25:かつての王子と、メイドと婚約者
ミモア・ミルネアは婚約破棄騒動の直後にフレノア国に渡った。
それが判明するやすぐさまバロックを始めとする捜索隊は彼女の足取りを追い……、そしてミモアの物と見られる日記の切れ端を見つけた。
「日記?」
「はい、ほんの一部分ですが。書かれている内容と筆跡からミモア・ミルネアの物で間違いないと判断しました。その日記から判明したことですが、実は彼女は……、え、このジャムうまいっ!」
「後で持たせてやるから本題から逸れてくれるな」
「し、失礼しました。えぇっと、そう、ミモアですが、実は彼女も聖女としての素質があったようです。仮にレベッカ様がその資格や能力を失った際にはミモアが国を治めることになっていたかもしれません」
話すバロックの表情が渋くなる。ただでさえ面倒な状況だというのに、更にややこしくなる事実が発覚し、胸中としては『もう勘弁してくれ』という所なのだろう。
対してユベールは初耳の情報に驚きを隠せずにいた。
この件についてはキャンディスから聞かされていないと伝えれば、判明したばかりなのだという。逆にユベールからキャンディスに伝えるよう頼まれ、それは頷いて了承しておく。
「でも、そうか……、ミモアにも聖女の素質が……」
「はい。これもミモアの両親や国王陛下も知らなかったようです。……ユベール様は」
言いかけ、バロックの視線が一瞬にして鋭さを増した。
あえて言葉にせず問うことでユベールの出方を窺っているのだ。視線が、一瞬にして纏う張り詰めた空気が、嘘も誤魔化しも許すまいと無言の圧を掛けてくる。
これに対してユベールは軽く息を吐き小さく首を横に振って返した。
「残念だが俺は何も知らない。そもそもレベッカに聖女の力があった事すらも俺は知らされてなかったんだ。父上……、いや、国王陛下が知らないことを知るわけがないだろう」
「……そうですか。不躾なことを聞いて申し訳ありません」
「気にするな、疑われて当然だからな。……ただ、何から何まで、婚約者だったレベッカについても、真実の愛だのと誓ったミモアに関してまで、俺は全部蚊帳の外だったってわけか」
ユベールが深く息を吐いた。だが悔しさや後悔の溜息ではない。過去の騒動を思い出して一息吐くようなものだ。
胸中はこの真相に驚いてはいるのだが、反面、驚いたところで今更どうなるという気持ちもあった。
全ての事実がまるで透明でいて分厚い壁を隔てて展開されているかのような感覚。
壁の向こう側にはもう戻れない。仮に戻る事を許されたとしても、きっと自分はもう戻らないだろう。そんな達観に似たなんとも言えない感情が湧く。
ユベールを気遣ってか、バロックが窺うような声色で「レベッカ様とは……」と話しかけた。
「レベッカ様とは互いの事を話したりはしなかったのですか?」
「そんな仲でも無かったし、互いの話なんて碌にしなかったな。そもそも、婚約自体は幼い頃から結んでいたが、フォルター家が王都に住まいを移すまでは顔を合わせたことすらなかったんだ。そもそも婚約に俺達の意思なんて関係ないからな」
随分と冷めた物言いだが、政略結婚なんてこんな物である。
これに対してはバロックもさして異論を挟まずに相槌を返した。自身もまた貴族の子息であり、ゆえに結婚とは家と家の繋がり、互いや家の利益で結ぶものだと割り切って考えている。
一度として顔を合わせることなく釣書きだけで結婚まで進めるのも稀ではない。
とりわけそれが王族と公爵家ともなれば、当人達が生まれる前から決まっていた可能性すらあるのだ。
だからこそミモアはユベールに対して『真実の愛』という浮ついた言葉を使ったのだろう。
そこまで読んでいたのか、とバロックが心の中で呟いた。もちろんユベールを前にして口に出す事は出来ないが、きっとユベール本人も同じ事を悟っているだろう。
「王都に来てからレベッカは王妃教育を始めたんだが、それはもう、俺だったら音を上げそうな厳しさだよ。……俺よりも期待されてると苛立ったが、今考えてみれば俺の嫉妬は的外れだったんだろうな」
ユベールは自身が第一王子であり次期王だと考えていた。
レベッカがいかに未来の王妃と期待される才女であろうとあくまで婚約者であり、ユベールと結婚するからこその未来の王妃でしかない。
だがレベッカの方が厳しい王妃教育を受けていた。家庭教師も質の良い人材を当てられ、遊ぶ暇もない多忙な日々。それをレベッカは見事にこなしていったのだから周囲の期待が彼女に注がれていくのは空気で分かった。
とりわけ、両親である両陛下はレベッカをまるで娘のように可愛がり、彼女の聡明さを褒め、未来に期待していたのだ。
「国王陛下からはよく『レベッカを大事にしろ』と言われていたよ。あの時はただレベッカが婚約者だからだと思っていたが、実際は彼女が聖女だからだったんだろうな。まぁ、今となっては真相を知ったところでどうしようもない話だ」
「それは……、確かに仰る通りです」
「俺が知ってる情報はこれぐらいだ。全て話してるから今更新しい情報も無いだろ」
あっさりとユベールが話を終え、挙げ句に紅茶を飲みながら「他に何か聞きたい事は?」とまで促す。
もっとも、問われたところで新たな情報を提示できるわけがない。知っていることは洗い浚い話しているし、そもそも全てにおいて蚊帳の外だったのだ。
バロックもそれは理解しているのだろう、この話し合いをこれで終わりにしようとし……、ふと思い立ったように「そういえば」と話を続けた。
「キャンディス・クラリッカについてですが」
「キャンディス?」
この場でなんでキャンディスの名が出てくるのか、とユベールが不思議そうにする。――現在地はキャンディスの家なのだが――
「あいつだって蚊帳の外だぞ。というか俺よりも無関係だからな。ただ俺の顔が好きで首を突っ込んだだけだ。……助けられた身で言うのもなんだが、それもどうかと思うけどな」
「それは存じております。ただ単純な疑問と言うか、ミモアの件とは関係ないのですが、どうしてレベッカ様はあれほどキャンディスを気に入っているのかと不思議に思いまして。ユベール様は何かご存じですか?」
レベッカ・フォルターは誰に対しても分け隔てなく接し、同時に公平である。公爵令嬢であり聖女、そして未来の王妃という立場からそう心がけているのだろう。その姿勢は国を統べる者として適している。
……だがキャンディスにだけは別だ。レベッカは見て分かる程にキャンディスを贔屓している。
厳しい顔をしていたのに彼女が来るだけで表情を和らげ、仕事に戻ろうとするところを呼び止めてまでお茶に誘う。
それは年頃の令嬢らしいと言えばそうなのだが、レベッカ・フォルターらしさは皆無である。
あまりの態度の違いに、バロックやスティーツがレベッカの後ろ盾を得るためにキャンディスを手に入れようと考えたほどだ。
「確かにあれは分かりやすいし、レベッカらしくないよな。俺も一度理由を聞いたことがある」
当時、まだユベールはキャンディスの事をよく知らなかった。
田舎出の末端騎士ゆえ王族の護衛に着くこともなく、女性騎士も少なくはあるがさりとて珍しいというほどでもない。当人も向上心ややる気は一切無く、活躍するでもなく功績をあげるでもない。末端騎士隊の一人に過ぎず、第一王子が把握していないのも無理はない。
だがさすがにレベッカがあれほど贔屓にしていれば自然と認識する。それと同時に、なぜ? という疑問も湧く。
『レベッカ、なぜあの騎士を気に掛けるんだ』と、そう尋ねるのは至極普通の流れだろう。
「それに対して、レベッカ様はなんと?」
「『以前に少し』だけだ。当時は疑問には思ったがキャンディス自体には興味はなかったし、レベッカも言い切ると直ぐに立ち去ってしまったから、それ以上は聞き出そうとしなかったな」
「……そうですか。今はキャンディスから聞き出そうとは思わないんですか?」
「あいつから?」
バロックのもっともな問いかけにユベールが意外そうな表情を浮かべる。
次いでしばし思案したのち「考えもしなかったな」と呟いた。
「確かにキャンディスに聞き出せば分かるかもしれないな。でも別に聞き出さなくても良いさ」
「良いんですか? 気にはならないんですか?」
「そりゃ気にはなるが、今話さないのは理由があるんだろ。……それに、あいつならちゃんと話してくれる」
ふっとユベールが表情を緩めた。
視線を手元の紅茶に落とす。そこに映る自分の顔を見つめて柔らかく笑った。
「レベッカのこともミモアのことも何も知らされてなくてこの様なのに、不思議だよな、キャンディスはいつか話してくれるって考えてるんだ。だからそれまで何も言わずに待つし、その時には俺はどんな話でも受け入れようと思う」
「ユベール様……」
紅茶に視線を落としながらユベールが胸の内を語る。
だが次の瞬間はっと顔を上げた。その表情は「語りすぎた」と言いたげで、次第に頬が赤くなっていく。
「そ、それにっ! あいつは俺の顔が好きだから、いざとなったら正面から見つめて問えばあっさりと全部話すだろうしな!!」
上擦った声でユベールが無理やりに結論を告げ、更には「ジャムの用意をしてくる!」と立ち上がるやキッチンへと向かってしまった。
明らかな逃げである。それが分かっているからこそバロックは引き留めることもせず、ユベールが去っていった先を肩を竦めながら見つめ続けた。
手土産として用意されたのは瓶に詰められたジャム。お茶請けに出したものだ。
それを小さな紙袋に入れて渡すもバロックは遠慮しだした。
近衛騎士隊長として王家に仕えている身で、王家から追放されたユベールから物を貰うのは躊躇われるのだろう。もしくは急な訪問のうえに手土産まで貰うのは気が引けるのか。
「店さえ教えて頂ければ自分で買いに行きますので」
「俺が作ったジャムだからどこにも売ってないぞ」
「え、ユベール様が……、このジャムを……?」
「あぁ。アデル村の作り方に倣ったから村に行けばあるだろうが、ここから馬車で数日だ。それにどこの家庭も販売用ではなく家庭用として作ってるから手に入れるのは難しいかもな。だがいらないのなら」
「い、いります……。ありがたく頂戴します」
「あの近衛騎士隊長バロックが俺のジャムに屈したか。……悪くないな」
不敵な笑みを浮かべるユベールに対して、バロックが歯痒そうな表情を浮かべながらもしっかりと紙袋を受け取った。
そうして一礼して去ろうとするバロックを、ユベールが「そういえば」と思い出して呼び出した。
「急な訪問自体をとやかく言う気はないが、一つだけ忠告しておく」
真剣な声色でユベールが告げれば、その空気に当てられたかバロックもまた表情を真面目なものに変えた。
騎士としての習慣か背筋を正してユベールに向き直る。まるでかつて第一王子を前にしていた時のように。一瞬にして騎士らしい逞しさと張りつめた空気を纏うのだから流石である。
「忠告とはどのような事でしょうか」
尋ねる声は普段より幾分低く、何を言われるのかと探るような色さえある。
彼に焦がれる女性達であっても、威圧感を纏う今の彼を前にして更に低い声で問われれば臆しかねない。
そんなバロックを前にして、ユベールは「いいか」と前口上を置くとゆっくりと口を開いた。
「この時間帯はどこのご家庭も夕食の準備で忙しいんだ。訪問するなら時間を考えた方がいい」
真剣な顔付きと声色でユベールが告げれば、この忠告は予想していなかったのかバロックが唖然とした。張りつめていた空気が一瞬にして四散していく。
「かしこまり……ました……」という返事は辛うじて絞り出したと言いたげなものだった。