氷の令嬢ローレリアは大好きな王子に別れを告げることにした
「ジョシュア殿下、私たち婚約を解消いたしましょう」
氷の令嬢ローレリアは、ズキズキと突き刺さるような胸の痛みから目を逸らし、大好きなジョシュア第一王子に別れを告げた。
***
ローレリアがジョシュアと婚約したのは七歳のときだった。それから十年、ローレリアはジョシュアに夢中だった。
理知的な白い額、憂いのある紺碧の瞳、彫刻のような鼻、柔和な微笑みを形作る薄い唇、柔らかに波打つ黒髪、ほっそりしているのに自分とは違う筋肉を持つ体躯。深く豊かな声で、名前を呼ばれるのが好きだった。
「読みたいって言っていた本、二冊手に入ったよ。一緒に読もう」
ジョシュアは優しい。読書が趣味のローレリアと共に、同じ本を読んでくれるのだ。明るいけれど眩しくはない、静かで気持ちのいい部屋の窓際。大きな長椅子にふたりで腰掛け、ゆったりと本を読む。
ローレリアもジョシュアも、本を読むのはとても速い。きっと、ジョシュアの方が速く読めるのだけど。ジョシュアはさりげなくローレリアの進み具合を見て、同じぐらいになるように調整してくれる。ローレリアが笑ったり、怒ったりすると、ジョシュアも「そこ、おもしろいよね」「あの展開は苛立ったよ」って言ってくれる。
ふたりで色んなことを学んだ。勉強や乗馬、礼儀作法に語学なんかも。ジョシュアとふたりなら、難しい歴史も楽しく学べた。
でも、いつからか、ジョシュアの瞳にローレリアが映らなくなった。ローレリアの定位置だったジョシュアの隣に、マドレーヌがいるようになった。
ローレリアの妹、マドレーヌ。可憐で愛くるしい、あざとかわいい妹。
◇◇◇
「ジョシュア様は、マーヌのものよ」
そう言って、ジョシュアの腕にギュッと腕を絡めると、ジョシュアは仕方ないなあって表情でマドレーヌを見つめる。思春期の男子はさりげない接触が効果的。母の教えは今回も的中した。
「斬新な女になりなさい。お淑やかなレディに囲まれた王子は、毛色の変わったイタズラ子猫が新鮮なのよ」
母にそう言われて、天真爛漫なイタズラ少女を演じている。プクーッと頬を膨らませて拗ねてみたり、笑顔でピョンッと飛び跳ねてみたり、素朴なクッキーをプレゼントしてみたり。清く正しく美しい公爵令嬢の姉には、できないこと。
マドレーヌは、姉のローレリアと同じ父を持つが、母は違う。マドレーヌの母は、愛人だった。正妻である、ローレリアの母が亡くなってから、まんまと後妻となったのだ。
「お継母様ではなく、お母さまと思って呼ぶように。マドレーヌのことも、異母妹などと思わず、本当の妹として仲良くやりなさい」
綺麗事が大好きな父が、品行方正な姉に言う。正妻の娘とひとつ違いの愛人の娘を仕込んでおいて、ぬけぬけとしている父。マドレーヌからすると詭弁でしかないが、真面目な姉ローレリアは、期待に応えようと努力する。マドレーヌは、「お姉さま」となついてみせる。仲の良い家族ごっこ。皆が上手に演じていた。
魔女の血を引くマドレーヌが、ローレリアの婚約者を取り込もうとするまでは。
「お姉さまは、欲しいものがあれば言いなさいって言ったわよね。ジョシュア様が欲しいの」
マドレーヌのおねだりを、ローレリアはすげなく断った。
「ドレスやアクセサリーは譲ってもいいわ。でも、ジョシュア様はダメ。人は物ではないのよ、あげることはできないわ」
ローレリアが珍しくピシャリと冷たい口調で言う。ジョシュアへの執着が見てとれる。それを横取りするのは、さぞかし胸が高鳴るだろう。マドレーヌはウキウキした。母と共に、魔女の術や魔道具、魅了の魔石、媚薬などを駆使して、少しずつジョシュアを籠絡する。
「あともう少し。公爵家も未来の王妃の地位も、王国も。手に入れるわ」
マドレーヌはジョシュアの笑顔を見ながら、心の中でつぶやいた。
◯◯◯
彼女の全てが好きだ。僕を見上げる潤んだ瞳。集中してるときに、口が尖って少しおかしな顔になるところ。意外とお転婆なところ。お茶菓子を選ぶときの真剣な様子。
「たくさん食べるとすぐに肉がついてしまいますの。少しだけ。好きなものを少しだけ。ですから、これぞというのを選びたいではないですか」
照れくさそうに言い訳を述べる口。なんでもそつなくこなすのに、自信がないときは指がソワソワと動く。僕だけが知っている、彼女の素顔。
***
マドレーヌがジョシュアの腕にまとわりついている。ローレリアは拳を胸に押し当てた。ジョシュアの優しい笑顔を見るのは、苦しい。今までは、ローレリアに向けられていたもの。
苦しくても、辛くても、負の感情は顔に出してはいけないと教えられてきた。
「広い湖の水面のように。落ちた小石のさざなみを、深く受け止め、凪いでいるように」
それが国母たる者のありかた。ローレリアの水面は、凍てついた冬の湖。もう、涙も枯れた。マドレーヌの頬をひっぱたければ、少しは心が晴れるかしら。見損ないましたって、冷めた目でジョシュアに言い放てば、溜飲が下がるのかしら。
よりにもよって妹に心変わりしたジョシュア。無邪気なフリをして、姉の婚約者を奪うマドレーヌ。どちらも許せない。
「王城の屋上から、ふたりを呪いながら飛び降りてみたらどうかしら」
ふたりの評判は地に落ちるだろう。文字通り、道連れだ。フラフラと、ローレリアは王城の屋上に向かった。燃えるような夕陽。ローレリアの残っていた理性が、溶けていく。
「ジョシュアのバカ。愛しているのに」
マドレーヌ、あんな小娘はどうでもいい。見え透いた浅はかな女。それに引っかかったジョシュア、かすめとられた自分に腹が立つ。負けたのだ。そう、みっともなく、敗れたのだ。格下だと、無意識に見下していた腹違いの妹に。
「バカは、私」
ローレリアの氷の水面を、夕焼けが照らす。
「ジョシュア殿下、私たち婚約を解消いたしましょう」
ローレリアは、大好きなジョシュアにそう告げることを決意した。
◇◇◇
「しぶとい女ね、まったく」
マドレーヌはギリギリと歯を食いしばる。
「どこに隠れているのかしら。屋敷にはいないんだけど」
あと少しだったのに、消えてしまった。狂乱して醜態をさらすでもなく、追い詰められて自ら死を選ぶでもなく。
「修道院にでも行ったのかしら」
公爵家の箱入りお嬢さんが、ひとりで修道院までたどり着けるとも思えない。
「居場所が分かったら、次は」
もう少し強めの手段を取ろうか。マドレーヌはどうやってアレを虐めるか、ウットリと策を練る。さりげなくジョシュアとの会話を仄めかし、揺さぶりをかけるのは楽しかった。お茶に微量の薬を混ぜ、様子を観察するのも心躍る時間だった。部屋に忍び込み、ジョシュアとの思い出の品を盗んだり、壊したり。アクセサリーに細工を施し、人から不快に思われる呪いをかけたり。
「突き落とすのが簡単ね。芸はないけれど」
呪いも魅了も薬も、強すぎるとなんらかの痕跡が残ってしまう。手っ取り早く単純な方法が、良さそうだ。
「階段か屋上か。高いところに誘導しなくては」
トンッと背中を押すその瞬間、手に伝わるであろう感触を想像すると、ゾクゾクする。
◯◯◯
トンッと背中を押された瞬間、ジョシュアは振り返ってマドレーヌの腕を取り、捻じ上げた。
「第一王子である私の暗殺未遂、現行犯だ。私への魅了や薬、呪いの使用も分かっている。マドレーヌ、余罪を徹底的に調べるから覚悟しろ」
隠れて見守っていた衛兵にマドレーヌを渡すと、ジョシュアは長いカツラをはずした。ローレリアの髪に似せたカツラと女装、そして認識をあいまいにする魔道具。ローレリアのフリをして屋上で待つと、マドレーヌは簡単に罠にかかった。
「ジョシュア様、違います。そんなつもりはございませんでした。何かの間違いです」
マドレーヌが大きな瞳に涙を浮かべながら、叫んでいる。ジョシュアは取り合わない。もう、この女に関わるのはウンザリだ。
ジョシュアは私室に戻り、次々と届く報告に耳を傾ける。
「マドレーヌの母と父も取り調べております」
「マドレーヌの部屋から、大量の魔道具と薬が見つかりました」
「マドレーヌが自供を始めました」
「マドレーヌの母の部屋から、禁書の魔術書が見つかりました」
ジョシュアの指示で、魔術書が隅々まで研究される。やっと、ローレリアにかけられた呪いが判明した。
「ほんのちょっとした手違いが積み重なって、重大な結果につながったようです」
黙って先を促すジョシュアに、魔道士長がひとつずつ説明してくれる。
「ジョシュア殿下がローレリア様に贈られた首飾りですが、多数の防御魔術が施されておりますよね」
「そうだな。魅了、毒、呪い、物理攻撃などを防御できるようになっている。私の婚約者なのだ、いつ誰に狙われるか分からないから」
王族だけが使うことを許される国宝級の魔道具を、ローレリアに持たせていたのだ。絶対に、ローレリアを守りたかったから。ジョシュアも同じような魔道具を持っているので、効果はよく知っている。
「マドレーヌとマドレーヌの母は、ローレリア様に少しずつ呪いや薬を仕込んでいたようなのです。しかし、ことごとく効かなかった」
「それはそうであろう。生半可な悪意は跳ね返せる代物だ」
「マドレーヌの母が、跳ね返った悪意を吸収して、溜め込んでおける肌着を作ったようです。複雑な魔法陣を縫い込んだ肌着」
ジョシュアは一瞬息を止める。
「ローレリア様が、ジョシュア殿下に婚約解消を切り出されたあの日。ローレリア様は首飾りを外し、殿下に返そうとなさいました」
ローレリアの手からジョシュアの手に渡された首飾り。すぐにジョシュアはローレリアの首に、首飾りをつけ直した。
「あの一瞬の隙間で、溜め込まれた悪意がローレリア様の全身を包んだのです。つけ直された首飾りは、瞬時に主の時を止めることで、主の命を守った」
「それが、ローレリアが氷になった理由か」
ジョシュアは一瞬うつむいたが、すぐに顔を上げる。
「ローレリアを元に戻す方法は分かったか?」
ジョシュアの祈るような問いに、魔道士長は静かに頷いた。
***
「ジョシュア殿下、私たち婚約を解消いたしましょう」
目覚めたローレリアが最初に放った言葉。繰り返された別れの言葉。ジョシュアは、口づけすることで、その言葉を封じた。二度目の口づけ。一度目は氷の唇に、解呪の術式を吹き込みながら行った。
冷たく固いローレリアの唇を、ジョシュアの温かい唇が覆う。溶けていくローレリアの服を、侍女たちがハサミで切り刻んだ。ローレリアの呪いの肌着は細切れにされ、暖かい毛布が代わりにローレリアを包む。
ジョシュアは目をつぶって、ただローレリアの口をふさぎ続けた。ローレリアのかすかな瞬き、わずかなまつ毛の動きで、ジョシュアは目を開ける。口はつけたまま、魔道士長の様子を窺う。
侍女に合図され目を開けたらしい魔道士長は、ローレリアの様子を見て力強く頷いた。
ジョシュアはゆっくりとローレリアから唇を離す。そして、目覚めたローレリアに、二度目の別れを告げられたのだ。
ジョシュアの涙がローレリアの頬に落ちる。ジョシュアは泣きながら、微笑んだ。
「それはできない、ローレリア。僕が愛しているのは、ローレリアだけだ。ローレリア、僕の話を聞いてくれないか?」
弱っているローレリアを抱きかかえ、本物の口づけをする。ローレリアは弱々しく拒絶するが、ジョシュアは何度も何度もキスをした。ローレリアが話を聞くと言ってくれるまで。
恥ずかしさと混乱からだろうか、真っ赤になっているローレリア。ジョシュアはローレリアに温かい薬草茶を少しずつ飲ませる。抱きしめたまま、今までのことをローレリアの耳元でささやく。
「まあ、私が氷に? 陰で氷の令嬢と呼ばれているとは聞いておりましたが。まさか本当に氷になるだなんて」
「僕の腕の中でローレリアが凍っていったときは、絶望したよ。氷になっても、生きていると分かったときは、少しだけホッとした」
ジョシュアのまつ毛がかすかに揺れる。間近で見ているローレリアだけが、それに気づいた。
「君の妹と母をもっと早く捕らえていればよかったのだが。あのときはまだ、証拠が揃っていなかったのだ。泳がした結果、君を追い詰めてしまった。まさか心変わりを疑っていたとは。僕が君以外を好きになることなんてないのに」
「でも、あんなに嬉しそうに腕を組んでいたではありませんか」
「嬉しそうに見えた? すぐにやんわり離れたのだけど。そこは見ていなかった?」
「すぐに立ち去ったので」
「そう。誤解を招く行動をして、すまなかった。ローレリアを傷つけて悪かった。ごめん」
「私も、もっと早く、ジョシュア様に問いただしてみればよかったのですわ。ギリギリまで我慢して、極端な結論を出してしまいました」
「ローレリアの怒りはよく伝わってきたよ。氷になっているときの君の顔、すごく怒っていたから」
「まあ」
ローレリアは両手で顔をおさえた。
「怒っていようが、氷になっていようが、君が生きていてくれるだけで嬉しかった。でも、今はもっと嬉しい。もう二度と離さない」
「まあ」
ローレリアは、ジョシュアにきつく抱きしめられて、間抜けなまあしか言えなかった。
「公爵、君の父には引退して蟄居してもらう。後継者は君だけど、王太子妃と公爵を両方するのは大変だろう。優秀な家令か、遠縁の誰かに任せてもいい。候補を探しておく」
「はい、ありがとうございます」
「君の継母と異母妹。処刑ではなく、終身刑とする。魔力が強いようなので、色んな魔道具の実験体になってもらう代わりに、命を助けた」
ジョシュアが少し怖い笑顔を浮かべる。ローレリアは背筋がゾクリとした。
「しばらく氷になってもらおうかな」
平然と恐ろしいことを口にする。ローレリアはでも、止めなかった。
「私、思いますに。私がジョシュア様とふたりで幸せになることが、一番の仕返しではないかしら。あの子、私のことが大嫌いみたいですから」
ローレリアもニコリと微笑んでみせる。ピクリとジョシュアの頬がひきつった。
「ふたりで幸せになろう」
「ええ」
かつて氷の令嬢と呼ばれたローレリア。ジョシュアの寵愛を一身に受け、今では光の女神と呼ばれている。それを、たまに氷になる母娘が、ギリギリと悔しそうに見ているともっぱらのウワサだ。
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