40:あの子とのお別れ
王宮の広間。重苦しい空気が漂う中、キャンディスは一歩引いたところで報告を聞いていた。
隣にはユベール。まだ怪我は癒えてはおらず顔の半分を包帯で覆っており痛々しい姿だ。
だが傷の治りは順調なようで、あと少ししたら包帯を外せるようになると医者から言われている。
そんな彼をじっと見つめていると、視線に気付いたのかユベールがこちらを向いた。片目だけで、右目しかないキャンディスを見つめ返してくる。
「またいつものか」
「はい。たとえ顔の半分を包帯で覆っていようと、傷跡がどれほど残ろうと、この部屋の中で一番顔が良いのはユベール様です。これは揺るぎない事実、誰も覆せません。だからこれだけは伝えておこうと思いまして」
「そうか。伝えてくれてありがとう」
ユベールからの感謝の言葉にキャンディスは満足そうに頷いた。
ミモア・ミルネアは現在国内のとある場所に幽閉されており、正式な手続きと調査の末、公爵令嬢に危害を加えようとした罪で処罰される予定だ。フレノア国も巻き込み国家間の問題にまで発展させた罪もあり、彼女への処罰は相当重くなるだろう。
彼女を庇うかと思われたフレノア国のリベルタ王子も、ミモアの執着が己ではなくレベッカに、それもレベッカの次期王妃という立場に向けられていると知ると彼女を見限ったらしい。
百年の恋も一時に冷める、とはまさにこの事。あの雪の夜の騒動はリベルタ王子の恋心すらも凍てつかせて砕いたのだ。
それどころか、リベルタ王子はミモアを見限るや一転して被害者の立ち位置に着いたらしい。
「この件に関して、リベルタ王子は『聖女であるミモアには人を誑かす力があるのではないか』とこちらに調査を強いています。その力のせいで騙されたと仰りたいのでしょう。こちらの出方によっては、今まで築いた国家間の関係が崩れる恐れもあります。……報告は以上です」
スティーツが一礼して話を終える。
その表情は相変わらず涼やかではあるが、瞳の奥には「面倒な事この上ない」という訴えが見え隠れしている。
彼だけではなく、誰もがこの話に、そして今後に対して渋い表情をしていた。
キャンディスも同様、今の話にはさすがに眉根を寄せてしまう。
ミモア・ミルネアこそ捕縛したが、どうやらこの件はまだ終わっていないらしい。
それどころかフレノア国を巻き込んでより面倒になってきた。
フレノア国も王子を誑かされたのだから容易には引いてくれないだろう。だがこちらとしても、ミモアを匿われ、更には国内に騎士を引きつれて来られたのだから責められてばかりではいられない。
かといって事の発端は自国の次期王妃の座を巡るトラブルなのだから……、と、落としどころが難しい。
そして落としどころを長く悩んでいれば近隣諸国に事情を知られかねない。両国ともに、今回の件はあまり他国に知られたくないのが正直なところである。
これはまた面倒な。
そうキャンディスは想像以上に広がっていく問題に心の中でうんざりとし……、だけど、と考えて片手を上げた。
「発言の許可を求めます」
重苦しい空気が漂う広間の中、突然のこの発言に誰もがぎょっとした。……それも声を上げたのが以前にこの流れで突拍子もない発言をしたキャンディスなのだから尚更。
両陛下や重役達は「また何か言い出すのか」と怪訝な顔をし、スティーツとバロックは「次は何を言い出すんだか」と若干の呆れを込めた顔だ。レベッカは困惑で眉尻を下げている。
キャンディスの突拍子もない言動に慣れたロブに至っては「俺はあと少しで田舎に帰るから自由にしろ」とここにきて放任主義である。次いでロブがこそりと隣に立つユベールに声を掛けた。
「この期に及んで、いったい何を言い出すんでしょうか」
「分からないけど、きっと俺にとっては良い事だ」
ユベールの口調には迷いも照れも無く、それを聞いたロブが返事代わりに肩を竦める。
そんな十人十色な反応をする中、キャンディスは堂々と手を上げたまま再度「発言の許可を求めます!」と声を上げた。
念を押すように高らかに。先程より幾分語気が強くなるのは「手が疲れるので誰か反応してください」という思いも込めたからだ。
それに応えるように恐る恐る声を掛けてきたのはレベッカである。様子を窺うように近付いてくる。この光景はまるで以前の、ユベールが欲しいと言い出した時のようではないか。
「キャンディス……、発言の許可って、何か言いたい事があるの?」
「はい。よろしいでしょうか」
「えぇ、もちろんよ。貴女の意見も聞かせてちょうだい」
促すレベッカの口調はまるで子供の機嫌を取るかのようだ。
今まで己の正体を隠していたことへの罪悪感、キャンディスが王都に来た目的に薄々気付いていてもなお言い出せずにいた後ろめたさ、そういった複雑な感情が綯い交ぜになっているのだろう。元のレベッカ・フォルターへの申し訳なさもあるのかもしれない。
だがそれが分かってもキャンディスはレベッカを気遣うことはせず、彼女に対してはチラと一瞥し「ありがとうございます」と淡々と返すだけに留めた。すぐさまこの場で一番権威のある陛下へと視線を向ける。
そうして誰もがいったい何を言い出すのかと視線を向けてくる中、はっきりと告げた。
「私、もう関係ないんでユベール様と帰らせてもらいます」
堂々とした帰宅宣言に誰もが言葉を失い、広間がシンと静まり返った。
だがキャンディスはそれすらも気に掛けず、自分の発言の異質さすらも気にせず返事を待つ。
レベッカが目を丸くさせ「え……?」と躊躇いの声を漏らした。
「帰るって……。まだ話は終わってないのよ?」
「そうみたいですね。でも私はもう関係ありません。それにユベール様だって、ミモアが捕まってフレノア国との問題になればもう関係ないでしょう」
そもそも今回だってユベールはミモアに利用されかけていただけだ。関与といって良いのか微妙なところである。
そのミモアも捕まり、そして問題はフレノア国との国家間がどうのへと広がっている。
となれば、ミモアにすらも捨てられた元王子などもう関わりようもない。それにユベールは怪我人なのだから、心労の溜まる場所に長居するのはよろしくない。
キャンディスに至ってはユベールと一緒に過ごしているだけで、ミモアに関しては一貫して第三者の立ち位置である。調査も命じられていないのでスティーツやバロックよりも無関係だ。
だから帰る。
もう関係ないし、興味もない。
……ミモアの事も、目の前に立つレベッカの事も。
そんなキャンディスの胸中を察したのかレベッカが困惑の色を強め、それでもと引き留めようとしてくる。
彼女の隣に立ち肩に触れるのはソエルだ。随分と渋い表情をしている。両陛下も近付いたりはしないがこの主張に対して怪訝な表情を浮かべている。
無礼なと言いたいのだろう。だがキャンディスにだって言い分はある。
「そもそも、レベッカ様は聖女であることをユベール様に黙っていたじゃないですか。私にだって、私が一緒に過ごしたレベッカ様はいないことをずっと黙っていた。話すらしてくれなかった」
「それは……、ユベールに言わなかったのは、彼が次期王としての素質があるかを見定めるためだったの。貴女には……、黙っていてごめんなさい。怖くて言い出せなくて……」
「別に謝って頂きたいわけじゃありません。話をしない理由がそちらにあるのも理解しています」
「それなら……!」
「そちらに話をしない理由があるように、こちらにだって話を聞かない理由があるんです」
何かを言おうとしたレベッカを、遮るようにキャンディスが言い切った。
はっきりと拒絶の意思を込めて。
ここまで拒絶を示したのは初めてだ。
今まではレベッカのどこかにあの子が居るかもしれないという思いを引きずっていた。声は届くかもしれない、見えてはいるかもしれない、そんな僅かな可能性を考えていたのだ。
だけどもうあの子は居ない。
だからもう話を聞く理由は無い。
「私、無関係なのでもう故郷に帰ります」
「故郷……。アデル村に?」
「はい。騎士業はもう終わりにして、故郷に帰ることにしました」
淡々と告げて、懐から一通の手紙を取り出した。
除隊希望を書き記した書類。もっともこれ一通で国に務める騎士業を辞められるわけがない。申請書やら手続きやらは追って準備するつもりだ。
これはその第一歩。もう騎士業にも未練はないという意思表示。
キャンディスの意思が揺らぎようがないことを察したのか、レベッカが物言いたげな顔で、それでも声を出せずに見つめてきた。
罪悪感と後悔を綯交ぜにした、弱々しく儚く、今にも泣きそうな切なげな顔。その顔は繊細で美しい。
だけど……。
そんな顔、あの子はきっとしない。
自分が悪くても、あの子は己の非を認めずにいるはずだ。高飛車で我が儘で自分が一番な子だから……。
あぁ、やっぱりもう居ないんだ。
「レベッカ様………」
ポツリと呟くように名を呼べば、レベッカがはっと息を呑んだ。
揺らいていた彼女の瞳がまっすぐにキャンディスをとらえる。縋るような瞳。ゆっくりと手を伸ばすのは引き止めるためか。
その手が触れる直前、キャンディスは口を開いた。
「貴女が良い人だということも、次期王妃に適していることも、そうなれるように努力していたことも知っています。貴女の中にあの子を探しながら、私はずっと貴女を見ていたから……」
「……キャンディス」
「貴女に非がないことも、貴女だってどうしようもないことも分かっているんです。……だけどどうか、私だけは貴女を嫌いでいさせてください」
別れの意思を込めて、今ようやく、はっきりと「嫌い」と告げた。
無慈悲だということは自覚している。
レベッカの中にいる今のレベッカには何の非もなく、彼女だって自身に降り掛かった奇妙な人生を必死に生きているだけなのだ。自分の末路が最悪なものだと分かれば誰だって回避しようとするのは当然。
それを責めるのは酷である。それは分かっている。
だから別に何かする気はない。ミモアのように引きずり降ろそうとも思わないし、この事を世間に言いふらして糾弾する気もない。
ただ嫌うだけだ。
「あの日、貴女が私に謝ったすべての事が、私にとっては大事な思い出だったんです」
屋敷に泊まるように言われた事も、強引に一緒に寝るように命じられた夜も、一緒じゃないと勉強しないと言われて共に受けた授業も、付き合わされたダンスの練習も。
あの夜の、手を繋いで見た美しい雪景色も……。
全てキャンディスにとっては大事な思い出だ。
だけどそれを、今目の前にいるレベッカは全て過去の己の愚行と切り捨てて謝ってきた。
そんなキャンディスの訴えに対してレベッカは一瞬言葉を詰まらせ……、そして出しかけていた手をゆっくりと引いた。やり場のない思いを込めているのか、白く細い手がぎゅうと強く握られる。
彼女の手が震えているのを見ても尚、キャンディスの胸には何も響かなかった。
「……騎士としてよく勤めてくれました。故郷でもどうか……、元気で」
レベッカの言葉は僅かに上擦っているものの、高い身分に君臨する者らしさがある。
公爵家令嬢として、次期王妃として、王都を離れる一介の騎士に対しての労い。過度に褒めることも引き留めることもしない、定型文とさえ言える言葉だ。
それを言い終えると、レベッカは踵を返して元いた場所へと戻っていった。
彼女の背を見届け、キャンディスは大きく息を吐いた。
「……では、これで失礼致します」
退室の言葉と共に頭を下げるのは一応の礼儀である。
騎士としてではなく、もちろん今回の件の関係者としてでもなく、あくまで一国民として国の上層部にいる者達への礼儀。そして心の中では、これで終わりにしたいという気持ちもあった。
そんなキャンディスの胸中を察してか、もしくは退室の意思が強いと察してか、それとも引き留める事をしなかったレベッカを尊重するためか、両陛下やソエルも何も言ってこない。ただ黙ってキャンディスの次の行動を見守るだけだ。
彼等の視線を受けながら、キャンディスはユベールへと向き直った。彼が苦笑と共に肩を竦めるのは一連のやりとりへの労いだろうか。
「アデル村に帰るのか」
「はい。王都にはもう用はなくなりました。これからもっと面倒なことになりそうだし、ここが潮時ってやつですね」
「そうか……」
キャンディスの話にユベールが苦笑交じりに「お前らしいよ」と返してきた。
この言葉は、面倒な事になるから故郷に帰るという考えに対してか、それをこんな場で言い出すことに対してか、もしくはその両方か。
だがなんにせよユベールの表情は晴れ晴れとしたもので、次いで彼はゆっくりと片手を差し出してきた。
「俺も連れて帰ってくれるだろ」
彼の声には躊躇いや戸惑いの色はなく、問いかけの色すら薄い。答えなど分かり切っていると言いたげだ。
そんなユベールの言葉と差し出される手に、キャンディスは微笑んで返した。
「もちろんですよ。ユベール様は私が貰ったんですから」
そう告げて、差し出される彼の手を取った。