26:複雑な気持ちは林檎と一緒に
去っていくバロックの背を見届け、ユベールは一息吐いて家の中へと戻ろうとし……、玄関に立つキャンディスの姿に驚いてびくりと体を跳ねさせた。
目を丸くさせ、それどころか「うわっ!」と声まであげてしまう。
「驚く顔も良いですね!! ……じゃなかった、家主に対して『うわっ』はさすがに無いんじゃないですか」
というキャンディスの訴えにも反応出来ない。
跳ね上がった心臓を押さえるように胸に手を当て、「お、驚いた……」と上擦った声を漏らす。
「いつ帰ってきたんだ?」
「バロック様が家の中に入っていった直後ぐらいです。二人が話していたんで顔を出すのもあれだなぁと思って」
「まだ勤務時間だろ?」
「早上がりしました。ロブ上官も快く送り出してくれましたよ」
だから問題ないと話しながらキャンディスが家の奥へと戻っていく。
ユベールもそれに続き……、だが立ち止まると一瞬考え込み、かと思えばにやと笑みを浮かべて足早にキャンディスを追いかけた。
「俺のことが心配で早く帰ってきてくれたのか」
キャンディスがここにいる理由が分かりユベールの表情が緩む。
対してキャンディスは彼の方を見て……、
「あれ、わ、私は……、私はなんでここに……詰め所にいたはずじゃ……」
と、あっさりと記憶を失った。
その相変わらずさにユベールが笑みを強める。柔らかく口角を上げて目を細めた、嬉しそうな表情。
そしてこの表情にもキャンディスは右目をぱちぱちと瞬かせながらじっと見つめてくる。
「なんて……、いいかお……。あ、あれ、おはようございますユベール様」
「記憶を失いすぎて朝まで戻ったか。そろそろ落ち着け」
ぽんぽんと軽く頭を叩いてやれば、意識を混濁しかけていたキャンディスがはっと息を呑んだ。
意識を取り戻したのだろう。額に手を当ててふるふると首を横に振り出した。
「すみません、あまりにユベール様の笑顔が眩しすぎて記憶を失ってました」
「気にするな、全ては俺の顔が良いせいだ。それで早く帰った理由なんだが、俺のことを心配してくれたんだな」
改めて問えば、キャンディスがこくりと頷いて肯定してきた。
照れることも隠すことも誤魔化すこともなく。更にはその時の事を話し出す。
「王宮の敷地内を歩いていたらどこかに行くバロック様を見つけて、彼の部下からユベール様に話を聞きに行ったって教えて貰ったんです」
それを知るや慌てて詰め所に戻り、ロブや同僚達に仕事を託して早上がりをして帰ってきた。
バロックがユベールに暴力を振るったり横暴なことをするとは思っていない。無理矢理に話を聞き出すこともしないだろう。
後ろ盾のために己の顔の良さでキャンディスを得ようとする一筋縄ではいかない性格だが、それをあっさりと話したり、手に入れる価値が無いと判断してもミモア捜索の情報を流してくれる。存外に融通の利く男だ。
それでもキャンディスがバロックを追いかけたのは、無理強いはされなくとも、そもそもユベールにとってミモアの話をすること自体が辛いからだ。
「でも二人でお茶を飲んでクッキー食べていたので、そんなに深刻じゃないのかなと思って部屋には入らずにいたんです」
「そうか。ありがとうな」
ユベールが感謝の言葉を告げる。嬉しさから自然と表情を和らげながら。
それをキャンディスが真正面から見て……。
「……っ! そ、そうだ、えぇっと、敷地内を歩いていたらバロック様を見かけたんです、それで」
「また記憶が飛んだか……。ほら、さっさと記憶を取り戻して座ってろ。夕飯はまだだが、何か食べるだろ」
「私もクッキーを食べたいです。ジャム付きで!」
優雅で美味しいティータイムの気配に、意識を混濁させていたキャンディスがパっと表情を明るくさせた。
「今日は林檎のジャムを作るって言ってましたもんね。バロック様と食べていたのもそれでしょう?」
「あぁ、そうだ。……だが残念なことにもうジャムは残ってない」
「な、なんでですか!?」
そんな! とキャンディスが悲痛な声をあげる。
「俺とリアが昼食に食べて、お茶の時間にも食べた。あと林檎を貰ったお礼に渡すってリアが一瓶持っていって、さっきもバロックに持たせただろ。それと……」
「それと?」
「昼過ぎに、ロブが『ジャムを作ると伺いました』って貰いにきた。それで終わりだ」
「あぁー、だから快く送り出してくれたんだ! どうりでなんかご機嫌だと思った……!!」
楽しみにしていた林檎ジャムが味わう前に無くなったことにキャンディスが嘆く。
「私のジャムゥ……」という声はなかなかに情けない。
「また作ってやるからそう嘆くな」
「……私、今日はジャムを心の支えにして仕事を頑張ったんです。それなのにこの仕打ち。なんて酷い、こんな話があって良いんですか……」
「思ったより落ち込むな」
そこまでか、と呟き、次いでユベールはキャンディスへと手を伸ばした。
頬に手を添えてぐいと上を向かせ、真正面からじっと見つめる。さながら強引にキスをするかのように。
だがキスはしない。ただ見つめるだけだ。正面から、じっと。
キャンディスの右目もまた見つめ返してくる。
そうしてしばし見つめ合い……、
「顔が良い!! ジャムは堪能出来なかったけど、ユベール様の麗しい顔は堪能出来たので我慢できます!!」
「そうか良かった」
あっさりと一件落着した。
「ジャムにしなかった林檎があるから、それを剥いてやる。リアも呼んで三人でお茶にしよう」
そう提案すれば、キャンディスが応じてリアを呼びに行った。
夕食の準備を終えたリアは二階に移動しており、階段の上から二人の会話が聞こえてくる。
楽しそうなその会話を聞きながら、ユベールは一人先にキッチンへと戻ると籠に入れてあった林檎を手に取り、果物ナイフを片手にするすると皮を剥き始めた。
手伝い始めた当初はぎこちなかったが、今ではすっかり慣れたものだ。
この姿を見たらまた誰か驚くだろうか。
果物の皮を剥くどころかジャムを作っていると知ればまさかと声をあげるかもしれない。
両親や弟、スティーツ、それに……、
レベッカとミモア。
彼女達も驚くだろうか。
だがレベッカは未来の王妃として勤めており、ミモアも今はフレノア国に居る。きっと自分に構っている場合ではないだろう。
そう考えると、こうやってのんびりと林檎の皮を剥いている自分はやはり蚊帳の外だ。
「でも、それも悪くないな」
自分の表情が和らぐのを感じながら切った林檎を皿に並べていけば、キャンディスとリアが楽しそうに話しながら部屋に戻ってきた。
◆◆◆
その晩、ユベールは枕に顔を埋めてじたばたともがいていた。
これは日中にかつての自分の言動を思い出したからである。
この行動は割とよくある事で、とりわけ婚約破棄騒動に関して、それも『真実の愛』の単語を思い出すと居ても立っても居られなくなるのだ。その解消が枕に顔を埋めて藻掻くことである。
そんな部屋にノックの音が響き、キャンディスが入ってきた。枕から顔を上げてゆっくりとそちらを向く。
「髪が乱れても麗しい。……じゃなかった。ユベール様、またじたばたしてるんですか?」
「……あぁ、うるさかったか?」
「いえ、ただ部屋の前を通りがかったらぼすんぼすん聞こえてきただけなんで、うるさいって程じゃありません。まだ続けます?」
「あと十分くらいは悶える予定だ」
今夜は根強い……、とユベールがうんざりした声で返せば、キャンディスがなるほどと頷き、部屋に入ってくると机へと向かった。ーーかつてキャンディスの部屋で棚になりかけていた机である。ユベールの部屋ではきちんと机として活用されているーー
そのイスに座り「どうぞ続けてください」と促してきた。
「かつて己の行動を思い出して悶えているユベール様の姿も趣がありますね」
「……これに関しては趣味が悪いと思うぞ」
「その恨みがましい表情も素晴らしい。顔が良い人は他人を恨んでもその顔の良さは衰えないんですね。苦悶と後悔にそれに恨みというスパイスが加わる、その顔を特等席で見させていただきます」
「今夜は随分と意地が悪いが、もしかしてジャムを食べられなかったことを恨んでるのか? 分かった、明日なにか好きなのを作ってやる」
後悔と自虐と羞恥とその他諸々で疲労とさえ言える表情を浮かべていたユベールだったが、キャンディスの相変わらずさを前にすると毒気が抜かれてしまう。
仕方ない、と苦笑しながら何が良いかとリクエストを求めれば「林檎のタルトが食べたいです!」という返事がかえってきた。
「タルトか。それなら昼食のデザートに間に合うように作ってやる。それと多めに林檎を買えればまたジャムも作るか。コンポートも挑戦してみたいんだよな。それに他にも買うものがあるし……」
あれこれと思い出しながら話す。
林檎だけでも荷物は嵩張るが、それを多めに、更に他にもとなると一人で持つには限度がある。リアが同行するとしても彼女に重いものは持たせられない。
「明日は非番だよな、早めに起こすから荷物持ちをしてくれ」
「かしこまりました。それじゃあ明日は早いのでユベール様も悶えずにもう寝てくださいね」
おやすみなさい、と一言残してキャンディスが部屋を去っていく。
それを見届け、ユベールは先程まで顔を埋めていた枕に視線を落とし……、「明日のために寝るか」と苦笑しながらぽんと軽く枕を叩いた。
後悔やら自虐やら羞恥心やらはまだ胸の内で渦巻いているが、明日林檎と一緒に焼いてしまおう。