38:アデル村のあの子
「昔、アデル村に貴族の別荘が建ったんです。田舎村の一番奥、そこだけ別の景色を持ってきたみたいに豪華なお屋敷でした。そこに私と同い年の令嬢が家族と一緒に移り住んだんです」
これから多忙になる娘のため、今だけは家族で落ち着いて過ごせるように。
……というのが理由だったらしいが、今となっては微妙なところだ。もしかしたら我が儘な娘に困り果てて、一時的にでも社交界の目から逃れようと考えたのかもしれない。
そう考えてしまうほどに、その家の令嬢は我が儘だった。
我が儘で自己中心的で、自分が一番じゃないと気が済まない。思い通りにいかないと周囲の目も気にせず喚いていつも周りを困らせていた。
そんな性格なのだから彼女は村の子供達に馴染むことが出来ずにいた。
彼女どころか両親も、村で生活はしていたが村の者達との交流は控えていたように思える。アデル村に来たのは人目を避けて娘を落ち着かせるため、いずれ自分達は王都に行く。そんな風に考えていたのかもしれない。
村人達も彼等を避けるでもなく無理に受け入れるでもなく、適度な距離を保って生活していた。
「でも、あの子はなぜか私のことを気に入って、いつもそばに居るようにって言ってきたんです。凄い我が儘な子で、私が遊びに付き合うって約束をしないと勉強しないだの、一緒にやらないとダンスの練習をすっぽかすだのっていつも言うんですよ」
「それで、その家のメイドになったんだよな」
「はい。ずっと一緒に居るために。屋敷の中で生活するようになったけど、家族は歩いて数分のところにいて毎日会えるし、寂しいとかはありませんでした。それからは朝から晩まであの子と一緒で、それどころか一緒に寝る事もよくありました。……それで、雪が降った日の夜」
その晩は彼女の希望で一緒に寝ていた。夕食の最中に『一緒に寝ないなら明日の勉強は何もしない』と言い出したのだ。
今更その程度の我が儘を誰も咎めることはなく、了承の言葉を返すとあの子は得意気に頷いて返してきた。感謝の言葉もなく、まるで自分の希望が通るのが当然だと言いたげな表情。いつもの事だ。
貴族の令嬢の自室は広く、天蓋付きの大きなベッドは子供が二人眠っても十分に余裕がある。一つの布団に共に入り、大きな枕に頭を並べて、しばらくは話をしながらゆっくりと眠りに就いた……。
そうして真夜中『起きて、ねぇ起きて。起きなさい』としきりに呼ばれ、肩を揺すられ、無理やりに起こされた。
いったい何事か。そう寝惚け眼で問えば、あの子はきらきらとした瞳で『森に行くわよ!』と命じてきた。
◇
「夜中に森に? 子供だけで行ったのか?」
「はい。でも、もちろんそんな危ないことは普段はしません。親や周りから禁止されているし、そもそも行こうとする子供は村には居ません。だけどあの子は、誰も踏んでいない雪面が見たいって、森の奥にはいかないから平気だって、こちらの制止も碌に聞かなくて……」
今ならば大人を起こすなり、せめて警備に伝えて秘密裏に着いてきてもらっただろう。
だが当時は幼く寝起きということもあり、更にはあの子が『さっさと用意しなさい』と急かしてくる。おかげで頭が回らず、窓から抜け出す彼女を慌てて追いかけるので精一杯だった。
「それで、二人で行ったのか」
「はい。……二人で。ランタンを持って、手を繋いで」
ランタンと月明かり、そして月明かりを反射させる雪面のおかげで、夜の森でも足元は見える。
慣れた森の中。それも本人が言っていた通り奥までは進まない。だから何も怖くはなかった。
「二人で話をしながら進んだんです。私が何を言ってもあの子は止まらなくて……」
◇
『こんな時間に外に出て、旦那様に怒られてしまいますよ』
『バレなければ良いのよ。それに、誰も踏んでない雪を踏みたいんだもの』
『それなら朝早くに起きれば良いじゃないですか』
『嫌よ。だって朝は寝ていたいんだもの』
まさにああ言えばこう言う。何を言ってもあの子はざくざくと雪を踏みしめて歩き続けていた。手をぎゅっと握って。
そうして開けた場所に出ると眼前の光景に瞳を輝かせた。
何もかもが白い、真っ白な世界。
降り注ぐ雪は雪面に落ちるや純白の中に溶け込んでいく。足跡は一つもない、誰も踏み入っていない一面の雪。
美しくて、真夜中だというのに視界すべてが輝いて見えた。
その光景に満足したようで、あの子は興奮で頬を赤らめながら『素敵』『綺麗』と何度も繰り返していた。
『何も無いつまらない村だけど、雪だけは綺麗ね。冬には帰ってきてあげてもいいわ』
高飛車な口調で、まるで自分が周囲に望まれて温情で帰ってきやるかのような言い草。
次いでこちらを向いて『貴女だって冬ぐらいは帰ってきたいでしょ?』と同意を求めてくる。
思わず『私も?』と問えば、彼女は当然のことのように『そうよ』と返した。
あの子は自分の提案が拒否される可能性なんて微塵も考えていない。当然のようにどこまでも付いてくると考えているのだ。
その考えを揺るがすことなく、あの子は真っ白な世界の中、とびきり輝かしい笑顔で告げてきた……。
『私と一緒に王都に行くのよ。王妃付きの侍女にしてあげる』
◇
「そう……。言ってくれたんです」
「王妃付きの侍女……。それなら、その子は……」
「だけどその言葉の直後に大きな音がして、近くにあった木が倒れてきたんです 」
背が高く細い古木。中は腐って空洞になっていたのか、冬の寒さと雪の重みに耐えきれなかったのだろう。
夜の静けさの中、突如ひび割れる凄惨な音をあげ……、
そして手を繋いで眼前の光景を眺める自分達に、まるで獣が飛び掛かるように襲い掛かってきたのだ。
咄嗟に隣に立つ彼女を突き飛ばし、自身は逃げきれずにそのまま倒木に巻き込まれた。
「そんな……」
話を聞いていたユベールが掠れた声で呟いた。
顔色を青ざめさせ、まるでその場に居合わせたかのように眉根を寄せて悲痛そうな顔をしている。
ユベールの視線は混乱を落ち着かせるためかしばらく彷徨い、そして最後にキャンディスへと……、黒い眼帯で覆われた左目へと向けられた。
彼の瞳から言わんとしていることを察してキャンディスも頷いて返す。
眼帯に隠された、今はもう塞がれた左目。眼帯では隠し切れぬ傷痕。これはその時に倒木に巻き込まれて負ったものだ。
「無事だったあの子が助けを呼んで、すぐに医者に掛かる事が出来ました。でも傷が酷くて高熱が出て、数日は意識が朦朧としていたんです。見舞いを許されたのも親だけで、それだって私は熱と麻酔のせいで殆ど寝惚けた状態でした」
「……そんなに酷かったんだな」
「片目が無くなる程ですからね。でも、四日目ぐらいにようやく熱が引いて体調も戻ってきたんです」
もう大丈夫、そうはっきりとした口調で告げれば両親は涙ながらに安堵し、医者も胸を撫で下ろすような表情を浮かべる。
その光景を、キャンディスは不思議な気持ちで眺めていた。
治療中の記憶は残ってはいるが曖昧で、四日経ったと言われても実感は無い。
そのうえ片目を失ったとまで医者に言われるのだから、理解が追い付かないのも仕方ないだろう。鏡に映る自分の顔にはまだ生々しい傷が残っていて、さすがにこれにはショックで胸を痛めた。
だがそれより傷付いたのはその後だ。
家族以外の見舞いが許可されたと聞き、あの子とその両親がこちらに向かっていると看護師が伝えてきて……。
「私は怒ってないし責める気もありませんでした。あの子の我が儘で森に行ったけど、木が倒れたのは誰のせいでもありません。ただ、我が儘で自己中心的なあの子もさすがに堪えるかなって、そんな事を考えてました」
たとえ困った性格と言えども、無理やりに連れて行った先で友人が怪我を負えば罪悪感は覚えるだろう。
だがあの子は見栄っ張りで意地っ張りな性格だ。周りにひとがいる場では素直にはなれず自分の責任じゃないと言い切り、陰で泣いていたかもしれない。それとも我が儘かつ横暴な性格はこの事件を経ても健在か。
どんな謝罪だろうと笑って許してあげよう。『気にしていませんよ』『無事でよかった』と。その後には『今度は朝に行きましょう』と誘ってあげるつもりだった。
あの子も自分も朝は苦手だけど、頑張って朝早くに起きよう。
先に起きた方が寝てる方を起こして、また手を繋いで、誰の足跡も無い朝一の雪を踏みに行こう……と。
「そう言ってあげるつもりだったんです。……だけど、病室に現れたのは私の知るあの子じゃなかった」
病室に入るなり少女は誠心誠意詫び、そしていままでの己の行動を含めて二度とこんな愚行はしないと誓ってきた。
迷惑を掛けたと詫び、こんな事に巻き込んでしまったと詫び、自分を庇ったために酷い傷を負わせてしまったと詫び……。メイドとして屋敷に住まわせたことも、無理強いをして一つのベッドで眠らせたことも、ダンスの練習や勉強に付き合わせた事も……。
出会ってからの全てを一つ一つ話に出しては、自分がいかに浅はかだったかを省みて、二度としないと誓い、そして謝ってきた。
隣に立つ夫妻は娘を支えるように彼女の肩に手を添え、キャンディスが治療をしていた数日で娘が心を入れ替えたと話してきた。
彼女は己の行動を省みて、周囲に迷惑を掛けたことを詫びて回っていたのだという。両親はもちろん、今までだらけた態度で受けていた家庭教師にも謝罪し、我が儘で振り回した屋敷のメイドや給仕達にさえも頭を下げた。
そして規則正しい生活を送り、勉学に励んだ。今までの遅れを取り返すように自ら細かなスケジュールを立てる意気込みすら見せていたのだという。
といっても、彼女が心を入れ替えたのはたった数日のことだ。
だけど数日とはいえ、その変化は目を見張るものだった。
……まるで人が変わったかのように。
否、人が変わったかのように、ではない。変わったのだ。そうとしか思えない変わりようだった。
顔も声も同じ。なのに言動はまったくの別人。
それはキャンディスが退院してからも変わらず、謝罪の言葉と共にメイドの任を解かれても、それ以降も、彼女は心を入れ替えたままだった。……まるで入れ替える前の心をどこかにやってしまったかのように。
「あの子の親も、教師も、屋敷の人達も、みんな変わった彼女を受け入れてました。人が変わったようだって言いながら、令嬢らしくなって良かったって。別人のようにって言った直後に褒めて……。でも……」
言い掛け、だが途中で言葉を詰まらせた。うまく言葉が出てこない。
膝の上に置いた手に涙が落ちる。片目から溢れる大粒の涙。
泣くより話の続きをと考えるのに涙が溢れて喉が震える。
思い出されるのはあの子が変わってからの日々。
まるで別人のように聞き分けの良い子になり勉学に励む彼女を、彼女の両親や家庭教師はこれが貴族の令嬢のあるべき姿だと嬉しそうに見守っていた。
村の者達もあまりの変わりように驚きこそしたが、元よりさほど交流があったわけでも無いため詳細は分からずにいた。そもそも娘が心を入れ替えた事で親子関係は良くなっており、そんな貴族の家庭に村民が口を挟めるわけがない。
そうして、一家は王都へと住まいを移してしまった。
勤勉な令嬢は王都でも勉学に励み、才女として周りから慕われ人望を築いていく……。
……だけど。
「でも、そんなのあんまりじゃないですか……。あの子はどこに行ったんですか? 我が儘で、周りに迷惑をかけていたあの子は……」
「キャンディス……」
「王都に連れて行くって言ってくれたんです。私を王妃付きの侍女にするって……。私のことを友達だって。あの子はそう言ってくれたんです……」
それなのにどこかに消えてしまった。
だけどそれをあの子の両親も、家庭教師も、屋敷の者達も気にする様子一つ見せなかった。
あの子ではない、あの子を名乗る女も。さも自分は以前から己であったかのように、心を入れ替えたように装って生き続けていた。
なんて気持ち悪い。
涙ながらにキャンディスが語れば、聞いていたユベールが様子を窺うようにじっと見つめ、そして囁くように尋ねてきた。
「……レベッカなんだな」
呟くような彼の声。
それに対してキャンディスは小さく頷いて返した。振動を受けて涙が手の甲に落ちていく。
「だけどレベッカ様は……、私の知る、アデル村で一緒に過ごしたレベッカ様はもう居ないんです……。でももしかしたら戻ってくるかもしれないから、その時には私がそばに居てあげようと思って」
「だからフォルター家を追って村を出て王都に来たのか」
「はい……。でもあの人を見ていて次第に分かったんです。もうあの子は戻ってこない……。あの子はどこかに消えてしまったんです」
誰にも気に掛けられることも惜しまれることもなく消えていった。
その後には誰もが慕う令嬢の鑑レベッカ・フォルターが生活している。
あの子の顔で、あの子の体で、あの子の声で、あの子の名前を名乗って。
「王都に連れて行くって、言ってくれたのに……」
溢れる涙を拭うことも出来ずにくぐもった声を漏らす。
そんなキャンディスの手にそっとユベールの手が重なった。ゆっくりと、だけど強く、包み込むように握ってくる。
顔を上げれば労わるような彼の瞳と目が合った。
美しい深緑色の瞳。普段は楽しそうに細められたり呆れるように視線をそらす瞳が、今は真っすぐに、熱を感じるほどに正面からじっと見つめてくる。
「俺は消えない。いつまでも俺で在り続ける」
「ユベール様……。だけど絶対なんて有りえないんです。あの子が消えてしまったように……、もしも貴方まで消えたら」
「そうしたら、そうだな……。キャンディスも消えるんじゃないか?」
「え……?」
突然のユベールの話に、キャンディスは思わず目をぱちと瞬かせた。
その動きで大粒の涙がポタと落ちていく。
「私が消える?」
「あぁ、そうだ。この顔とスタイルと声は残るから、世間はそれで十分かもしれない。だけどキャンディスは俺の性格も無いと嫌だろう?」
労わるような優しい瞳のまま冗談めかして告げてくるユベールに、キャンディスは数度瞬きを繰り返し……、そして肩の力を抜いて笑った。
涙が再び溢れてくる。視界は涙で揺らいでいるが、それでも目の前に居るユベールの顔は見える。
相変わらず美しい顔だ。スタイルも良いし、手を握ってくるその手も指も美しい。
だけど確かに、性格も揃っていないと嫌だ。
「そうですね。ユベール様のその単純で分かりやすい性格が無いと嫌です。真実の愛なんて言葉に騙されないユベール様はユベール様じゃありません」
「そうだろ。だからきっと、俺が俺じゃなくなったらキャンディスも『ユベール様がユベール様じゃない世界に意味なんてありません』って消えるさ」
ユベールの話は突拍子もないにも程がある。
きっと他の者が聞けば「それで慰めているつもりか?」と疑っただろう。もしかしたら「この期に及んで何を」とユベールに対して呆れを抱くかもしれない。
だがキャンディスにはこんな突拍子もない言葉で十分だ。否、突拍子もないこの言葉こそが慰めになる。
そもそも彼との関係は「顔が良いから欲しい」という己の突拍子もない発言からなのだ。
いまだ涙は溢れるがそれでも表情を和らげて笑うと、ユベールも安堵の笑みを浮かべた。
彼の笑みを見ていると先程まで胸を締め付けていた喪失感がゆっくりと溶け、記憶の中の雪景色も次第に薄れていく。あの子の声も穏やかにまるで眠るように薄れていった。
重ねられた手を握れば、それに応えるようにユベールもまた指を絡めるように握り返してくれた。暖かく大きな手だ。
「私が消えたらユベール様はどうします? 私のこの顔で、この声で、でも言動は違うんです。きっとユベール様の顔を見ても記憶を失ったりしませんよ」
「それは俺にとってのキャンディスじゃないな。そうなったら俺もきっと消えるよ」
笑いながら話すユベールに、キャンディスもまた片目を細めて笑った。