36:レベッカ•フォルター
「……っ!!」
声にならない苦痛の声をあげ、ユベールがその場に頽れた。
手で顔の半分を覆っており、その指の隙間から赤い血が伝い落ちていく。一滴また一滴と雪面に落ちるその様はまるで赤い薔薇の花弁が落ちるかのようだ。
その光景に、キャンディスは自分の心臓がドクリと跳ねるのを感じた。背筋が、体が、一瞬にして冷えていく。
眼帯で覆われた左目が脈打つような違和感を訴えだし、あるはずのない眼球が真っ白な雪景色の幻を見せる。
「ユベール様っ……!!」
慌てて駆け寄り、膝をつくユベールを支えるように彼の肩に手を置いた。
既にミモアは騎士達に取り押さえられており、数名の騎士が剣を抜いてフレノア国側に対して警戒の姿勢を強める。リベルタ王子もまさかミモアが実力行使に出るとは思っていなかったのか、この事態に困惑を露わにしている。
レベッカはソエルに抱きしめるように庇われており、さすがの彼女も顔色を悪くさせ恐怖の色を見せていた。
だがそんな光景はキャンディスにとってはどうでもいい。
ユベールの顔を覗き込み、青ざめた顔の彼に「大丈夫ですか」と声をかけた。
その顔色と押さえた手の隙間から流れる血からどう見ても大丈夫ではないと分かっていても、こんな単純でありきたりな言葉しか出てこない。
「やられた……。まさかあんな行動に出るとはな」
「ユベール様、血が……。目は大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、安心しろ。顔を切られた程度で目はやられてない」
ユベールの口調は苦痛を感じさせるものだが、それでも「落ち着け」と逆にキャンディスを宥めてきた。
頬を押さえる手をずらし、指の隙間から深緑色の瞳で見つめてくる。
彼の目が無事だったことを悟ってキャンディスは僅かに安堵した。疼くような左目の違和感が次第に消えていく。
「そんなに酷くはないんですね」
「あぁ、痛いことには変わりはないけどな。……っ」
苦笑しようとしたのか、だが痛みに言葉を詰まらせる。気丈に振る舞おうとしても痛みでそれも叶わないのだろう。
次いで彼は改めてキャンディスの顔を見て僅かに口角を上げると「そんな顔をするなよ」と掠れた声で告げてきた。ぎこちない笑みが痛々しい。
「王宮に専属医がいるはずです。行きましょう」
キャンディスがユベールの片腕を取り立ちあがるように促す。
その瞬間、二人に影が掛かった。
レベッカだ。彼女はソエルに支えられながら困惑の表情を露わにユベールを見下ろしている。その瞳には「なぜ」と疑問の色が込められており、唇が僅かに開かれる。
だがレベッカが問うよりも先に、ユベールが「気にしないでくれ」と彼女に声を掛けた。
「これで俺が君にしたことを帳消できるなんて思ってない、何も期待なんてしていない」
「ユベール……」
「別に感謝もしなくて良い。許してほしいとも乞わない。ただ、そうだな……、王宮の医師に掛かるぐらいは許してくれ」
小さく笑い飛ばし、ユベールがゆっくりと立ち上がった。
「行こう」という彼の言葉にキャンディスは頷いて返し、王宮へと向かおうとし……、レベッカに呼び止められた。
見れば彼女はいまだ青ざめた顔のまま、躊躇いの表情を浮かべて立ち尽くしている。その背後では取り押さえられたミモアがこんなはずではなかったと声を荒らげ、彼女の変わりようにリベルタ王子が困惑している。
結局のところ、リベルタもまたミモアにとっては王妃になるための、それも彼にとっては他国にあたる王妃になるための手段でしか無かったのだ。
そんなミモアをレベッカが一瞥し、再びキャンディスへと向き直った。
彼女の異変を感じ取ったソエルが案じるように「レベッカ?」と声を掛けるが、それには返事すらしない。……出来ないのだろう。
レベッカが話し出すのを察して、騎士の一人が請け負うようにユベールに肩を貸し、彼を医者に連れて行こうとする。だがそれをユベール自らが拒否した。この場に残ると、キャンディスと共に話を聞くと、視線で伝える。
そんな彼を支えたまま、キャンディスはレベッカを見つめた。
「あのね、キャンディス。私もミモアと同じなの」
「レベッカ様……」
「貴女が夜の森で怪我をした、その後……、貴女が寝込んでいる間に、私はレベッカ・フォルターとして目を覚ましたの」
たどたどしくレベッカが語りだした。
◆◆◆
はじめはレベッカ・フォルターではない別の女性だった。
ここではない別の世界の、別の人生を歩む女性。若くして不慮の事故で亡くなり、だが再び目を覚ました。それもレベッカ・フォルターとして。
動揺はしたものの自分がレベッカ・フォルターであることをすぐに理解し、同時に、レベッカは自分の末路を知った。
「信じられない話だと思うけど、私は前の人生でレベッカ・フォルターの人生を読んでいたの」
「読む……?」
「この世界で起こることが小説になっていたの。レベッカ・フォルターもミモア・ミルネアも、その小説の登場人物だった。前の人生で私はそれを読んでいたのよ」
その小説内では、レベッカ・フォルターは我が儘で自己中心的なキャラクターだった。
公爵家令嬢であり第一王子の婚約者という立場に胡坐をかき、勉強も王妃教育も拒否して碌に学ばずにいた。常に周りに迷惑を掛けてばかり。我が儘で傲慢、目も当てられぬ性格として描かれていた。
聖女としての力も怠惰な性格ゆえかさほど開花せず、それでも彼女は己が聖女であると、選ばれた人間なのだと過信していった。
その結果、もう一人の聖女であり能力を開花させていた少女ミモア・ミルネアに糾弾され、今までの行いを断罪されたのだ。
物語はミモア視点で、悪女が成敗される様を爽快に描いていた。
「私が目を覚ます前のレベッカは、物語のレベッカ・フォルターそのものだったわ。我が儘で自己中心的で……。だから私、断罪されないようにしたの」
最悪な末路を回避すると心に決め、今までの愚行を心から詫びて回った。
勉学に励み、淑女としてマナーや教養を学び、常に誠意をもって接する。努力の末に令嬢達の見本と言われるほどまでに己を仕上げた。王妃教育だって、どれだけ厳しくても自分のためだと言い聞かせて努めた。
そのおかげでレベッカは断罪とは無縁の公爵令嬢となった。聖女としての能力もきちんと開花させ、今では次期王妃はレベッカしか居ないと誰もが言ってくれるほどだ。
小説に綴られていた最悪な結末は回避できた。
……だがそれが逆にミモアを歪ませてしまった。
ミモアからしたら、自分が正すべき悪が勝手に更生し、そのうえ自分がなるべき王妃の座に着いてしまったのだ。
話が違うと感じただろう。正しい道を辿っていないと感じ、未来を変えられる恐怖があったのかもしれない。
その結果、何をしてでも、それこそユベールを利用してでも、王妃の座に己がと考えたのだ。そうあるべきだという未来を信じて……。
「キャンディス、今まで黙っていてごめんなさい。せめて貴女にだけは話そうと何度も思ったの。だけどもし信じて貰えなかったら考えたら怖くて……」
「私は……」
「私、貴女と友達になりたいの。その傷も、片目も、すべて償うわ。だから私と」
レベッカが乞うように手を差し出してくる。
白い肌の手。雪の中で、まるで共に歩もうと誘うように伸ばしてくる。
その手を……。
「ようやく、貴女の手を振り払える」
そう告げて、キャンディスは差し出された手を叩くように拒否をした。
パンッ……と、軽い音が、冷え切った空気の中で妙に響いた。
「……っ!」
レベッカが息を呑み、はたかれた手を引いて胸元で掴む。
そんな彼女の肩をソエルが掴んだ。自分の方へと引き寄せる。その顔は普段の涼やかな顔付きとはかけ離れた厳しい表情だ。鋭い眼光を向けてくる。
ミモアの一件から、レベッカが危ない目に遭い、そこをユベールが庇った。更にレベッカのこの告白……。
ソエルもまたわけが分からずにいるのだろう。彼だって振り回された一人なのだ。それでも自分はレベッカの味方だと示すように彼女の肩に手を置き、そしてレベッカを拒絶したキャンディスをじっと見据えてくる。
だけど今更どうして彼の視線に臆したりなどするのか。
キャンディスの胸中は酷く落ち着いていて、ソエルの鋭い眼光も、そしてレベッカの乞うような眼差しも、一切胸に届かない。
「ミモアの事も、レベッカ様のことも、私はもう関係ないんです。だからユベール様を医者に連れて行きます」
「それなら他の騎士に頼めばいい。レベッカが話をしたがっているんだ、少しぐらい時間を取っても良いだろう」
「今の私は騎士としてここに居るんです。怪我人を優先するのは当然です」
頑なに、そして抑揚のない声で拒否を示す。ソエルが一瞬言葉を詰まらせたのが分かった。
まったく揺らがない感情のまま彼を見上げ、次いでレベッカへと視線をやる。右目だけでじっと見つめれば、元より悲痛そうな表情のレベッカの顔に悲し気な色が浮かんだ。凛とした佇まいと落ち着いた態度の常の彼女らしからぬ感情を露わにした弱々しい表情。
それを見てもなおキャンディスの胸には何の揺らぎも起こらず、冬の夜の寒さのように静かに凍てついたままだ。
「私は、もう、関係ないんです」
抑揚のない声ではっきりと告げる。
次いでユベールに向き直り彼の腕を取って「行きましょう」と告げれば、彼は何かを言いかけ……、だが出掛けた言葉を飲み込むように一度口を噤むと「あぁ」と頷いて返して来た。