7. 崩壊の音
シャルは瓦礫の下に倒れている少年に這うように近づき、震える手を伸ばした。
傷口から流れる鮮血は止まらず、命の灯火が今にも消えそうだった。
焦燥と恐怖が胸を締めつける中、彼女は迷うことなく奇跡の力を呼び起こした。
本当は、セラフィーヌの許可なしに力を使うことは禁じられている。
しかし、初めて自分に施しをくれた少年への感謝が、シャルの理性を凌駕したのだ。
黄金色の光がぱっと爆ぜるように広がり、少年の傷はみるみる癒えていく。
だがその代償は大きく、シャルの身体からは血の気が引き、体が重く冷たくなっていくのを感じた。
視界がわずかに揺れ、周囲のざわめきや人々の声、そして胸の奥で響く必ず聞き逃してはならないはずの声さえも、遠のいていった。
「あと少し……もう少しだけで、きっと治る……」
その時、不意に強い衝撃が彼女の横顔を打ち付けた。
「シャル!やめなさいって言ってるでしょ!」
声と共に張り倒され、身体が激しく揺さぶられる。
思考は一瞬にして停止し、重力に抗えず膝をついた。
ゆっくりと顔を上げると、瞳を強く見開き怒りに震えるセラフィーヌの姿があった。
「……いまのは、あの子が……?」
「聖女が奇跡を起こしていたんじゃないのか?」
「じゃあ、セラフィーヌ様は……偽物?」
ざわめきが波のように広がる。
彼らの戸惑い、困惑、非難の混じった鋭い視線がセラフィーヌの胸を深く突き刺した。
だがシャルの視線はただ一つ、怒りに震えるご主人様の姿に釘付けだった。
ご主人様が怒っている。
その事実だけが胸を締めつけ、どうすればいいのか分からず、焦燥が静かに波打った。
*
あの日シャルが起こした奇跡は、王都の中枢まで燃え広がっていった。
「聖女セラフィーヌは本当に奇跡を起こせるのか?」
「本当に彼女は神の寵愛を受けているのか?」
「偽聖女ではないのか?」
──それでも、まだ確証はなかった。
王宮にも神殿にも、民のざわめきは届いていた。
否、彼らこそが、その火種を静かに見下ろしていたのだ。
その中心に立つセラフィーヌだけが、沈黙を貫いていた。
けれど、確かに彼女は気づいていた。
背後で大きく揺らぎ始めた足元の地盤が、ゆっくりと崩れはじめていることに。
そんなある日、教会の最高司祭バルドルにセラフィーヌは呼び出された。
「ようこそおいでくださいました、セラフィーヌ様。おひとりでご足労いただき、まことに恐縮でございます」
皺深い顔に微笑を張り付け、彼は敬意を装った言葉で彼女を迎えた。
「……ご用件を」
セラフィーヌは無駄な愛想を返さなかった。
目の前にいるこの男は、彼女の称号を聖女と呼ぶが、その目は常に真実を量る天秤であると知っていた。
「早速ですが──最近、町の方々の間で妙な噂が立っているようですね。聖女様が奇跡を使われた場に、別の『光』があったとか……」
彼はまるで憂うように言ったが、その声音には鋭い針が潜んでいた。
沈黙するセラフィーヌにバルドルはしばし黙り込み、深いため息をついた。
「民の信を取り戻すには、神前で、もう一度明白な奇跡をお見せになるしかありますまい。──できれば、できるだけ壮大な、確実なものを」
セラフィーヌの指が膝の上で強く握られた。
黄金の光。その代償が、シャルの命であると彼女は知っている。
だが、バルドルの言葉はそこからさらに一歩踏み込んだ。
「……それとも、あの子を使い切る覚悟が、おありではない?」
低く、静かに。だがその一言には、明確な悪意と試すような意図が込められていた。
「聖女」としての仮面を剥がさずに生き延びるか、少女を守ってすべてを捨てるか。
セラフィーヌの喉が乾いた。口を開こうとするも、声が出ない。
バルドルはゆっくりと席を立ち、肩を軽くすくめて微笑んだ。
「ご無理はなさらずに。
神の御心に従って、最善の判断をされることでしょう。
──我らは、すべて見守っております」
礼拝堂に響いたのは、彼の足音と、蝋燭の小さな揺らぎだけだった。
セラフィーヌはその場にひとり取り残され、暗がりの中で、ただ小さく息を吐いた。
何も答えは出ていなかった。
だがすでに、道は選ばされようとしていた。




