安岡は心の中でそうツッコミを入れる。  昔、ある自己啓発本にあった、付箋やExcelでタスク管理をする方法を試したことを思い出す。エコマップ、いや、ロードマップというのだろうか。書いた情報を項目ごとに線つなぎして、記憶や情報の整理をする方法だ。  だが、Excelだとその度のセル管理が面倒だし、長文だと付箋に書き込めるスペースがない。結局、箇条書きでできる……いや、ある程度、情報整理が得意な人間ができる「特別仕様」と結論づけた。


 現在、ノートにぴっちり。それこそ、どこの超大作かと言えるほど、文字の羅列、文章の塊から、必要箇所を赤丸や赤字で書き込み、そこから重要となる項目を箇条書きで手帳に書き込む、という泥臭い手法を取っている。  そのため、手帳は真っ黒く、あるページは判読できない暗号文書が広がり。別のページは、まっさらな白紙という感じで、正直、見ていて気持ち悪い。


(まぁ、我ながら、あっちこっち飛ぶにしても、飛び過ぎだよな)


 そんな自身の脳内のひっちゃかめっちゃかさに、安岡は、心の中で苦笑いを浮かべる。  足元に置いたカバンを、足で机の奥に押しやりながら、今日の予定について、確認する。  午前中は、生活棟の掃除や洗濯。  午後は、校舎の教員の仕事補助。SSTソーシャル・スキル・トレーニングの資料作成の手伝い。


(やはり、相談業務やその関係の資料作成など、担当業務は回してくれないよな)


 安岡は、ため息が漏れそうになる心を必死に押し留め、ゆっくりと息を吐き出す。  そして、手帳の最後のページまで移動し、カバーに隠すようにしまってある紙を手に取り。


「……なんで返されたのか、わかっている?」


 視界の隅に、二枚の紙が置かれているのに気がつく。  罫線で区切られた四角い枠。その中に、お世辞にも綺麗とは言い難いが、決して読めなくない大きさも形もバラバラな文字の山。そこに、赤ペンも訂正も何も書かれていない。まるで、読むのを放棄したといわんばかりの綺麗な紙の束を、視界の隅に捉える。


 何となく、もう一度ため息をつきたい気持ちが湧き上がるのをぐっと押し込め、書類に目を通そうと、右手を伸ばす。


「ねぇっ! 聞いているんでしょ!! 返事ぐらいしなさい!!!」


 頭上からそんな怒鳴り声が聞こえ、一度奥歯を噛み締めてから、顔を向ける。


 猫を彷彿とさせる切れ長の目。低い鼻に、一応ビジネスワークを意識しているのか、肩上に切り揃えられた短い髪。髪の色は薄い茶色で、化粧をしていないのか、顔にはいくつかの大きなシミが目立つ。  特に、右頬に親指サイズの四角い、大きなシミが致命的で、たるみやシワは見えないのに、年齢を一気に十ぐらい上げていると思う。  それこそ、真っ白い綺麗な布地に、糸のほつれや小さな汚れのせいで、それがやたらに目立って、全体的な台無し感を五割ほど増したような、そんな残念感や不快感が先に立つ、そんな感じである。


 そのため、彼の脳裏には、性格が良く、高圧的でなければ、クラスで可愛いと評される女性……そんな相手が聞いたら、非常に失礼極まりない考えが、脳裏を通り過ぎる。  その言葉を掻き消すつもりで、更に眉間に力を入れて、考えを外に追い払う。


「……っ!!」


 彼の上司、高梨恵美の唾を飲み込む音が、聞こえた。  その瞬間、安岡は手帳を机の上に置き、「なんでしょうか」と返事を返した。


(つうか、どれだけ我慢出来ないんだよ)


 そう安岡信一は、内心毒づく。


 ここで小説なら、『眉間のシワ』や『細められた目』と言った情景描写から、彼女の現在の機嫌や性格などを推し量ることができるだろう。だが、現実では残念ながら、そんな分かりやすい表現、明確な意思表示などしてくれない。  せいぜい、先ほどの彼女の声が、他の職員と話すときよりワンテンポ遅いこと。逆光で見えにくい表情が、比較的真顔であり、直視する瞳が少し大きい。  いわゆる、“不機嫌な顔”という仮説が導き出せる顔。それがせいぜいである。  付け加えるなら、彼女の発するハスキーボイスが、さらに高圧的で威圧的な音の響きを含ませている。そんな分析をする。


 ただ、残念ながら彼は、専門医でも無ければ、特殊な訓練をしている工作員でもない。ゆえに、このせっかちで、感情的で、真面目な上司の機嫌や思考を予測することしかできない。


(いや、そんな分析も正直、無意味。会話が成り立たないのだから)


 彼は、自身が働き始めてから三ヶ月の出来事を思い起こす。  だが、その中で一度も会話が成り立った記憶がない。たまに、会話が噛み合ったと感じたこともあるが、結局結論は向こうの思い描いたシナリオであり、いくら訂正をしても無駄だったことを思い出す。  例えば、報告書の書き方や報告事項の項目分け。指示内容のミス。いや、それ以前に声の出し方や喋り方で激昂したこともある。あれは、完全な難癖だろう。


 再三内容の確認をしていようが、このように激昂している姿を目前にしたのは、十や二十ではない。正直、会話するのさえ、苦痛というレベルだ。


 彼は首を動かさず、相手の反応を待つ。いや、待つしかない。  なぜなら――高梨は、目を大きく見開き、奥歯を噛み締めた時によくする、口を一文字に引き締めると、声を大きく、怒鳴りつけた。


「何! この報告書!! 何度言えばわかるの! 客観的事実だけで良いの! 同じことを何度も言わせないで!!!」


 その感情的で、有無も言わせない声に安岡は、能面のように表情を消さないよう、意識を集中しながら、一度目を閉じる。すると。


「ねぇ! 怒られているのに、なんで目を瞑っているの!! 貴方がやらかしたことでしょ!! 返事しなさい!!!」


 怒鳴り声が続く。これはツッコミ待ちだろうか。と、どうでもよい方向へ思考が飛ぶが、その思考をなんとか、戻す。フツフツと湧き上がる感情に蓋をし、押し留める。


 そして、安岡の呼吸は知らずに止まっていた。  盛大なため息が漏れそうになる口を、必死に押さえつけるため、意識が呼吸することすら忘れ、次第に思考が霞のように薄らいでいくことを、辛うじて自覚した。  顔がひきつらないよう、奥歯に力を入れ、内心、右目の眉尻がピクピク痙攣しているのさえ、一緒に咎められるのではなかろうか、という懸念が脳裏を軽く過ぎる。


 それなのに、高梨恵美は、そのような葛藤を反抗的な態度と受け取ったように、机をバンっと叩きつけ、更に声を大きくして怒鳴りつける。


「ねぇ! 聞いているんでしょ!! 話が終わるまで聞き流せばいいって、そんな風に思っているのは、目を見れば分かるんだからね!! ちゃんと答えなさい!!!」


(その前に、人に感情的だとか、恐喝や恫喝と捉えかねない態度を取るのを、まずやめたらどうだ)


 内心でふっと漏れ出た悪態をつきながら、安岡は、ゆっくりと目を開ける。そして、問題となっている机の書類に手を伸ばしながら、視線を書類に目を走らせる。


「何が不足ですか」


 安岡は、なるべくゆっくりと、感情を押さえた口調で、そう問いかける。  だが、彼女は、代わらず何度も机を叩き、声を張り上げる。


「何! その態度は!! あんた、人にどれだけ迷惑をかけているのか、わかっているの!!!」


(なら、過去の報告書類と比較、検証して、客観的判断してから、言ってほしい。客観的って言葉の辞書引き、調べてから言ってくれないかな)


 安岡は、手元の資料に目を走らせるのを諦め、記憶から報告書の記述内容を思い出す。  内容は、SST(社会生活行動訓練)の作業訓練報告書。  ここでは、人と会話したり、状況に合わせた言葉遣いや感情のコントロール方法など、社会活動に必要な能力を高める練習を週に数回。もしくは、放課後や授業の代わりに受けるプログラムがある。


 本来は、大人や心理的課題を抱えた人といった、ある程度、社会経験や対人経験を積み重ねた成人や青少年が、自身の自覚や課題を引き出し、その治療やリハビリ、リラクゼーション的な意味で行われている治療方法である。  だが、ここに通っている子どもは、少し特殊な事情を抱えた子どもが入所しているため、その土台となる経験や学習を学校や家庭で築くのが難しいという理由がある。そのため、子供の学習用に改良し、次の三つの効果方法に再構築した。つまり、子ども用の職業訓練校というわけである。


 ちなみに、どういう訓練方法を使っているかと言うと、 ①衝動や感情的になる行動を抑制するための訓練 ②会話、コミュニケーションを行うための言語、滑舌訓練 ③集団、状況に合わせた行動を行う認知行動訓練


 以上の三つを、教師陣や支援員、医師や心理士が判断、指示するというルールとなっている。  ということで、昨日の午後、安岡信一は、ある生徒の訓練現場に立ち会い、見学したというわけなのだが。


 思い出した言語訓練報告内容。 『一音。一言を発するのに10~15秒程度の時間的間が生じる。特に、リンゴ、じゃがいもといった食べ物や飲み物と言った普段遣いの単語は、ある程度スムーズに発することができるが、『僕は』『の上』『~の時』と言った、副詞、形容詞と言った修飾的表現。具体性や実体の持たないものを表す単語、表現を使う際、言い淀むことがある。  そのため、まず、副詞、形容詞といった名詞に修飾を入れることに慣れてもらうと共に、音読の訓練を継続。使用できる単語数を増やすことに注力する内容を次回の訓練目標とすることを話し合い。継続的ケアを実行する必要がある』


 つまり、日常的に目にするものは淀みなく言え、時間や空間という目に見えないものや修飾表現は忘れる。言い淀むことがある。  そう読み解けるわけなのだが、これが分からないというのは、むしろ国語の勉強をやり直してから、質問してほしい。そう安岡信一は思った。


 高梨恵美は更にヒステリックに声を荒らげて、怒鳴りつけた。


「ねぇ、なんで、毎度同じ間違いをするわけ? 報告書なんて、見た出来事を簡潔で、見たまんま書けばいいだけでしょ!!! なんで、余計なこと、必要のないことをわざわざ書こうとするの!!!  分からないなら、誰かに聞く! 判断つかないなら、下書きして添削してもらう! そんなの、普通に考えれば、思いつくことなのに、なんでしないの!!!! 子どもじゃないんだから、少しは頭を使って、考えたらどうなの!!!」


(その方法一つ一つを、全て潰したのは、いったい誰だったか)


「ねぇえ!! 私が女だから、言うこと聞かないの?! 私をバカにしているの!!」 「いいえ、そんなことはありません」 「だ・か・ら、何?!! その気持ち悪い話し方は!! 誰も、そんな話し方しないわよ!!  ねぇ、私の言っている事が間違ってる?!?! でも、誰も止めに来ないわ!! つまり、誰も普通にやっていることなの!! わかる??」 「はい。そうですね。申し訳ございません」


 そう言い、安岡は頭を下げた。  すると、更に激昂した高梨が机を叩こうと、手を振り上げた。  その瞬間。


「ねぇ、めぐ~!! ちょっといい~?」


 そんな明るく、間の抜けたような声が、部屋の奥から聞こえた。  彼女の奥歯を噛み締める、ギリッという音が聞こえたような気がした。


 だが、高梨は、部屋の奥に視線を向け、「わかった。今、行く」と、明るく弾んだ声で答える。そして、再び安岡を見た時、机を思いっきり叩きつけて、こう言い放った。


「いい。この報告書。書き直してから、今日の業務を始めて。こんども、同じことをするようなら、主任に頼んで、辞めてもらうから!!!」


 そう言うと、高梨恵美は、事務所の奥、リビングに向かう通路の扉へと向かった。  入口には、黒髪で線の細そうなスレンダーな女性が立っていた。  二人が、部屋を出て、扉の向こうに行く瞬間、次のような言葉が聞こえてきた。


「……何も考えてないのよ」 「甘やかされて育てられたに違いない」 「普通、同じミスや言われる前に聞くよね。社会人としての自覚ないのよね」 「馬鹿だから、そんなこと考えたりしないわ」


 そうして、二人が出た扉が完全に閉じきるのを確認した安岡は、視線を報告書の文面に走らせながら、一分。  じっと、その場で固まった。時折、視線を扉の方に向け、様子を観察する。  そして、新しい書類の束が入っている引き出しの棚から、報告書を一枚取り出すと、自席に戻り、ペンを取る。  だが、言葉は何も思い浮かばず、奥歯に力を入れると共にゆっくりと、先ほどまで止めていた息を吐き出す。


(何が社会人としての自覚だ。自分こそ、社会人の自覚がないんじゃないか)


 安岡は、机の一番下の引き出しをゆっくりと開け、中から一枚の紙を取り出す。  そこには、赤ペンで書き込みをしてもらった、先ほどの原本となる下書き書類が納められていた。  昨夜、主任、言語聴覚士、心理士に頼み込み、報告内容の確認と相違点のチェックを行ってもらった書類。  書類の末尾には、『主任 赤字部分(名詞、副詞、形容詞の追加)の訂正を行い、提出。受領問題なし。指導員に連絡済み』と書かれたメモと、付箋で『高、面白い着眼点で勉強になりました』『酒 報告内容に問題なし。お疲れ様』と書かれたメモが貼られていた。


「結局、何をやっても、変わんないじゃないかよ」


 安岡は、そう呟くと、手帳と報告書を持って、職員通用口から外に出ていった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。 今回は、安岡と彼を慕う人物のお話でした。


上司(高梨)からはあんな扱いを受けていますが、ちゃんと彼の本質を見て、慕ってくれる人間もいます。 「泥だらけの清掃員」ですが、彼はまだ、孤独ではありません。


そんな安岡が、これからこの学園でどう動いていくのか。少しずつ、彼の良い面を出していきます。

引き続き、この不器用な男の物語にお付き合いいただければ幸いです。


(もし「安岡、いいキャラしてるじゃん」「理解者がいてよかった!」と思っていただけましたら、下にある【☆☆☆☆☆】をポチッとして応援いただけると、執筆の励みになります!)

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