07:わがままな令嬢
声のした方を向けば、こちらをじっと見つめてくる一人の女性。年はキャンディスと同じくらいか。身形を見れば相応の家の令嬢だと分かる。
隣で宥めているのは姉妹だろうか。どことなく顔が似ている。二人とも美しいドレスを纏っているが、声をあげた方の少女の方が派手で豪華な装いだ。
「あの方は……、さっぱり思い出せませんね。知らない人だ。よし、帰ります!」
「エルシェラ伯爵家のご令嬢ですよ」
三秒ほど悩んで即座に匙をぶん投げれば、背後にいたスティーツが教えてくれた。
ところでいつの間にスティーツは背後に立ったのだろうか。なんとなくだが彼から帰らせまいという空気が漂っている気がする。
相変わらず麗しい顔。だがその奥に面倒事に対する嫌悪のようなものが見え隠れしているが、これはきっと見間違いではないだろう。
「エルシェラ伯爵家……。あぁ、ラーラ様とミレーナ様」
姉のラーラ・エルシェラと妹のミレーナ・エルシェラ。
田舎出の末端騎士キャンディスでも知っている――思い出せなかったけど――有名な姉妹だ。
なにが有名かと言えば……、
「ミレーナ、我が儘を言わないで。お願いだから困らせないでちょうだい」
「いやよ。私ずっとスティーツ様と踊りたかったの。あの騎士だけ踊るなんてずるいわ」
ミレーナが口にした『あの騎士』とは言わずもがなキャンディスの事だ。
たとえ爵位のない末端騎士に対してとはいえ、こうも明け透けに羨み「ずるい」とまで口にするのは品が無いにも程がある。
現に周囲もこの言い分に眉を顰めている。
対して「ずるい」と発したミレーナはそんな周囲の反応を気にもかけず、姉の制止の言葉すら無視してツカツカと会場内を歩いてこちらに来る。
面倒臭い事になりそう。
というか『なりそう』ではなく、これは確実に面倒な事になる。絶対になる。
そんなのご免だ、とキャンディスが逃げようとするも、先程からぴったりと背後についたスティーツがそれを許さない。
「この男……!」とキャンディスが心の中で愚痴って彼を見上げた。
もっとも、スティーツはそんなキャンディスの視線を受けてもなお涼やかな顔をし、そしてその顔は麗しい。切れ長の瞳が細められ、形良い唇が弧を描く。その微笑みはさながら『なにか?』と尋ねているかのようだ。
だがやはり腹に一物抱えている男の麗しさである。キャンディスの好みではなく、そもそもユベールの顔の良さには足元にも及ばないのだ。
つまりどれだけスティーツが麗しかろうと、キャンディスにとって彼は自分の背後に立つ男でしかない。
正確にいうなら『自分の背後に立って退路を断つ嫌な男』である。もはや顔がどうのの話ではない。
厄日だ、と心の中で呟くのとほぼ同時に、ミレーナが話しかけてきた。
「あなた! いまスティーツ様と踊った騎士、名前はなんて言うの!?」
「はぁ……、キャンディス・クラリッカと申します。以後お見知りおきを」
「スティーツ様、どうしてこの騎士とは踊ったんですか? 私、何度もお誘いしたのに応じてくださらなかったじゃないですか。私の方がスティーツ様と踊りたいのに、ずるいわ!」
酷い、ずるい、とミレーナがスティーツを見上げる。その口調も言い分も、まるで駄々をこねる子供のようではないか。
周囲はこれに対してまたかと言いたげな表情を浮かべていた。
エルシェラ家の姉妹は社交界では有名である。
だがけして良い意味ではない。むしろ悪評として名が知れ渡っている。
その原因が今まさにキャンディスの目の前で繰り広げられている妹ミレーナの『ずるい』だ。
エルシェラ家次女のミレーナは今年で十六歳になるが、どうにも子供のような性格が抜けず、とりわけ何かに対して羨むことが多い。
他人の持ち物を「ずるい」と妬み、なにかあれば「私も、私の方が」と言い張る。
そのたびに姉のラーラが窘めるのだが聞く耳もたずである。
「ミレーナ、ダンスを踊るのにずるいなんておかしな事を言い出さないで。お願いだから恥をかかせないで」
「ラーラお姉様は昔スティーツ様と踊ったって言ってたじゃない。お姉様もずるいわ! みんなずるい!」
ミレーナが不満を訴える。
それをキャンディスは意識を自宅へと吹っ飛ばしながら聞いていた。
今自分の心と意識は既に帰宅し、夜食の用意をするユベールとリアを眺めている。
最近ユベールはリアの手伝いで台所に立つことが多くなった。
豆のサヤ取りや野菜の皮むきから始まり、最近は自ら一品作るようになっている。おかげで調理の効率が上がっているようで食卓が潤っている。
そういえば、明日はクッキーを焼くと言っていた……。
「ユベール様にもエプロンがあったほうがいいかな。水色か、青か、刺繍やレースがあしらわれたエプロンも似合いそうだなぁ。いや、でもエプロンに関しては顔の良さを引き立てるためのものじゃないし、機能性を重視しないと。それなら本人に選んでもらうのが一番かな。ちょうどいいからリアと三人で買いにいって、リアのエプロンも新調して……」
「キャンディス、キャンディス、なにを考えてるか知りませんが、今ここで考えごとはやめてくれませんか」
背後からスティーツに名を呼ばれ、更に軽くトンと背中を叩かれ、キャンディスがはっと我に返った。
危なかった。現実逃避のために自宅に帰っていた意識と心が今度はエプロンを買いに出かけてしまうところだった。
「えぇっと、それで……。そうだ、スティーツ様とダンスどうのでしたね。ずるいと言われても……」
「私がキャンディスにスティーツと踊るように言ったのよ」
「……レベッカ様」
横から割って入るように現れたのはレベッカだ。
堂々とした歩みで会場内を歩く。その姿は麗しく、彼女の隣には第二王子ソエルの姿もある。
公爵家令嬢であり聖女レベッカの登場に、誰もが場を譲る様に口を噤み、ラーラが深く頭を下げた。
もっとも、
「レベッカ様、どうしてキャンディスとスティーツ様を踊らせたんですか? ずるい! それなら私にも口添えしてください!」
開口一番に駄々をこねるミレーナは別である。
「ここまで来ると潔くて良し。……おっと失礼しました、つい心にもない言葉が出掛けてしまいました」
「全力で心の声を九割漏らしていた気がしますが」
ついうっかりポロリと漏れ出たキャンディスの本音に対して背後からスティーツの鋭い指摘が入る。
だが幸い漏れ出た本音に言及するのは彼だけだ。
ミレーナはじっとレベッカを見つめ、そんなミレーナの態度にレベッカは冷ややかに彼女を見返している。哀れ姉のラーラだけが青ざめミレーナに謝るように促しているが、今更姉の言葉で引くわけがない。
周囲もさすがに口を挟むことは出来ず、好奇心を隠しつつ野次馬に徹するだけだ。
巻き込まれ損だ、とキャンディスが内心で愚痴を漏らすと――幸いこの愚痴はポロっと口から漏れ出る事は無かった――、背後でコホンと咳払いが聞こえた。
スティーツだ。彼はこの状況を前にしても涼やかな笑みを浮かべている。……胸中はどうだか知らないけれど。
「私がキャンディスと踊ったのは彼女が騎士として鍛えているからです。お恥ずかしい話ですがダンスは不慣れで、足を踏んでしまうかもしれません。その点キャンディスは騎士として鍛えているし、今日も騎士隊の頑丈なブーツを履いているから問題ないと判断し、練習に付き合って頂いたんです」
スティーツの形の良い口が、まるでそうであったかのように説明の言葉を紡ぐ。
挙げ句に穏やかに微笑んで「そうですよね?」とキャンディスに同意を求めてくるではないか。相変わらず見目の良い顔だがそこには同意以外は許さぬという圧がある。
その圧をひしひしと感じながら、キャンディスは「仰る通りです」とだけ返した。
彼は異論は認めぬと圧をかけているが、いったいどうしてこんな面倒な場で更に面倒になることが分かって異論を口にするというのか。
「そう……、そうでしたのね。それならスティーツ様、ダンスがお上手になった際にはぜひ私の相手をしてくださいね。絶対ですよ。私が一番最初ですからね」
「覚えておきます」
スティーツは約束はせず「覚えておく」という言葉で濁したが、ミレーナはそれに気付かず、満足そうに「では失礼します」と今更上品ぶった態度でその場を後にした。
背中だけでも分かる得意げな歩み。対して彼女を追うラーラの後ろ姿は疲労を感じさせ、憐れにさえ思えてしまう。
さながら台風が過ぎ去ったかのような勢いではないか。キャンディスが思わずほっと息を吐けば、それに気付いたレベッカがこちらを向いた。
「キャンディス、ごめんなさいね。私が呼んだせいで騒がしいところを見せてしまって」
「いえ、レベッカ様のせいではありませんのでお気になさらず。ちょうど良いので外の警備に戻らせて頂きます」
「そんな、もう少し中に居ても良いんじゃない? ミレーナには近付かないように釘をさしておくから」
「お気になさらず。それにミレーナ様のことも気にしていません。……私は」
ふと、キャンディスはミレーナが去っていった先に視線をやった。
ミレーナは『ずるい』と子供のような駄々をこねていた。それも公爵令嬢レベッカにまで。挙句スティーツに対しても無理矢理にダンスの約束を漕ぎ着けた。
それは確かに恥ずべき姿だ。貴族の令嬢として、否、貴族でなくとも年相応の女性としてもっと落ち着きと思慮深さを養うべきである。
だけど……、
「私は、ああいう単純で我が儘な人は嫌いじゃないんです」
そう告げて、キャンディスはその場で一礼すると足早に会場をあとにした。
◆◆◆
「キャンディスのあの性格ではミレーナ・エルシェラのような騒がしい人物は嫌いだと思っていましたが……」
意外だと言いたげに呟いたのはスティーツ。
キャンディスが去っていった先を見つめてふむと考え込む。その姿はまさに麗しく知的な宰相で、周囲の女性がチラチラと彼に視線を向けている。
だが今のスティーツの興味は周囲の女性達ではなく去っていったキャンディスだ。それと彼女が最後に発した意外な言葉。
「あぁでも、単純という意味では、真実の愛だのと騙されたユベール様もそうでしたね。だから彼を譲り受けたのでしょうか」
「……」
「……レベッカ様?」
返事が無いことに違和感を覚えたスティーツがレベッカへと視線をやり、次いで眉根を寄せた。
華やかさと賑やかさを取り戻しつつある会場の中、レベッカだけは静かに眉根を寄せ、何かを惜しむように、苦しむように顔を歪めていた。