13:王妃と王子とオレンジとジャム
「キャンディス・クラリッカ」
キャンディスが名前を呼ばれて足を止めたのは、ロブと共に王宮の敷地内を歩いている最中。
振り返れば数人の集団がこちらに近付いてくる。その中の一人に目を留め、キャンディスとロブはすぐさま背筋を正した。
侍女達を従えているのは王妃だ。彼女は侍女長らしき女性に離れた場所で待つように命じ、一人が持っていた布の袋を受け取るとこちらへと歩み寄ってきた。
美しい女性だ。王妃としての威厳もありつつ、どことなく儚い繊細さもある。名前を呼ぶ声も鈴の音のようだ。
「これを受け取ってもらえるかしら」
「いつも申し訳ありません。ありがたく頂戴いたします」
王妃から差し出された布の袋を受け取れば、ズシリとした重みが腕に伝わった。
お礼の言葉と共に頭を下げる。だがすぐさま「母上!」と声が聞こえてきて、下げたばかりの頭を上げた。
見れば道の先から一人の青年が足早にこちらに歩いてくる。その歩みに合わせて揺れる銀の髪、涼やかな顔付きは整っているが、今は怒りが全面に押し出されている。
第二王子ソエル。今は第一王子だったユベールが除籍されているため、序列で言えば彼が王位継承権一位とされている。
「母上、やはり隠れて兄上に金を渡していたんですね」
「違うのよ、ソエル。これは……」
「キャンディス、お前の狙いは金だったのか? だからユベールを預かるなんて言いだしたのか!」
母の制止すらも聞かず詰めてくるソエルは怒りの色を漂わせており、幼い子供や年若い令嬢ならば臆しかねないほどの気迫だ。彼の立場を考えれば並の男でも慌てて頭を下げかねない。
もっともキャンディスは彼の怒りを真っ向から受けても「はぁ……」と気の抜けた返事をするだけである。
「顔がどうのと言っていたが、金が目当てだったとはな。俺もレベッカも、ましてや父上さえも騙したのか」
「ソエル様、落ち着いてください。勘違いをしていらっしゃいますよ」
「ここまで見られてしらを切るつもりか?」
ソエルの言葉には怒りと共に確信を掴んだという強い意志がある。そして嘘を言わせるまいという気迫。
その口調を見るに、きっと薄々母の行動を怪しんでいたのだろう。
勘当したとはいえ王妃は息子への情を捨てきれず、彼を預かった騎士に秘密裏に金を渡していた。
騎士もその金が目当てであった……。
きっとソエルの中にはそんな推測があるに違いない。
彼は兄であったユベールの起こした騒動に巻き込まれ、今は次期国王として日々励んでいる。
結果を見れば次期国王になりレベッカと婚約を結ぶという良い方向に進んではいるものの、ソエルは振り回されてばかりだ。ユベールが健在だった頃は第二王子として兄を支えようと努めていたというのだから、その想いも努力も踏みにじられたように感じたに違いない。
そこを更に母親にまで裏切られたと知ったのだから怒りは尤もである。もしかしたら振り回されてばかりな事への苛立ちもあるのかもしれない。
だが今回の件は見当違いだ。
「だから落ち着いてください、ソエル様。私はお金なんて受け取っていません」
「それなら手に持ってるものは何だと言うんだ」
ソエルの視線が厳しくキャンディスの手元に注がれる。
上質の布で覆われた袋。これを人払いしてまで渡したのだから怪しむのも仕方ないのかもしれない。
ならば、とキャンディスは手にしていた袋を軽く持ち上げた。
「これはオレンジです」
軽く揺らせごろっと中でものがぶつかる音がする。
金が入っている音。……ではなく、拳大の果物がぶつかりあう音だ。
「……オ、オレンジ?」
「はい。オレンジです。それも良いオレンジです」
袋の口を開いて中を見せれば、ソエルも言われるままに覗き込んできた。
オレンジがたくさん入った袋。オレンジ色で染められている。ふわりと柑橘系の心地良い香りが鼻を擽る。
予想外の袋の中身に、ソエルが目を瞬かせた。その表情はどことなく虚を衝かれた時のユベールに似ている。
「な、なんでオレンジを……」
「美味しいからです」
はっきりとキャンディスが答えれば、ソエルの表情から怒りの色が消えていく。……その代わりに怪訝な色が増していくのだが。
それでもキャンディスは二度三度と袋を揺らしてごろごろと鳴らしてみせた。良い音だ。
「なぜ母上がキャンディスにオレンジを」
「私が好きだからです。そのまま食べても良し、フルーツサンドにしても良し、ジャムにしても良し、ジュースにしても良し。あの甘酸っぱさと香りが良いですよね。王都にはオレンジとチョコレートを合わせたお菓子もあると知り衝撃でした」
「わ、分かった。お前がオレンジを好きなのは分かった」
だからちょっと止まってくれ、とソエルが制止してくる。
「分からないのは、なぜ母上がキャンディスにオレンジを渡したのかということだ」
「以前に王妃様にお声を掛けられたんです。そこで……」
キャンディスに声を掛けてきた王妃は、悲痛な表情で自分には何か出来る事はないかと尋ねてきた。
そこにはきっと、勘当すると決めた息子へのなおも断ち切れぬ未練、ここまで事が大きくなってしまった罪悪感、そして勘当した息子についてを全て一介の騎士に託してしまった申し訳なさもあるのだろう。
お金は渡せない、大したこともしてやれない。
それでも迷惑をかけた詫びになにか……。
「と問われたので、オレンジを貰うことにしました」
「なぜ」
「だから美味しいからです。これを持って帰るとユベール様がジャムにしてくれるんです。顔の良い男が作る美味しいジャム。すばらしい。良いことしかありませんね」
「ユベール……、やはりあいつのためか!」
ユベールの名前を聞いて失いかけていた怒気が再び舞い戻ったのか、ソエルの表情が一瞬にして険しくなった。
彼は温厚な人格者だと聞くが、今だけは口調も荒い。どれだけ落ち着いた人格者であっても今回の件では感情が出てしまうのだろう。
離れた場所で様子を窺っていた侍女達までもが異変を感じて様子を窺いだす程だ。
だがそれに対してもキャンディスは落ち着いたまま「いえ」と否定の言葉を口にした。
「ユベール様はジャムはリンゴの方が好きなので、オレンジのジャムを食べるのは主に私です。つまり私のためです。顔の良い男が作る私専用の美味しいジャムです。あと次点で食べるのはロブ上官です」
「へぇ、あのジャム作ってたのユベール様なのか。アデル村の味を完全に再現してるな」
凄いな、とロブが褒める。更には「次からもう一瓶増やしてくれ」とまで言ってくるあたりかなり気に入っているのだろう。
事実ユベールが作るジャムは美味しい。
オレンジに限らず、イチゴ、リンゴ……、とどれも絶品だ。リアから教わっているためアデル村の味になっており、ゆえにここいらで売っているジャムよりもキャンディスには馴染み深い味わいだ。
「王都で売ってるジャムも美味しいとはいえ、やっぱりアデル村のジャムが一番ですよ」
独り言ちて頷く。隣に立つロブもまた頷いているあたり、彼は別の村の出身だがジャムに関してはアデル村が一番だと考えているのだろう。
「ユベールがジャム作りを……」
とは、王妃の言葉。
信じられないと言いたげだ。
「食パンに塗っても美味しいしクッキーにも合う、紅茶に入れると香りと味わいでそれもまた良しな絶品ですよ。ジャムに限らず、ユベール様は最近自ら台所に立ってあれこれ作っています」
「そ、そうなの……」
「おっと、もうこんな時間だ。ありがとうございました。では失礼します」
頭を下げてその場を後にする。
王妃とソエルがいまだ不思議そうな顔をしている。何か言いたいが的確な言葉が浮かばない、そんな表情だ。
だがそれが分かっても気付かないふりをして進んだ。些か足早になってしまう。
「どうした?」
隣を歩くロブに問われ、キャンディスは真剣な顔付きで口を開いた。
「ユベール様のことを話していて思ったんです。あれほど顔が良い上に、スタイルも良くて声も良い。それだけでも素晴らしいのに料理も出来て美味しいジャムも作れる……。ソエル様や王妃様がユベール様を取り戻そうとするかもしれません」
「……あー、うん、そうだな。そうかもしれないな」
「ユベール様は私が貰ったんです。返しませんし渡しません」
はっきりと断言し、早々に王宮を後にするために質の良い絨毯が敷かれた通路を歩く。
この執着にロブは意外だと言いたげな表情を浮かべつつ、自分もまた畏まった王宮は長居する気も無いと、キャンディスに合わせて足早に通路を進んだ。