37:完璧の更に先へ
ユベールが負った傷は、目尻から頬にかけての一線。痛々しい傷ではあるが幸い目には影響もなく、傷痕が塞がれば口の開閉にも支障はないというのが医者の診断結果である。
だが傷痕は残るらしい。こればっかりはどうしようもないと医者が話すのを聞き、ユベールが「傷痕か……」と呟いた。
医療用のベッドの上。上半身だけを起こした彼の顔は傷痕の保護のため半分が包帯で覆われている。
そこに軽く触れ、痛みが走ったのか一瞬言葉を詰まらせて眉根を寄せた。
「傷痕、残っちゃうんですね」
とは、ベッドの隣に椅子を置いて座るキャンディス。
ユベールの顔を見ると眉尻が下がってしまう。包帯で巻かれており傷は見えないが、それでも見ているだけで痛みが伝わりそうだ。
「傷痕どころか片目の無い私が言うのもなんですが、痛々しいですね」
「あれだけざっくりやられたんだから仕方ないさ。だけど俺の顔に傷痕か……」
ふとユベールが考え込むように他所を向いた。
包帯で覆われた己の頬にそっと指先で触れる。キャンディスが慌てて「触っちゃ駄目ですよ」と止めれば、彼がぱっとこちらを向いた。
今は片方だけになった深緑色の瞳が真っすぐに見つめてくる。
「俺の顔に傷が残るってさ。どうする?」
尋ねてくるユベールの口調も声色も、己の負傷についてとは思えないほどに軽い。
「どうもこうもありませんよ。麗しいユベール様の顔に傷が残る、形あるものが欠ける事により更なる美へと昇華されるんです。これはマイナスではありません。むしろ進化。完璧なものに傷がつくことにより完璧を超え、神の領域すらも超えるんです!」
素晴らしい! とキャンディスが感嘆すればユベールがクツクツと笑った。たがすぐさま口元を歪ませるのは傷痕が痛むからだろう。
笑いたい、だけど笑うと傷が痛む。その鬩ぎ合いで歪んだ笑みになっているが、それもまた麗しいのは言うまでもない。
ユベールほどの麗しい顔は傷がついたところで美しさを損なうわけがない。どんな傷であろうと魅力を増すのだ。もちろん痛みに顰めながら笑う顔もまた趣がある。
「それなら、包帯で顔の半分を覆った今の状態はどうだ?」
「包帯を纏う事により悲痛さを感じさせ、それが耽美的な麗しさと儚さを感じさせます」
そうキャンディスが語れば、ユベールが「傷が痛むからこれ以上笑わせるな」と肩を震わせて言ってきた。
だがこの応酬は気に入ったようで、笑わせるなと言いつつも「それじゃぁ」と続けてきた。
「たとえば俺の顔半分が傷でめちゃくちゃになったら?」
「そうしたら顔半分を覆う仮面を着けましょう。美しい顔、しかし仮面の下に隠されているのは……。あぁ、なんて謎めいた美しさなのか。なんだか私、歌い出しそう!」
「歌は良いけど楽器はやめておけよ。でもそれなら……、顔全部が傷で目も当てられない状態とかどうだ」
「ユベール様が麗しいのは顔だけではありませんよ。そのスタイル、声、仕草、全部が素晴らしいんです」
「そうくるか……、となると俺の顔が傷でめちゃくちゃになって、更に喉が潰れたら」
これならどうだ、とユベールが話を続ける。
仮定の話とはいえ物騒な例えたがそこに自虐めいた色はなく、キャンディスのしぶとさを楽しんでいる色しかない。まるで子供が言葉遊びをしているかのようだ。
最初こそ話の内容にぎょっとしていた医者も後から顔を覗かせたロブに「いつもこんな感じですから」と言われて納得し、彼と共にベッドから離れて行ってしまった。
そんな医者達の様子を横目に、キャンディスはユベールから言われたことを頭の中で反芻した。
整った麗しい顔は跡形が無いほどに傷が残り、更に喉が潰れて美声も発することができない。
そんなユベールを……。
どうするか、なんて馬鹿馬鹿しい話ではないか。
「別にどうもしませんよ。だってユベール様はユベール様じゃないですか」
何がどうなろうと変わりようはない。そうキャンディスが話せば、ユベールがふっと小さく息を吐き……、そして楽しそうに笑いだした。
もっとも笑いながらも「痛い」と訴えているのは傷が響いているからだろう。楽しそうでありながらも痛そうである。
仕切り代わりのカーテンの向こうから「あまり笑いすぎると傷が開きますよ」という医者の忠告が飛んできた。
それでも彼は楽しそうに笑い、ようやく収まったかと思えば片目の目尻を拭いながらキャンディスを見つめてきた。深緑色の瞳が涙で潤んでいる。笑いすぎて泣いたのだ。
「そうか……。俺は俺か」
「そうです。ユベール様がユベール様で在り続ける限り、私は手放したりなんてしませんよ」
当然だとキャンディスが断言すればユベールの笑みが強まる。声をあげるような笑いこそ収まったようだが、それでも片目を細め、口角を上げ、表情を緩めている。
そんな表情のまま彼はゆっくりと深く息を吐き……、そして改めてキャンディスを見つめてきた。以前より片目のキャンディスと、今だけは包帯で片目を覆ったユベールが見つめ合う。
柔らかく麗しい彼の表情に、それでも僅かに張り詰めた色が滲み始めた。
深緑色の瞳から言わんとしていることを察してキャンディスが言葉を詰まらせた。
問うように、話してくれと求めるように、彼の瞳がじっと見つめてくる……。
だが次の瞬間にキャンディスが片目をパチと瞬かせたのは、見つめてきていたユベールが「少し寝ようかな」と言い出したからだ。
見れば彼は普段通りの表情に戻っており、キャンディスが呆気に取られているのに気付くと「うん?」と首を傾げた。
「どうした?」
「どうしたって……。寝るんですか?」
「流血沙汰のうえに麻酔を打ってからの治療で眠くなってきた。それにさっき痛み止めを飲んだからそのせいもあるな。医者も少し休んでから帰った方が良いって言ってたし。待っててくれるだろ」
「え、えぇ、それはもちろんですけど……」
彼の話にキャンディスは歯切れ悪く返し……、だがこのままではいけないと考え「聞かないんですか?」と尋ねた。
「何を?」
「何をって……。私の事ですよ」
「キャンディスのこと……、まず第一に俺の顔が好きだろう。顔だけじゃ無くて声とスタイルも好き。もちろん俺の性格も」
「……そうですけど」
「これだけ分かれば良いさ。俺が俺である限りは、それは揺るがないんだから」
落ち着き払った態度でユベールが告げ、次いで「そうだろ」と同意を求めてくる。
片目を細めた、こちらを労わるような、愛おしむような、優しく柔らかな笑み。
それを見てキャンディスは一瞬言葉を失い……、そうして肩を落とすと共に「ずるいなぁ」と呟いた。
「そんな風に言われたら逆に話したくなるじゃないですか」
「話すって言うなら聞いてやるぞ」
逆にキャンディスが望んで話す展開になり、してやったりとユベールが悪戯っぽい笑みを浮かべる。対してキャンディスは参ったと肩を竦めるしかない。
「……それなら、聞いてくれますか」
改めて問えば、ユベールが穏やかに微笑む。
「あぁ、全部聞くよ」
あえて優しい声を取り繕うでもなく、急かすことも促すこともしない、普段通りの声と口調。それでいて彼の纏う空気は普段よりいっそう優しく、キャンディスはその空気に背を押されるようにゆっくりと息を吐いた。
一度窓の方へと視線をやる。
カーテンが閉められているため外の景色は見えないが、きっとまだ雪が降っているのだろう。
レベッカ達も既に移動をしている。さすがに雪が降る中で話を続けるわけにはいかないと、ミモアはバロックや騎士達が拘束し、そしてリベルタや彼の部下も同席の上で改めて話をすることになったらしい。先程ロブが教えてくれた。
どこで話し合いをしているかは分からないが、きっと王宮の裏手である『あの場所』には今はもう誰も居ない。
足跡はまだ残っているのだろうか。だがこの降雪量を考えるに、踏み荒らされるように着いていた足跡も次第に埋まっていき、夜も明けぬうちに真っ白な雪面になっているだろう。
誰の足跡も無い、真っ白な雪景色。
月の明かりを受けて、夜だというのに雪面が眩いほどに輝く……。
まるであの晩のように。
そんな景色を想像し、キャンディスはゆっくりと口を開いた。