私がここにきた理由
「つまり、お子さんが学校の授業についていけないのは、物覚えが悪い。難しい子どもだから、普通の学校ではなく、それ専門の学校に通わせた方が言いと、先生に言われた。そう言うことですね」
酒井先生がそう言うと、お母さんは顔を手で覆い、ゆっくり、途切れ途切れな声で言った。
「そうなの。家では普通に、会話もできる。お手伝いもしっかりする普通の子だと思っていたのに、学校ではほとんど話さない!
突然、言われてもいないことをする!
勝手な事をする問題児だと説明を受け、私、ショックで…。
確かに、家でも、そんな、なんでも話すような騒がしい子ではないんです。いや、どちらかと言うと、大人しい子なんです!
でも、私とも普通に話はしますし、聞けば答えてくれる。たまに、時間がかかることもありますけど、それでも、全く答えられないということはないんです。
ですから、最初、担任からその話を聞いた時、思わず怒鳴ってしまったんです!
ただ、最近、私生活では問題ないけど、社会に出た後、障害と気づく人が増えているというじゃないですか。私、障害と聞くと、言葉も話せない。食事もトイレも自分ではできない人を想像していたんですけど、まさか、娘がそれと同様。いや、軽度なのかもしれませんが、それと同じような子だと聞いて……私、何か育て方を間違えてしまったんでしょうか。それとも、健康で産めなかった私がいけなかったのか。それが、不安で、心配で」
母は下を向き、泣き出してしまった。
膝には大粒のなみだが見える。
今朝、お父さんの運転でやってきたここは、(確か、車の中で見えた風景は)建物のほとんどない。なんて言っただろうか。そう田園風景。その真ん中だった。
最初は大きな病院のような高い建物かと思った。高いビル、白い壁、車が何台も止まっていて、裏に緑も見えた建物。私のこのカラダは病気。そう言われたら、少し楽だったと思う。学校では、ちょくちょく言われた言葉だったし。
でも、そこではなく、そこから少し言った私の身長の上、お父さんは顔ぐらいの高い壁に覆われた場所にやってきた。建物は、最初、学校かと思った。だって、門を抜けた先に校庭があって、左に体育館の丸い屋根の建物があり、奥には2階、3階にベランダのような窓が見えたから…。
でも、少し違った。
私の学校は、(確か、新しいと。この辺りの最初の学校と言ってたと思うけど)壁がキレイだった。青や黄色、明るい色をしていた。
ただ、その壁に比べて少し汚れていた。でも、全体的に明るい壁の色をしていた思うけど、そこじゃない。
私とお父さんたちが向かった場所は、正面がガラス張りの博物館か福祉センターみたいな場所だった。
目の前にカウンターと言ったっけ、壁と一緒になった私の頭ぐらいの高さのテーブルがあって、その奥に2人、3人の大人がいた。
奥の壁には掛けられた時計は10時を指していて(数字が横に並んでいるもので分かりやすかった)、父がカウンターの1人と話をすると、「こちらで、お待ちください」といい、私たちは、その四角い壁に囲われた部屋に座った。
しばらくすると、私たちの座っている椅子と反対側の壁が開き、酒井(先生と言うと、少し心が苦しいから、『さんにしよう』)さんが入ってきた。
「お待たせしました」と酒井さんが頭を下げ、お父さんが下げるのを真似て、私も頭を下げる。
そして、酒井さんが正面の椅子に座り、母がバックから1枚のフウトウを出して、渡すないなや、母はずっとこんな感じに話し始めた。
漫画なら、そんなお母さんの行動を非難するつもりで目を細めれば良いのだろうが、正直、苦しい思いをしたことしかない……いや、違う。今、こんな冷静に言葉を繋げているけど、正直、私は今目の前に何が繰り広げられているのか、よく分かっていない。
それこそ、インフルエンザで頭がぐちゃぐちゃで、全てがどうでも良くなったかのように、私はそのやりとりを呆然と眺めた。
(ちなみに、酒井さんは、母の話を「えぇ」「そうなんですか」「私も息子がいまして、気持ちは分かります」と言う返事しかしていないと思うんだけど、母はそれでも構わなかったようだ)
ただ一言、嫌な悲しい? イラつく? そんなモヤモヤした気持ちにはなった。それは、なぜ? 今更ではない。
私の話よりあの先生たちの言葉は信じるんだ。そう思うと、私は母を正直から見られないような気がした。多分、そんな気持ちに、気持ち悪い気持ちになった気がした、と思う。
それが、私の精一杯の言葉だと思う。
母の泣く、途切れ途切れの、少しずつ小さくなる声を聞く。
すると、酒井さんはゆっくりとした口調で言った。
「大丈夫ですよ。皆さん、そうやって自分の事を責められんですが、それでもここまで元気に育てて来られたんです。ですから、大丈夫ですよ」
そして、席を立ち、母の小さくなった肩を擦りながら、更に優しそうな声で言った。
「それに、一人で抱え込まずに、ご主人と一緒にここまで連れてこられた。つまり、お母さんが、娘さんの事を何より大切にされている何よりの証拠なんです。普通、そこまで出来ません。ですから、自信を持ってください」
すると、母は酒井さんの顔をじっと見つめ、「本当ですか」と怖々と、とても小さく、聞き取れないような声で呟いた。
酒井さんは、そんな母にしっかり、見つめると首を僅かに動かしたように見えた。すると、突然母が両手で酒井さんの手を握りこむと、「よろしくお願いします」と何度も頭を下げた。
それこそ、そのまま抱きつく勢いでお母さんが言い、酒井さんもコクっと頷いた。
でも、数秒。いや、数十秒、そんなやり取りを見ていたお父さんは、頭をボリボリ描きながら、呆れた声を出した。
「……絵美。勝手に盛り上がっている所、悪いんだけど。まず、落ち着いたのなら、ここがどういうところなのか、何をやっている場所なのか、その説明をまず聞かないか。まだ、自己紹介もまだなんだから……」
「――――あれ、その説明。もう終わったんじゃなかったっけ?」
先ほどまでの震えた声とは違った、なんてことない声で母が言うと、父も呆れたような、苦いものを食べたような声で笑いながら言った。
「いや。酒井さんが話し始める前に、君が資料を手渡すや否、ここに来た理由を全部話し始めたんだろう。向こうが、施設の説明や『どうしたの?』と声をかける前に……」
父がそういうと、母は一瞬固まり、呆然と、それまでのやり取りを思い出すように上を見た―――すると、それを思い出したのか、その顔は、目に見てわかるほど一気に赤くなり(それこそ、アニメで真っ赤になるように)、酒井さんの手を離すと、それこそ先ほどと同じ、いやそれ以上の物凄い速度でペコペコ頭を下げた。酒井さんは、乾いた声で笑いながら、「気にしてませんよ」と手を振った。
(このお母さんは……)
私は、顔を手で覆いたくなる気持ちになった。
でも、どうしても、先ほどの酒井さんの言葉が、言葉通りに思えなかった。だって、高橋先生、家にやってきたとき、「大丈夫」やそんな事を言っていたのだから。でも、結局、私を苦しめて、何かを言うことをさせてはくれなかった。
(―――そういえば、みんな、最初はそんな感じだったなぁ。それで、私の事をよく知ると、隠して、言い訳をして、私のせいにする)
――――私がどうしたいのか、どうすべきか教えてはくれない
そんな声が聞こえた気がして、私の心は少し沈んだ。少し嫌な事を思い出し、息が少し苦しくなったような気がする。私はバレないように、コッソリ息を吐き出す。
大人たちのやり取りが戻ったようだ。
お母さんは、まだ顔が赤く、さっきとは違い、私の隣で小さく、下を向いている。でも、お父さんは、酒井さんを静かに見つめ、背筋を伸ばして、座っている。
酒井さんの笑い声も少しずつ小さくなり、手を胸の前に当てると、小さく息を吐いた音がした。
「では、改めまして、自己紹介をいたします。私は酒井静子。こちらの滝野川総合支援学園の家庭支援相談員を担当しております」
酒井さんがそう言うと、父はカバンからいつも使う皮の箱を取り出し、そこから一枚の紙を取り出して、彼女の前に手渡した。
「私は、黒川哲夫。医療機メーカーの外資に勤めており、こちらの理事長戸越先生に、以前お世話になりましたエンで、今回、娘の件で窺いました」
「そうですか。理事長のお知り合いで。いつもとは、異なるご連絡でしたので、不思議に思っていたんですよ」
そう言われ、笑いかける酒井さんに、父も笑みを浮かべた。
「それは、失礼いたしました。普段、営業で海外を飛び回っている関係で、中々時間が取れず、事前のアポを取る余裕もなかったんです。そのため、急な訪問になってしまい、申し訳ございません」
「いえいえ、それは気になさらないで、大丈夫です」
酒井さんは、お父さんから紙をいただきながら、ニッコリと笑った。お父さんも笑いながら、箱をカバンに戻す。
「いえいえ、普段からご多忙な方と聞き及んでおりましたので、実際は何度か見学を重ねてから娘を連れて参りたかったのですが。あいにく、来週も出張の予定が入っているんです。そのことを、戸越先生にお話したところ、ご厚意で一緒に見ていただけるとお返事を頂き、妻と娘を連れてきたんです」
「そうですか。それは貴重なお休みの時間を割いて、本当に大変でしたでしょう」
「いえいえ。それは――」
そう言うと、お父さんは私を見て、頭を軽く撫でた。
「帰国前に、妻から話を聞き、戸越先生が以前おっしゃった事を思い出したんです。なので、こうして私の信用できる先生にご相談できる機会に恵まれて、よかったと思っております。なんせ、妻は少々そそっかしいところがありますので、一人で悩んで、事情も分からない医師や施設に相談して、何かあるよりは、親として安心できます」
「……私、別にそんなにそそっかしくないわよ」
お父さんの言葉に我慢できなくなったのか、母は少し口を尖らせて、言い訳をする。すると、父はため息を吐きながら、言った。
「………さっきのやり取りを見てて、何を言っているんだ。別に、普段からそうだという意味じゃない。娘の事だから、逆に冷静だったら、その方が問題だし、一人で抱え込まず、知らない場所で勝手な話をされるよりマシだっていう意味だよ。
まぁ、俺も脳科学の先生の説明を聞かなければ、教師の怠慢。本人の努力不足だと気にもしなかったかもしれないけど、たまたまアメリカで似たような話を聞いた時だから、連れてきたって話だよ」
「………あれ?
ご主人。医療機メーカーのお仕事をなさっているという話ですよね。よろしければ、どんなお仕事をされているのか。差し支えなければ、お聞かせていただけませんか」
酒井さんが、不思議という感じで首を傾げると、父は「構いません」と答えて、言った。
「簡単に言いますと、検査薬、診断薬の開発、製造を行う会社で営業をしております。
たまたま、今回行った出張先でアメリカの学会で、そこで脳の萎縮や各部位に対する脳の機能について、触れる機会がありましたのでの。その際、以前、戸越先生から子どもの成長する脳でも同じような現象が起こるという研究をなさっていた話を思い出して、妻の連絡を受けた際にすぐ、先生の論文を取り寄せ、調べました。そして、連絡をした折に、娘も連れてくるようにと言われ、こちらに伺ったんです」
そして、父は、今朝急いで印刷した紙を取り出し、目の前に置いた。そこには、よく分からない文字(多分、父とその戸越先生とのメールのやり取り)が、印字されていた。酒井さんは、その紙を手に取ると、
「わかりました。戸越に確認いたします。そのあとに、この施設の説明や簡単なテストをさせていただきます。その後、各施設を回り、見学しながら、今後の事をお話しさせていただきます」
「その前に、戸越先生は、いつほどいらっしゃるのでしょうか。どれほどかかるのか、知っておきたいのですが」
父が手を挙げ、制してから、そう聞いた。すると、酒井さんは、眉を逆八の字にして、目を伏せた。
「……申し訳ございません。私どもも、理事から『今日、病院で少し遅くなる』と連絡を受けただけで、『具体的に何時まで』とかは聞いていないんですよ。それまでに、施設の説明やテストを受けた段階で来られるようにするとしか、聞いていません。お急ぎならば、確認いたしましょうか」
「……そうですね。わかりました」
父は、少し考えてから、そう答えた。すると、酒井さんは、「では、確認してきますね」と言い、扉の向こうへ消えてしまった。
(………あれ? そうしたら、お昼過ぎちゃうんじゃない??)
私は、左のお母さんの腕時計に視線を向けた。長い針と短い針がものすごく口を開いたカバのように広がって見えた。すると、あれから30たったことになる。
車で家を出た時、時間がかかると言って、朝、途中のマクノで食べたぐらいで、今日はそんなに食べていない。
(お父さんの食べかけ、食べとけばよかったなぁ。途中で、頭がボーっとしないといいけど)
ただでさえ、少し疲れが出始めているような気がする。お尻も痛いし、身体がとても重い。正直、もう寝てしまいたい、そう思った。
(でも、寝ても迷路に閉じこめられたり、お父さんやお母さんがどこかに消えたり、いなくなったり、そんな夢を見て、あまり眠れないんだよな)
昔、アニメで雲のお城や絶滅動物が出てくる話を映画でみた。あの時、船に乗ってみんなが私を置いて、どこかに言ってしまうような夢。あんな夢を、正直何度見たか覚えていない。でも、よく夢の中で似たような光景を私は見て、泣きそうになる。ここ最近は、特に酷くて、何度も目を覚ました。だから、時々眠るのさえ、怖くなる時がある。目を瞑って、そしたら、お母さんもいなくなってしまう。それが、とても怖かった。
「……少し失礼します。酒井が席を外している間、先に私のほうで簡単に施設の説明をさせていただきます、ケースワーカー高梨めぐみです。よろしくお願いします」
父と母が何か話している声を聞きながら、私がぼーっとしていると、突然、少し音の高い大きな声が聞こえて、私は顔を上げた。
身体が急に固く、胸が締め付けられるような(いや、それはさっきからだけど、手を握っている感じから紐でさらに引っ張られているような、更に痛い締め付け)を感じて、思わず、声の相手を見つめた。
顔は、酒井さんが綺麗系と言うと、この人はどっちかというと可愛い系。活発な雰囲気に見えて、髪は少し茶色。ミキちゃんと同じような明るく、やり手のキャリア・ウーマンを思わせる凛とした雰囲気に見える、一重瞼の大きな瞳。お母さんより少しシュッと細いけど、丸い顔。いや、そんなことはどうでも良くて。
「初めまして、澪ちゃん。私は、女の子の悩み相談もしているの。だから、なんでも相談してね」
そう言って、高梨さんは笑った。
周囲が明るくなるような、そんな大きな声。私は、呼吸が早く、辛くなりそうな口に必死に力を入れて、何とか首を縦に振った。
(……似ている。先生に)
「すみません。初めての場所で緊張しているんです」
「そうですか。でしたら、なるべく手短に終わるよう、努力しますね」
お母さんが、私が何も話さないことをそう説明すると、高梨さんは笑って、そう声をかけた。でも、私は、その言葉に何も言えなかった。
何が似ているのか分からない。でも、なんとなく似ているような気がした……。
(高橋先生……)
大山の〇代映画。今、大人になると、すごく考えさせられます。
今、思うとよく子ども映画で上映していたと思う部分とよくあれほど分かりやすいお話が出来たなぁ、と思います。
でも、あの箱舟シーンは、当時トラウマでしたね。なんどシチュエーションが変わって見た事か。
みなさんは、ありますか?




