2. 聖女になるには、犬が要る。
セラフィーヌ・グランヴィルは、王都の中でも指折りの名門、グランヴィル侯爵家の一人娘。
氷のような瞳に、炎のような情熱を宿しながら、それを誰にも見せることなく、今日も優雅にティーカップを傾けていた。
「ねえ、シャル。私って、どう思う?」
今、彼女は隣に膝をつく侍女に視線を落とした。
煤けた灰色の髪。紺色の瞳。薄い体に侍女の制服は似合わず、まるで首輪でもつければ完成する犬のようだった。
けれど彼女、シャルは、恍惚とした顔で主人を見上げている。
「ご、ご主人様は……もう、いちばんです!」
「ふぅん。相変わらず使えない犬ね」
セラフィーヌはくすりと笑ったが、そこに怒気も嘲りもなかった。
ただの事実確認だった。
この犬に思考力を求めるほうが、間違っている。
彼女にとってシャルは、飾りでも、侍女でもない。
ただのペットだ、それ以上でも以下でもない。
ふと、机に置かれた新聞に目がとまった。
《現聖女、ついに崩御。次代聖女、神託により選出予定》
──聖女。王に次ぐ、いや、時にそれ以上の国民的権威。
神の声を伝え、奇跡を起こす存在。
「ふぅん……聖女、ね」
その言葉に、シャルが首を傾げる。
「ご、ご主人様……セイジョって……ご飯ですか?」
セラフィーヌは噴き出しそうになるのを堪え、呆れたように笑った。
「ちがうわよ。痛いのを治したり、病を祓ったりする“神様の手先”みたいなものよ」
「…そ、それなら……シャル、できます……!」
シャルが、まっすぐな目で言った。
セラフィーヌは一瞬だけ沈黙し、それから小さく笑った。
信じていなかった。信じられるはずがなかった。
ただの煤けた犬が、神の手先如く傷を癒せると?そんな都合のいい話があるはずがない。
「ほんとうに……?」
彼女は席を立ち、窓辺の籠へと歩み寄る。
その中には、小さな白い鳥がいた。
セラフィーヌが気まぐれで買い、毎朝の慰みとした優雅な玩具。
彼女は何のためらいもなく、鳥の片翼を掴むと、折った。
ぱきり、と乾いた音がした。鳥が苦しげに羽ばたこうとして、倒れる。
「さあ、やってご覧なさい」
セラフィーヌはそれを床に落とすと、シャルの前に投げるように差し出した。
血の滲む小鳥。ぴく、ぴくと震える命。
シャルは、躊躇わなかった。
這うように鳥へと近づき、指先でそっと抱きしめるように包みこんだ。
すると彼女の手のひらが淡く輝く。
淡い光が灯り、まるで風が吹いたかのように物が揺れ、シャルの瞳が夜を裂くように、金に染まった。
だが光はあっという間に消え、シャルが両手を開けば小鳥は翼を震わせて立ち上がった。
「……っ……ぴ……」
鳴きながら、宙へ舞い上がる白い羽。
窓の隙間から、光の中へと飛んでいった。
「……あなた、本当に……犬ってだけじゃなかったのね」
セラフィーヌの唇が、ゆっくりと歪む。
けれど、それは喜びではなかった。
その目に宿っていたのは、抑えがたい興奮と、得物を見つけた猛禽のような欲望、そして揺るがぬ確信。
「……これは使えるわ」
それは、獲物を手に入れた捕食者の言葉だった。
*
その日神殿の祭壇前には、数多の聖女候補たちが並んでいた。
「“次代聖女の神託は、候補者を前にして下される”」
神殿の神官が読み上げるその文言に多くの候補者が動き出す。
泣き叫ぶ子を抱く者、血を流した老人の前に手を掲げる者。
だが、何も起きない。
神託も奇跡も、微笑みさえ下されない。
大理石のような神殿の階段を、セラフィーヌはゆっくりと、けれど確かな足取りで登り祭壇の前に進み出た。
「わたくし、セラフィーヌ・グランヴィル。次代聖女として、ここに立ちます」
一瞬、沈黙。
そして神官たちの間に、抑えきれぬどよめきが広がった。
「……私が、この国の未来を担う者です。さぁ!奇跡よ!」
まるで神に向かってさえ命じるような口調で。
誰もが戸惑う中、突如として空気が震えた。
セラフィーヌの足元に伏せられていた病人の身体が淡く光を放ち、焼けただれた肌が滑らかなものへと変わっていく。
「まさか……!」
「これは、奇跡……!」
セラフィーヌは動じない。
ただ、目線を遠くに向け──ほんのわずかに、神殿の裏手へ視線を逸らした。
そこには、ただの侍女服に身を包んだ煤けた髪の少女。
小さな手を組み、目を閉じ、祈っている影があった。
──それでいいのよ。見えなくていい。
あなたは“私の奇跡”なのだから。
「……神よ。この身を器として、あなたの声を届けましょう」
そう、セラフィーヌは高らかに宣言する。
“聖女”とは、信仰と演技の化身。
誰よりも神に近い顔をしながら、誰よりも地に足をつけた嘘をつく者──。




