34:雪の夜の逢瀬
夜。王宮の裏手。
高い壁と木々に阻まれたそこは月明かりも薄っすらとしか届かず、人気の無さは華やかな王宮の敷地内とは思えない。
そんな薄寂れた一角には古びた扉が設けられていた。
昔は庭師が水場との行き来のために使っていたらしいが、敷地内の設備が整うのと同時に役目を終えたという。誰も使わなくなった扉は廃れ、元より人目の着かない場所だけあり誰もが忘れ去っていた。
そこをユベールが見つけ、保管されていた鍵を持ち出してミモアとの密会に使っていたのだ。
密会の時間は深夜零時と決めており、見回りもあるため長くても三十分程度、逢瀬と言っても話をして終わりだったという。
深夜零時より少し前、キャンディスは扉の内側に居た。隙間から外を覗けば人影だけが見える。
朝から降り続けていた雪は既に積もっており、底冷えするような寒さが周囲を占めている。これほど雪が積もる夜更けに人気の無い場所になど、よっぽどの用事が無ければ誰も来ないだろう。
「昼寝しておけばよかった……」
ポツリと呟き欠伸を漏らす。眠気を晴らすように右目を擦り、ついでに眼帯越しに左目も擦ってみる。
そんなキャンディスに、隣に立つロブが「だらしないぞ」と忠告してきた。彼らしからぬ、それでいて上官らしい叱責の言葉だ。
もっとも、
「今夜はレベッカ様やバロック様がいらっしゃるんだ、ちゃんとしておけ」
と付け足すあたり、相変わらずではある。
きっと彼もまた自分の部下だけだったなら欠伸の一つでも漏らしていただろう。
「はぁい」
叱責に返すキャンディスの返事は間延びしており、この場の緊張感にそぐわない。挙げ句、眠気に負けてもう一度ふわと欠伸をした。
だが次の瞬間、聞こえてきた微かな音に気付き顔を上げた。何もない壁、そこ設けられた古びた扉をじっと見つめる。
今、確かに……。
「キャンディス?」
どうした、と尋ねてくるロブに対して、人差し指を唇に当てて静かにするよう伝える。
周囲にいた者達も異変を感じて声を潜め、警戒の色を表情に宿した。
今、確かに音がした。
足音だ。
雪の中を歩く足音。
誰も踏んでいない真っ白な雪を踏みしめる音……。
この音だけは聞き逃さない。
真っ白な雪の中を、迷う事なく、躊躇う事なく、歩く……。
まるで、あの日のあの子のように。
「……っ」
「ミモア……!」
呟きかけたキャンディスの声に、扉の向こうから聞こえたユベールの声が被さった。
ミモア・ミルネアが来た。
かつては公爵家のメイドとして働き、ユベールと【真実の愛】を誓い、そして彼を無慈悲に置いていった女が、扉一枚隔てた向こう側に居る。
キャンディスは無意識に声どころか呼吸すらも潜めて壁の向こうへと意識をやった。
隣に立つロブも、そしてバロックと彼の部下達も張り詰めた空気を纏わせている。この場にどうしてもと言って居合わせたレベッカにはソエルが寄り添い、有事の際に守るためスティーツが彼等の側に立っている。
耳を傷めかねないほどの沈黙が周囲を包む。
呼吸の音さえも響き渡ってしまいそうなほどの静けさ。まるで世界に自分達だけが取り残されたような感覚。
そんな静けさの中、聞こえてくるのはユベールとミモアの会話だけ。
「来てくれたのね、ユベール」
「あぁ、もちろんだ」
「良かった……。私、貴方に話さないといけないことがたくさんあるの。今の私のこと、あの日からのこと、それに、私ね……」
自分の聖女としての力について打ち明けるつもりか。
それとも今後の事を、自分がいったい何を狙っているのかを語るのか。
そうキャンディスは……、否、この場にいる誰もが考えた。
だがミモアが発したのは予想とは違う言葉だった。
「自分の未来を知っているの」
と。
「え?」
思わず誰もが声をあげ、辛うじて声を堪えた者すらも唖然としている
キャンディスも、隣に立つロブも、バロック達も。
真正面からこの言葉を聞いたであろうユベールもきっと驚いたのだろう、「……未来を?」と怪訝そうな声をあげた。
「私、小さい頃に数日事故で意識不明になっていたの。その時に今の私として目覚めたのよ」
「今の私……?」
「不思議な話だけど、私は以前に別の人生を歩んでいたの。前世って言えば分かりやすいかしら。その人生が終わると同時に、事故から意識を取り戻したミモア・ミルネアとして目を覚ましたの。それでね、私、前世で自分の行く末を知っていたのよ」
理解を得ようとしているからか、それとも急いでいるのか、ミモアが矢継ぎ早に話す。
目を覚ましてから今日まで自分はミモア・ミルネアとして生きてきた。かつての人生で得た知識を活かして、ミモア・ミルネアが辿った人生そのままに生きていけるように……。
馬鹿げた話だ。それを次から次へと話されてユベールも混乱しているのだろう、「待ってくれ」「そんな」と彼の困惑の声が聞こえてくる。
だが熱が入っているのかミモアは語るのを止めず、ユベールの困惑の言葉に被せて「それでね」と話を続けた。
「私が前世で読んだ小説では、ミモア・ミルネアが聖女として王妃になっていたのよ」
「ミモアが王妃……。だが王妃になるのはレベッカだろう」
「いいえ、違うわ。レベッカ・フォルターは我が儘で自己中心的で、聖女としての資格を剥奪されていたのよ。あの女を自由にさせていた公爵家も没落した。本来ならそうあるべき。そうしてミモア・ミルネアが、私が、王妃になるの……!」
「待ってくれ、ミモア、きみは何を言ってるんだ……?」
話を続けるミモアに対してユベールが混乱を露わに制止の声を掛ける。
わけが分からないと言いたげな声。きっと躊躇いを隠せぬ表情をしているのだろう。
だが無理もない。ミモアの話はあまりに突拍子もなさすぎる。それも熱が入っているのか焦りがあるのか、彼女は押し付けるように一方的に話をしているのだ。これで理解しろというのが無理な話。
キャンディス達も同様、理解出来ぬと誰もが困惑を露わにしている。
そんな中、ソエルが苛立ちを堪えるような声で「馬鹿な話だ」と言い捨てた。
「レベッカが我が儘で自己中心的……? 前世だの未来だのとおかしな話をした挙げ句に見当違いの侮辱か」
ミモア達に聞かれないように声を潜め、それでいて怒りを漂わせ、ソエルが苛立ち交じりに呟く。周囲にいる彼の部下達もレベッカへの見当違いな罵倒に苛立っていた。
他でもなくレベッカが『我が儘で自己中心的』等と、侮辱するにも程があると考えているのだろう。
レベッカは品行方正を絵に描いたような性格で『我が儘』だの『自己中心的』だのとは誰よりも掛け離れた人物だ。公爵令嬢、未来の王妃、そして聖女……、それらの地位に立つに値する存在である。
そんなレベッカに対するこの侮辱はあまりに見当違い過ぎて、中には苛立ちを通り越して何を馬鹿なと鼻で笑い飛ばす者すら出始めていた。ミモアの突拍子もない話は、レベッカへの見当違いな侮辱で途端に鼻で笑う与太話に成り下がったのだ。
だがキャンディスだけは、この話を鼻で笑うことも聞き流すことも出来ずにいた。
心臓が鼓動を速める。呼吸が早まる。心音が体の中で響き、役目を終えたはずの左目までもが脈打っているように感じる。
目の前の雪景色が、まるで別の場所にいるかのような錯覚を引き起こす。
我が儘で、自己中心的な令嬢。
それは、まるで……。
「…………っ」
無意識にレベッカへと視線を向けた。
彼女は見当違いな侮辱を怒るでも鼻で笑うでもなく、ただ眉根を寄せて渋い表情をしている。顔色は普段より少し悪く、水色の瞳は誰を見つめるでもなく不自然にそらされている。
だが己に注がれる視線に気付いたのか、彼女の瞳がふいに動いてキャンディスに向けられた。彼女の目が見開かれる。
驚愕と、そして恐怖と後ろめたさを交えて……。
だがレベッカが口を開くより先に、その場に不自然な足音が聞こえだした。雪を踏みしめる力強い足音。それも複数。