35:二人の少女
足音、呼吸音、微かに聞こえてくる声。高い壁を隔てているため向こう側の光景は見えないが、それでも人が増えたことは感じ取れた。
ユベールの困惑の声が聞こえる。「フレノア国の騎士か」とわざとミモアに問うのは、きっと壁越しのこちら側に事態を伝えるためだろう。動揺してはいるものの、己の役目を果たさんと会話に紛れさせてリベルタ王子がいる事も伝えてきた。
「なんでここに……。下手をすれば国家間の問題になるぞ」
「本当なら私が王妃にならないといけないの、だから全てを正すのよ。そのためにはユベールの協力が必要なの。貴方だって辛い思いをしてるんでしょう? 私が王妃になれば貴方も幸せになれるわ」
「落ち着いてくれ、ミモア。俺はそんなことは望んでない」
「なんで……、どうして分かってくれないの! 私が王妃になる、それが正しい筋書きなの! 公爵家は没落して、あの女は断罪されるべきなのよ! 貴方が何を望んでいようと関係ないわ!」
ミモアは一方的に己のことを語り、挙げ句に、ユベールの望みは関係ないとまで言い捨てた。
これにはレベッカの様子を見ていたキャンディスもはっと息を呑み扉へと振り返った。見えないがこの扉の向こうにはミモアがいる。
ユベールと対峙し、彼を真正面から切り捨て……。
関係ないと。
どの口が。
お前が巻き込んだくせに。
お前達が。
一瞬にして怒りが湧き上がり、キャンディスは扉に手をかけた。
押し開けようと力を込める。その瞬間、別の手が続くように扉に触れた。反射的に細腕を辿るように視線をやれば、いつの間にか隣にレベッカが立っている。
彼女は青ざめたまま、何かを決意するような、少し歪んだ表情を浮かべ、扉に掛ける手に力を入れた。
ギィ、と、扉が軋み、耳障りな音を立てる。
ゆっくりと開かれた隙間から外の景色が見え、緩慢な扉の動きを待っていられないとキャンディスは身を乗り出すようにして外へと出た。
小さな悲鳴が聞こえる。これはミモアのものだ。ユベールしか来ていないと思っていたのだから、扉から続々と人が出て来れば驚くのも無理はない。
だがすぐさま事態を察し、驚愕から怒りへと顔を歪ませた。愛らしさを捨てた表情で「騙したのね」とユベールを睨みつける。
だが騙され裏切られたのはユベールだって同じだ。
ここには居るはずのないフレノア国の騎士が十数人、ミモアを守るように立っている。それにミモアの隣にはリベルタ王子の姿。
結局、双方共に、二人きりの逢瀬にするつもりはなかったという事だ。
「ユベール様、大丈夫ですか?」
対峙するレベッカとミモアにも、両国の騎士達にすらも一瞥せず、キャンディスはユベールへと駆け寄った
彼は青ざめた様子で立ち尽くしていたが、キャンディスが声を掛けるとはたと我に返り、困ったように眉尻を下げて肩を竦めてみせた。
参ったな、と言いたげな表情。もちろんそれが無理に取り繕ったものなのは言うまでもない。胸の内を押し留める痛々しい表情だ。
「分かっていた事だが、俺が何を望んでいようが関係ない、か……」
「ユベール様……」
「まぁこれに関しては覚悟してたさ。むしろここで俺の望みがどうのと巻き込まれても困るからな。……だけど、前世だの未来だのって話はどういうことだ」
わけが分からないと言いたげにユベールが目の前の光景に視線をやる。
そこではレベッカとミモアが対峙していた。
レベッカの隣に寄り添うのはソエル、そしてミモアの隣に立つのはフレノア国のリベルタ王子。
それぞれを守るために騎士も警戒の色を見せている。国家間の問題になるため剣を抜きこそしないが、いつそれを求められても対応出来るよう剣の柄に手を掛けている者さえ居た。
真っ白な雪が降り注ぐ中、その美しさに反して緊迫した重苦しい空気が漂っている。底冷えするような感覚は雪の中にずっと立っていたため体が冷えてきたのか、もしくは、この空気のせいか。
「どうして貴女が王妃になるのよ……。私が王妃になるはずなのに」
忌々しいと言いたげなミモアの言葉に返す者はいない。
だが一人だけ、まるでこの場の話し手を担うと言いたげにミモアへと一歩近付く者がいた。
レベッカだ。
ソエルが引き留めようと彼女の腕を掴む。だがそれをレベッカは片手で触れ「大丈夫」と小声で告げて制した。
年若い少女二人の対峙。
片や凛とした美しさのあるレベッカと、片や愛らしい顔付きのミモア。
雪が降るなか見つめ合う彼女達は絵になっている。これが例えば微笑んでいたり、楽し気に話していたのなら、さぞや美しく微笑ましい光景だったろうに。
だが今そこに華やかさはなく、彼女達よりも年上の逞しい騎士ですら声を掛けるのを躊躇わせる程の張り詰めた空気を纏っている。
それどころか、キャンディスには彼女達の対峙が薄ら寒くすら感じられた。
ミモアの話が事実なら、今ミモアとしてここに立っている彼女は、元々はミモアではない別の時間を生きる別の人格だった。
それは同時に、彼女がミモアとして目を覚ます以前には、彼女とは違う、元々ミモア・ミルネアとしてこの世に生を受けた存在が居たという事だ。
そしてそれは、きっと……。
薄気味悪さと胸の痛みを覚えるキャンディスを他所に、レベッカとミモアはしばらく黙ったまま睨み合い、その果てにミモアが口火を切った。
「私はずっとレベッカ・フォルターがその地位を剥奪された時に王妃になれるように準備してたのよ。王都に出て、公爵家のメイドになれるように努力して、ユベールと出会って……」
「自分が王妃になれると思ってたのね」
「そうよ。そうなるはずだったのよ。なのに、あんたの評価は上がる一方で、私じゃ無くてあんたが王妃になるべき存在とまで言われて……。どうしてよ!」
ミモアの荒々しい声が、雪が降る音だけが続く夜の中にやたらと響く。
それに対してレベッカは冷静に、そして冷ややかに、そして彼女らしくなく視線に威圧を込めてミモアを睨み返していた。
だがさすがに立場があるからか、もしくはレベッカは薄々こうなる可能性を考えていたからか、彼女の口調はひどく落ち着いている。
「悪いけれど、私もみすみす処断されるわけにはいかないの」
「……え?」
「自分一人が特別とは思わないことね」
レベッカが淡々と言い捨てる。誰にでも公平な彼女らしからぬ侮蔑を込めた声色。
だがこの場に居る者達はレベッカが冷めきった態度を取っていても当然だと思っていた。
ミモアはレベッカから婚約者であるユベールを奪い、更にそのユベールまでも捨ててフレノア国に逃げた。そのうえ再び次期王妃の立場を狙って戻ってきたのだ。
ここまでされては公平も何も無い。声に侮蔑の色が込められるのも当然。
己こそが次期王妃であり聖女の素質を持つ特別な存在だと驕るミモアを、正当な次期王妃であり聖女のレベッカが厳しく冷ややかに侮蔑を込めて切り捨てたのだ。
……そう誰もが考えただろう。
だがキャンディスだけは違う事を察していた。
レベッカがミモアに対して冷ややかなのはきっと……、
同族嫌悪だ。
「レベッカ様……」
キャンディスがポツリと彼女の名前を呼ぶ。
だがその声よりも「この女っ!」という怒声が高らかに響き渡った。
ミモアがレベッカに掴みかかろうとしている。
目を見開き怒りを露わにしたその形相には、小柄で愛らしい素朴な少女の面影はもう無い。
今まさに掴みかからんと伸ばされた手には鈍く光る小さなナイフが握られており……、
「あ、」
キャンディスが小さく声をあげた。咄嗟のことで体は動かない。
そんなキャンディスの横を何かが擦り抜けていった。緩やかに降り注ぐ雪の軽さとは違い、風のように素早く駆けていく。
視界の隅で揺れたのは銀色の美しい髪……。
「ユベール様っ!」
硬直していた体が一瞬にして自由を取り戻し、キャンディスが彼の名を呼び手を伸ばした。
だがそれより先にユベールはレベッカに飛びつくようにして彼女を庇った。ミモアの手が、その手に握られたナイフの刃が、ユベールに触れる……。
三人の男女の体がぶつかり、そして、
真っ白な雪面に、真っ赤な血が落ちた。