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プロローグ

―――黒川澪は、虐められていた。


それが、彼女の日常となった。

耳には、連日のように心無い誹謗中傷の怨嗟に晒され、そこから抜け出す力を彼女は持ち合わせていなかった。それは、彼女の主観において、出口のない地獄に違いない。

だが、その地獄に「悪魔(あくい)」があったかと問われれば、答えは否である。


誰一人として彼女を虐めている、陥れようという意識も自覚もない。それは、単なる“日常(あわむれ)”。


いや、一瞬、瞬間的に生じた感性の中にそれに準ずる感情が全く含まれていなかったか、と問われれば、それも否である。ただ、決して特別な感情が含まれていた訳ではない。

親が、兄弟が、アニメが、ドラマが、普通に放送していたこと。


そこには、人は"自身を制御可能な存在"であるという思い込みがあった。それは、一昔前、真面目に働けば、普通の生活を送れると信じられていた時代に似ている。


文明が飛躍的な発展を遂げ、映画の中だけだった世界が、日常的に繰り広げられていく光景を目の当たりにして、”あれは夢、幻の産物”と言われたとして、誰が信じるというのか。


その結果、多くの人々が自身と他人を同じ"制御可能な存在"と勘違いしていた。生活が豊かになったから、“正論(ことばの暴力)”もきっと許される。そのような幻想(ぜんのうかん)を、誰が責めることができるというのか。そう、それは『努力神話(すくいはある)』という“頑張れば、誰かが見てくれている”という夢物語を信仰するのに近い。


そういう視点で考えてみると、彼女の担任教師の行った"教育(しどう)"も、彼女の"できない"にフォーカスした指導方法の一つだったといえる。


それは、かつて、私たちがまだ子供だったあの頃の荒れた教育現場を目の当たりにした先輩教師が、「子どもは、言い逃れをするために平気で嘘を吐く」という定説を信じ、"黙る"ことを「やましさ」の証拠だと断じた当時の"正しい指導方法の一つ"。

――そう、全ては繋がっている。


だが、それはある"前提"の上での成り立つロジックに過ぎない。 いや、過去の栄光の産物ともいえる。


今より多くの大人が、それぞれの『普通(あたりまえ)』を開示し、子どもがその『普通(あたりまえ)』から選択できる自由があった時代。

文明的豊かさと引き換えに失い、あの泥臭くも寛容な『安価な人情の押し売り』が繰り広げられた。


それを“危機管理の無さ”と断じ、『平和ボケ(個性の損失)』と揶揄された『泥棒の存在を想定しない、鍵のない楽園の住人』の生活が、実は彼らの理想を実現するために"必要不可欠な環境"であるとは、なんとも皮肉な話である。


だが、それに気づかない教師は、その後も『善意(じこぎせい)』という名の刃を彼女に与え続けた。それは、無防備な性善説が、痛ましい凶悪事件を誘発させたという通説を信じた結果であると言える。

つまり、『甘やかされた人は、犯罪を犯す』そんな“当時の思い込み(令和の非常識)”が当たり前のように信じられた時代を作った、と言えよう。


そして、そこから生まれた時代錯誤の刃。それとも扱いの難しい妖刀だったのかは、話を聞いた男には判断できない。ただ、言えるのは、少なくとも、その教師は、扱いを間違えたという決定的な事実だけだろう。




その日の放課後。 夕闇が廊下を侵食し始めた無人の教室で、彼女は一人、教壇の前に立たされていた。


教師は彼女に反省文を書かせ、それを音読させた。

人前でしなかったのは、教師なりの唯一の良心であり、誠意だったのかもしれない。

だが、白い紙に並んだ文字は改善案などではなく、ひたすら自己を断罪し、人格を否定する呪詛の羅列だった。


「私には考える頭がありません」 「クラスに溶け込む努力もしませんでした」


そんな自らを裁く文字の羅列を、自身ではどうすることもできない呪詛の言葉を、彼女は読み上げた。


みんなと同じように笑いたい、他愛もない会話に加わりたい。そんな、ありふれた願望を嘲笑うかのような文章を彼女は、ただ読み上げた。 そこに明確な『答え』はない。


感情を消し、思考を凍らせ、次第に彼女は己の心を守るために、感情を『隔離』させた。


それが、穴だらけの虫食い穴のように、彼女の世界から言葉を一つ、また一つと零れ落ちさせた。

殴らなければ暴力ではない。そんな暗黙の合意のもと、彼ら、彼女らの繰り広げた拷問のような時間が、黒川澪に消えない痣を打ち続けたことは、想像に難くない。


それでも、彼女は学校に行った。

それが唯一の対抗手段であり、意地だったのかもしれない。

だが、あの日―――積み上げられた沈黙は、最悪の形でかみ合った。


「うわぁーーーー!!」


キッカケは、取るに足らない、ありふれた"冗談"だった。 教室の隅で交わされたじゃれ合い。誰かが彼女を退屈しのぎで突いて、笑っていた。 それが、静寂を切り裂く絶叫と共に、乾いた破裂音として教室の中で鳴り響いた。


バキッ!! ドカッ!! 飛び散る破片。人が倒れ、床に叩きつけられる音。


「きゃぁぁあぁあ!!」


室内に鳴り響く叫び声。

床を汚す鮮血ーーーいや、正確には床に敷き詰められた灰色のカーペットの上を、黒い彼女の癒えない傷痕のように、どす黒いシミとなって広がっていた。


それはまるで、この教室という肉体の表面に浮き出た『内出血』のように、辺りを汚した。


数秒前まで『鍵のない楽園』を享受していた住人たちは、突如として目の前に現れた『血の現実』を前に、呆然と立ち尽くす。 教室の床に机が散乱し、その中身も辺りに散らばった。


床に座り、恐怖で顔を強張らせた子どもが一人。顔面を蒼白にさせ、何事かを呟く。


「・・・ごめんなさい。ごめんなさい。私は違うの!!」


誰の口からか、そんな懇願とも謝罪とも分からない言葉が漏れる。だが、その言葉は、次の瞬間、彼女が振り回す木の棒の音にかき消された。


「ごめんなさい。ごめんなさい。私が悪かった」


そう言い、一人の女性が、頭を抱え、うずくまる。

一人の少年が、少女に庇われるように座り、その光景を眺める。 その背後で、彼女は、棒を振り上げ、目の前に向かって、叩きつける。


バキッ!!

血しぶきが辺りに舞った。 静寂が、教室を埋め尽くし、誰も動かず、誰も喋らない。


いつもは見世物のように囃し立て、騒ぎ立てる声もない。 それは、まるで、次は自分たちが標的にならないように、時が止まることを祈るように黙り込む。


誰も、彼女の凶行を止める者はいない。 それは、彼ら、彼女らの凶行を止めようと動く者がいなかったように。このむき出しの現実を止め、返り血を拭う覚悟も勇気も持ち合わせていない、自分自身が哀れな仔羊を主張する無自覚な聖者を演じた。


(・・・どうして?) 誰もが思った。最初は、普通の悪ふざけのはずだった。 大人も強くは止めなかったし、ただの日常のはずだった。


わけが分からないーーーいや、誰かが言った。 ちょっと、やり過ぎかもって・・・でも、それを聞かなかった。


(もっと早く、言ってくれれば・・・) そう思った。でも、誰かが言っていた。


「アタマのおかしな人は、そういう家で生まれる」 「話が長くて、意味のわからないことを言っている人は、そういう家で生まれた」 「先生に怒られるのは、怒られることをしているその人の責任だ」


だから、関わってはいけないって。

そうだ。だから、仕方ない。


声をかけなって言われて、それでも何も言わなかったあの子も。 いつも、わけのわからない、的外れなことを言うあの子も。


これは不可抗力の事故なのだ。全部、自業自得で、全部自己責任。


先生だって、いつもそう言ってた。だから、彼女がおかしいのも、僕たちがこんな怖い思いをさせているのもーーー全部、あの子の『わがまま』なんだ。


こうして、自身の無垢を証明する為に、目の前の少女を『狂人』へと仕立て上げ、この場から逃げ出そうと画策する、聖者たちの心の声なき叫びは続いた。


・・・・・・こうして、黒川澪は、学校から姿を消した。


次から本編はじめます。

前話で主人公がノックアウトしたため、第三者視点で書いています。

まだ登場していないキャラが解説役となってますが、ちゃんとでますので、引き続きお楽しみください。


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