鏡界ノ王、虚構ヲ喰ラウ者
四条真人は、終電間際のプラットホームで、誰かの叫び声に反応して線路へ飛び込んだ。
子どもが落ちた——そう思ったのは錯覚だった。
誰もいなかった。ただ彼が、誰かを助けようとして死んだ、それだけだった。
死んだ、はずだった。
しかし次に目を開けたとき、彼は深い森の中に横たわっていた。空は紫がかった薄明の色をしており、見知らぬ星が瞬いている。
「……異世界転生、ってやつか?」
自嘲気味に呟いた声に、誰も答えない。ただ、風が森の木々をざわめかせるばかり。
彼の目の前には、淡く光る石板が浮かんでいた。
《選択せよ》
そう刻まれていた。
石板には六つの選択肢が現れ、それぞれに異なる能力と運命が示されている。
一つ目は「破界の炎使い」。
すべてを焼き尽くす力と引き換えに、感情の大半を失う。
二つ目は「黄昏の語り部」。
未来を語ることで現実を変える。しかし、語った未来は必ず代償を伴う。
三つ目は「鏡界の漂流者」。
並行世界を渡る力。だが、元の世界に戻ることはできない。
四つ目は「空夢の奏者」。
音で世界を操る力。だが、心に嘘をついた瞬間、音は凶器に変わる。
五つ目は「星詠みの囁き手」。
星の声を聴く力。未来・過去・真実を知るが、知らねばよかったことも知る。
そして最後に——
六つ目は「虚構を喰らう者」。
この世界そのものを“物語”として喰らう力。だが、自我と現実の境界が曖昧になる。
真人は迷わず、六つ目を選んだ。
その瞬間、森が裏返った。
大地が崩れ、空が水に変わり、木々が歯車に、鳥が詩に、空気が意味を持った言葉へと姿を変える。世界が“物語”に変わっていく。彼の選択が、それを可能にした。
「これが……力……?」
虚構と現実の境が揺らぐ中で、真人は己の存在が“登場人物”として書き換えられていく感覚を味わった。そして、ある事実に気づく。
——この世界は、すでに“物語の内部”だ。
その中心に存在するのが、「鏡界」と呼ばれる領域だった。
彼が目を覚ましたのは、光も影も歪んだ都市《鏡界都市ミズレア》の片隅だった。
そこは、人も魔も獣も幻想も、すべてが混ざり合った奇妙な街だった。時計塔が時間を逆に刻み、言葉が建物の壁に浮かび上がり、笑う月が空を見下ろしている。
「やっと起きたか、異界人」
声をかけたのは、銀髪で片目に眼帯をつけた少女だった。彼女の名はリラ・フェルステル。職業は“記憶の泥棒”。
「君、記憶の匂いが濃すぎて、通報されたんだよ。ほら、うちの世界じゃ“過去”ってのは密輸品だから」
「……は?」
真人は混乱したが、それよりも目の前の少女が持つ短剣が、彼の名を刻んでいることに気づいた。
──Shijou Makoto──
「どうして俺の名前を……?」
「あなたの名前は、“この世界がまだ知らない物語”として刻まれてるの。つまりあなたは、まだ書かれてない章の主人公」
リラは、からかうように笑った。
その言葉に、真人は背筋が冷えた。
この世界では“存在”とは“語られること”で定義されるのだ。語られぬ者は、存在しないのと同じ。つまり彼は、今この瞬間まで、“語られていなかった”存在——まさに“虚構を喰らう者”の資格を持つ存在だった。
「さて、どうする? この世界は不安定でね、“物語の穴”がそこかしこに空いている。そこを埋めるか、壊すか、喰らうかは……あんた次第」
「物語の穴?」
「簡単に言えば、失敗した神のプロット、ね。あんたがその続きを“書く”ことができれば、世界は成立する。でも間違えれば——物語ごと崩壊する」
真人は息を飲んだ。
彼が持つ力は、“虚構を喰らう”だけではなかった。喰らい、再構築する。世界を書き換える“筆”を持つ者——それが“虚構を喰らう者”。
彼の旅は、始まったばかりだった。
ミズレアの街を歩く真人の目に飛び込んできたのは、ありえない風景の連続だった。
階段が空中でねじれ、扉は空に浮かび、影が言葉を喋る。
世界は、確かに“物語”でできていた。
いや、“物語にされすぎた”世界だった。
リラは真人を連れて《言葉市場》へと向かった。そこはあらゆる語句、詩、記憶、約束、嘘が売買される市場だった。叫び声一つが通貨となり、日記の断片が武器になる。
「君の力、『虚構を喰らう』ってのは、ただ破壊するだけじゃない。忘れられた物語、捨てられた背景、そういう“穴”を喰って、それを自分の中で再編できるんだよ」
「俺が……物語を書けるってことか?」
「うん、ただしその代わり——」
リラは真剣な目になった。
「書いた瞬間、君は“その物語の一部”になる。逃れられない。つまり、創造主であると同時に、登場人物でもあるの。わかる?」
「じゃあ、勝手に話を終わらせたりできないってことか」
「その通り。君が物語を完結させるとき、それは君自身の終わりと直結する」
真人は無言で市場の奥を見つめた。遠くの屋台で、子どもが“誰かの未来”を小銭で買っていた。
そのとき、空に亀裂が走った。
ピシィ……という耳障りな音と共に、ミズレアの空がひと筋、黒く裂けたのだ。そこからは、まるでフィルムが破れたように“白紙”の領域が広がっていた。
物語の空白——《虚無》の侵食。
「まずいわね……思ってたより早い」
リラがつぶやく。
それは、語られなかった物語、破棄されたプロット、捨てられた未来が積み重なって生まれたもの。世界が物語である以上、書かれない部分には意味がない。意味のない空間は崩れ、虚無になる。
そして、虚無に触れた者は“意味”を失う。
名前も、過去も、存在も、すべてが消えてしまう。
「君の力が必要だよ、真人」
リラはそう言った。彼女の声には、切実さが混じっていた。
だがその時、突如として白銀の仮面をつけた男が現れた。彼の背には巨大な筆のような武器があり、地を踏むたびに紙片が宙を舞った。
「ようこそ、〈語筆の王〉の庭へ」
その男が、そう名乗った。
「俺の名はエル=ヴァンス。物語の守護者にして、語られる者の裁定者だ」
「こいつが……“書く者”か」
エルの目が真人を射抜く。
「お前のような“異物”が、この世界のバランスを崩す。消えてもらおう。物語にない存在は、物語を腐らせるからな」
瞬間、空気が文字に変わった。斬撃が、詩の形で真人へと襲いかかる。
彼は反射的に手をかざした。すると空間がねじれ、敵の詩文が吸い込まれた。
——喰った。
そのとき、真人の頭の中に“その詩の物語”が流れ込んだ。エルの詩は「裏切りの王子と偽りの王」の物語だった。彼はその文脈を理解し、それを別の言葉に“書き換えた”。
「なら、こうだ!」
真人の口から溢れ出した言葉が世界を塗り替える。
「王子は裏切り者ではなく、真の英雄だった。偽りの王は、虚構を支配する怪物だった——!」
世界が揺れた。
エルの剣がひび割れ、仮面が砕けた。
「貴様……書き換えたのか、俺の物語を……!?」
その声は怒りと、ほんの少しの恐怖に震えていた。
「これが……俺の力……?」
真人は、ようやく理解し始めていた。
彼は、“書かれた物語を食い破り、再定義する者”。
世界のルールそのものを上書きする存在だった。
だが——それは同時に、世界の敵になる可能性も孕んでいた。
エルは逃げた。裂け目の向こうへと姿を消した。
残されたのは、また一つ深くなった“物語の穴”。
その奥から、何かが這い出てこようとしていた。
形を持たぬもの、声だけのもの、意味を持たないもの——〈虚無〉。
「このままだと、全部“意味を失って”終わるわよ、世界ごと」
リラの声が、静かに響いた。
「君が物語を喰らって書き直さなきゃ、この世界は、崩れるだけ」
真人は、空を見上げた。そこには、まだ“言葉になっていない空白”が広がっていた。
自分が、書かなければならない。
物語を。
自分自身を。
そして——世界を。
世界の“穴”は日に日に広がっていた。
虚無に飲まれた街は記憶ごと消え、そこにいた人々の名前すら思い出せなくなっていく。ミズレアの住民たちは、それを「白の病」と呼び、恐れていた。何もかもが“語られなかったこと”になる病——。
真人は、リラとともに〈叙述庁〉を訪れていた。そこは世界の物語を管理・保管する機関であり、同時に“語られる資格”を査定する場所でもあった。
「この先、君の存在は“物語の敵”として追われることになるわ。エル=ヴァンスが動き出したってことは、〈筆守〉たちが君の抹消に動く」
「じゃあ、俺は……正しいことをしてるのに、世界から排除されるってことか」
真人は吐き捨てた。だが同時に理解していた。
——物語を書き換えるということは、“物語の意志”とぶつかるということだ。
世界そのものが敵になる。
叙述庁の大広間には、空間ごと折り重なった“物語の断章”が保存されていた。詩、寓話、伝記、小説、祈り、呪い、童話、予言……全てが“語られた記録”として鎖に繋がれ、積み重ねられている。
「その中に、一つだけ“結末のない物語”があるの。かつて、君と同じ力を持った者が記したもの」
リラが指差すと、宙に浮かぶ本が現れた。
《虚構ヲ喰ラウ者——断章》。
それは、かつて存在した“先代の喰らう者”の記録だった。名も顔も失われ、ただこの一冊だけが残っている。
「彼は、自分で自分を物語から消したの。最後に、“語られない”ことを選んでね」
真人は本を開いた。ページの大半は空白だった。ただ、最後の行にこう書かれていた。
《つづきを、君が書け》
ページが、真人の指先で震えた。
そしてその瞬間、彼の背後に空間の裂け目が現れた。だが、それは虚無ではなかった。そこから現れたのは、顔のない少年だった。首から下げた札には、“空白の登場人物”と書かれている。
「君……誰だ?」
「僕は、“名前を持たなかった主人公”」
その声には、悲しさも怒りもなかった。ただ、虚ろで——まるで機械のようだった。
「かつて、語られなかった少年。その末路が、これさ」
リラがつぶやく。
「語られなかった者は、“誰でもない”存在になる。意味を失った登場人物は、他の物語を喰らうしかない。君もいずれ、そうなる可能性がある」
真人は少年を見据えた。
「なら、俺が“語ってやる”。お前の物語を」
「……?」
「お前が誰でもなかったなら、今ここで“誰か”にしてやる。それが“書く者”の役目だろ?」
少年の体がゆっくりと震えはじめた。無数の言葉が彼の体から溢れ出す。悲しみ、怒り、夢、嘘、過去、笑顔、そして——名前。
「お前の名前は……“ユウ”だ」
瞬間、世界が脈動した。
少年の身体が形を持ち、色を取り戻した。瞳に“自己”が宿った。
「ありがとう……僕の物語は、始まったんだね」
そして彼は、真人の仲間となった。
これは小さな奇跡にすぎない。
だが、世界は“語られた”ことで再び意味を取り戻す。
そして——物語は加速する。
〈筆守〉の総本部、《語律の塔》が動き出した。
世界の核心。物語の神々。運命の書記。語られることに執着する者たちの殿堂。
「虚構ヲ喰ラウ者、四条真人を“物語違反者”として排除する」
そう告げたのは、〈第一の語り部〉、アルシア・クローネだった。
彼女は神の代筆者。すべての物語の始まりを書いたとされる存在。
その手には、銀の羽根ペンが握られていた。世界を創る、最初の言葉を書くための道具——
「来い、“上書きする者”よ。君の物語が世界を壊す前に、終わらせてやる」
ついに、物語の神々と、“書き換える者”との戦いが始まる。
〈語律の塔〉は空の彼方に浮かぶ、終わらざる階層でできた神殿だった。
螺旋のように絡み合う階層群には、無数の“語られた世界”が封じられている。物語はそこに収められ、許可なく語ること、あるいは削除することは、最大級の“物語違反”として罰せられる。
真人は、ユウとリラを伴い、塔を目指していた。
「ここで俺が世界に抗えなきゃ、全部の物語が——喰われるだけになる」
旅の道中、彼らは数多の“物語の残骸”を見た。途中、語られなくなった村を越え、登場人物のいなくなった劇場を過ぎ、最終回を迎えられなかった英雄の廟を通った。
それぞれの場所には、“語られること”を望んでいたはずの魂が、誰にも読まれず、忘れられ、ただ沈黙の中に消えていっていた。
語られないものは、存在しない。
それは、四条真人にとって最も恐ろしい真実だった。
「物語を壊す力は、同時に希望にもなる。君は、ただ壊すために生まれてきたわけじゃない。そうでしょう?」
リラが問うたとき、塔の前に、一人の男が立ちはだかった。
「君か。虚構の異端者」
それは〈第二の語り部〉ジオ・マルシェン。
彼は“未完の英雄譚”として知られた男であり、自らを物語に閉じ込めたまま語り部となった存在だった。
「私の語る物語は、決して終わらぬ。完結などという冒涜を、許すものか」
彼の持つ大剣は、文章でできていた。刃の部分には、かつて彼が語った戦いの断章が刻まれている。
「来るがいい、“喰らう者”よ。語られぬ者が、語られし我らに挑むというならば、それもまた一つの悲劇となろう!」
その戦いは、刃ではなく“物語”そのものを武器としたものだった。
真人は“空白”を武器にし、ジオは“無限の繰り返し”で迎え撃った。
物語と物語がぶつかるたび、現実の一部が壊れ、記憶が書き換わり、存在が上書きされる。
「君は過去に囚われている! 永遠の戦いの中に、自分を幽閉してるだけだ!」
「それで構わぬ! 終わる物語に意味などない!」
「——あるさ。終わらせなきゃ、次は始まらない!」
真人が放った“終章の一節”は、ジオの剣を打ち砕いた。
その瞬間、無限に続いていたジオの物語は、初めての“幕引き”を迎えた。
「……ありがとう。ようやく、終われた」
ジオの姿が物語のページへと溶け込み、静かに消えていく。
その死は敗北ではなかった。
——“語られた”という意味で、彼は初めて“救われた”のだ。
真人たちはそのまま、語律の塔の上層へと進む。
その先に待っていたのは、塔の最奥。
白銀の部屋。中央に佇む、羽根ペンを持つ一人の少女。
「ようこそ、四条真人。私はアルシア・クローネ。“物語の始まり”を担う者」
少女は静かに語りかけた。
「あなたは、物語の枠を壊した。その行為自体が、この世界の根幹を崩している。けれど——だからこそ、私は、あなたに問いかけなければならない」
「……問う?」
「あなたは、“誰のために”語るの?」
その問いに、真人は言葉を詰まらせた。
最初は、自分のためだった。
力を手にして、目の前の理不尽に抗いたかった。ただ、それだけだった。
だが今は違う。
語られなかった者たち。存在を否定され、物語から零れ落ちたすべての魂に、もう一度“章”を与えるため。
「俺は——語られなかった者のために書く。物語から忘れ去られた人たちの“続き”を、俺が語る」
アルシアは目を細めた。
「その意志こそ、“書き手”の資格。……けれど、同時に“神への反逆”でもある」
塔が揺れる。
その揺れは、天の帳を裂き、世界の“語源”へと繋がる最後の戦場を開いた。
そこは真っ白な空間。
あらゆる言葉が生まれる“はじまりの頁”。
すべての物語の原初、世界の神話を記す“最初の一行”——
そこで待っていたのは、“語りの神”自身だった。
彼の姿は、顔のない書記官。
名を持たず、ただ無限の物語を記録し続ける存在。
「虚構ヲ喰ラウ者、問い直す。おまえは何者か」
真人は叫ぶように答えた。
「俺は、四条真人だ。誰でもない存在だったかもしれない。けど今は、“物語の続きを書く者”だ!」
最後の戦いが始まった。
筆と筆。物語と物語。始まりと続き。神と人間。
世界が崩れ、再構築される中——
真人は、“書き直し”の力で、神の言葉そのものを書き換えた。
——《この世界は、誰か一人の物語ではない》——
その一文が刻まれたとき、世界は新しい姿へと変わった。
語られなかった物語に章が与えられ、白紙だった人物たちが、自らの言葉で語り始めた。
物語は、すべての者が“語り手”であるという形へと、生まれ変わった。
真人は静かにペンを置く。
——これで、終わりだ。
いや。
——これが、“始まり”なのだ。
『鏡界ノ王、虚構ヲ喰ラウ者』
——完——