01:転落王子の真実の愛
キャンディス・クラリッカはうんざりしていた。
だがそれを顔に出すことは許されないので、この場は努めて冷静に、静かに黙って持ち場を離れず立っていた。
自分の仕事は有事の際にこの場を守ることだ――今もだいぶ有事な気もするが――。そう己に言い聞かせ、漏れ出そうになる溜息と欠伸を何度も噛み殺す。
傍目にはきっとこの状況でも冷静さを失わない立派な女騎士とでも映るだろう。それで評価が上がって給金が増えるなら良いのだが、生憎とこの状況では誰もキャンディスを見てはいない。それはそれで巻き込まれなくて良いのだけれど。
なにせ目の前では、スレディット国第一王子ユベール・スレディットが、婚約者である公爵家の令嬢レベッカ・フォルターに婚約破棄を言い渡しているのだ。
ユベールの隣にはフォルター家のメイドであるはずの少女ミモア・ミルネアがぴったりとくっ付いている。彼女は涙で潤んだ瞳でユベールを見つめ、かと思えば怯えを孕んだ表情でレベッカに視線をやる。その姿はまさに儚い少女だ。
「ミモアは俺に真実の愛を教えてくれた。だから俺も彼女の愛に応えるつもりだ。レベッカ、君との婚約は破棄させてもらう」
ユベールの声には決意の色が宿っており、広間によく響く。
居合わせたユベールの両親である両陛下や、弟の第二王子、彼等の側近や呼ばれた公爵家夫妻までもが信じられないと言いたげな表情をしていた。
「真実の愛、か……」
ポツリと呟いたのは、キャンディスの隣に立つ上官ロブ。
ちらと見上げれば彼もまた無表情で目の前のやりとりを見ている。その顔の裏にうんざりだという呆れが隠されているのは、長年の付き合いならば一目で分かる。
「ロブ上官は結婚してるじゃないですか。奥さんとの愛は真実の愛なのでは?」
「どうだろうな。あれは最近『あんたの良い所は稼ぎ』と堂々と俺の顔を見て言ってくるし、真実の愛って言うほどのもんじゃないだろ」
「でもロブ上官が王都に異動になった時には付いてきてるし、愛ではあるんじゃないですか?」
「愛ではあるが、真実の愛っていうほどかと問われるとどうもな。そもそも真実の愛ってなんだ? 真実とは?」
愛とはなんぞや、はたして何を以て真実と言うのか。
哲学的に悩みだすロブの隣で、キャンディスは話題を振った身でありながらも早々にこの話題を切り上げてしまった。
「真実の愛かぁ……」
つい無意識に左目に手をやる。眼帯で覆った左目、塞がったままの左目を布越しに擦る。
それとほぼ同時に、広間に笑い声が響いた。先程のユベールの婚約破棄宣言さえも霞みかねないよく響く声だ。
この笑い声を発したのは婚約を破棄された側の公爵令嬢レベッカ。本来ならば青ざめて言葉を失っていてもおかしくない立場の令嬢は、どういうわけか傷付いた様子もなく、それどころかユベールに対して嘲笑うような表情を浮かべ、そしてミモアには侮蔑の視線を向けた。
漂っていた空気がガラリと変わり、ん? とキャンディスが首を傾げる。
「なんだか様子がおかしくなりましたね」
「頼むから俺の任期が終わるまで問題を起こしてくれるなよ……。あと半年、あと半年で田舎に帰れるんだ……」
ロブの訴えは懇願するような色が込められている。
あと半年でロブの王都での任期が終わり、彼は治安維持という名目で平和な故郷に帰る予定だ。
それを目前に、どうかその日まで平穏無事に……。と願う気持ちは分かる。キャンディスだって出来れば彼を心穏やかに見送ってやりたい。
だけど……。
「そういうこと言うと問題が起きるんですよ。知ってます?」
「末端の騎士でしかない俺が何を言おうが問題は起こるだろう」
「それもそうですね。まぁ、見事に起こってますし」
自分達は所詮末端の騎士。呆れども嘆けども何も変わらない。
そんな自暴自棄とすら言えない達観の境地でキャンディスは目の前の光景に視線をやった。
既に情勢は一転し、気付けばレベッカの方が優勢になっている。
曰く、レベッカは公爵家の令嬢でありながらもその身に聖女の力を宿しており、実は彼女こそが国を統べる資格を持つ者だという。
それを知った両陛下が第一王子ユベールの伴侶にと縁談を結んだ。つまり『王位継承権を持つ第一王子の伴侶に公爵家令嬢が選ばれた』ではなく、実際は『聖女である公爵家令嬢に王妃になってもらうべく第一王子の伴侶に迎え入れた』ということらしい。
「まったくてんで初耳ですね」
とは、この話を聞いていたキャンディス。
『聖女』なんて寝る前に親が子に話してやる御伽噺の登場人物だと思っていたが、実際に存在し、更には公爵令嬢レベッカがそうだったなんて。
さすがにこれには驚きを露わにしてし、右目だけだがぱちくりと瞬きをする。
「ロブ上官、御存じでしたか?」
「お前が知らない公爵令嬢の話を俺が知ってるわけないだろう。俺だって初耳だ」
「ですよねぇ」
どうやらこの話は国の上層部、それもごく一部しか知らされていないらしい。
きっとあれこれと考えた末での判断なのだろう。末端の騎士が知らされていなくても仕方ない。
だがさすがに婚約者であり第一王子であるユベールには……、
「そ、そんなこと俺は知らないぞ!」
まるでキャンディスが抱いた考えに即答するかのようなユベールの声が響いた。
どうやら彼は知らなかったらしい。見て分かるほどに動揺し、その態度から白を切っているとは思えない。ぴたりと寄り添っていたミモアも次第に己の立場が危うくなっていくのを感じてか表情を渋くさせている。
そんなユベールに対して盛大な溜息を吐いたのはレベッカ。冷え切った視線が容赦なくユベールに注がれる。そのうえユベールの両親である両陛下もまた怒りを露わに「レベッカを大事にしろとあれほど言ったのに」と息子を責め立てる。
挙げ句、第二王子ソエルがそっとレベッカの隣に立ち、彼女がいかに清廉潔白かを訴え、聖女として出来た女性かを唱え、兄であるユベールを非難しだす。
憐れユベールの立場は更に無くなり、落胆する彼に止を刺すかのように両陛下が王位継承権の剥奪と除名を言い渡した。
次いでレベッカとソエルの縁談を結ぶと宣言する。この話にレベッカとソエルは満更でも無さそうだ。
これには思わずキャンディスもロブと顔を見合わせてしまった。
信じられないものを見た、と声に出さずとも語り合う。
お互い目を丸くさせる。……もっとも、キャンディスの左目に関してはどれだけ驚いても丸くはさせられないのだが。
「突然始まり色々なことが判明しそして終わりましたね」
「随分と力技だが、めでたしめでたしってところか」
ユベールが婚約破棄を言い渡した時こそどうなることかと思っていたが、存外あっけないもんだ。
もっとも、こんな暢気な事を言っていられるのはキャンディスとロブが居合わせただけの第三者だからである。
ちらと視線をやればユベールは言葉を失って立ち尽くしている。今の彼はさぞや絶望と混乱している事だろう。めでたしめでたしなんて言えるわけがない。
それでもぎこちない動きながらに隣へと顔を向け、そこに居るミモアを見た。彼女はユベールよりも動揺を露わにしており、数歩ふらりと後退った。矢継ぎ早に明かされる事実に立っていられないのか、もしくは……。
「ミモア……。こんな事になってすまない。だけど俺が何とかするから、君に苦労はさせない。だから二人で一緒に」
「冗談じゃないわ……」
「……ミモア?」
ユベールが困惑しながらミモアを見る。
それに対して見つめ返すミモアの眼光の鋭さと言ったらない。つい先程までしなだれかかるかのように寄り添っていたというのに、今はユベールと距離を取り、彼が一歩近付くと露骨に一歩下がった。儚さは消え去り、愛らしい顔付きに似合わぬ憎悪の色が浮かび始める。
「……ミモア、どうしたんだ」
「王妃になれると思ったのに! ようやくあの女の上に立てると思ったのに!!」
ミモアが声を荒らげ、ぎょっとするほどの険しい顔を浮かべ、かと思えばユベールを押しのけるようにして走り出した。
広間の出口へと。ユベールに名前を呼ばれても振り返ることもせず扉を開けるや飛び出していく。警備も咄嗟のことに対応しきれずにおり、ミモアの姿はあっという間に見えなくなった。
瞬きの間の逃亡劇。残されたユベールは広間の扉を見つめ、掠れる声で戻ってくるはずのない女性の名を呼んだ。その姿の憐れな事と言ったら無い。
広間はシンと静まり返り、そんな中、隣にだけ聞こえる声量でロブが「連れて逃げもしないか」と呟いた。
「あれは王子の事なんて欠片も想ってなかったんだろうな。ユベール王子も質の悪い女に捕まったもんだ」
「ユベール王子、どうなるんでしょうか」
「陛下が除名を言い渡した以上、水に流すことも出来ないだろう。なにより聖女である公爵令嬢がそれを許さないだろうしな。妥当なところは平民落ち、もしくは国外追放もあるかもしれないな」
「そうですか……」
ポツリとキャンディスが呟き、いまだ扉を見つめるユベールへと視線をやった。
困惑と絶望を綯交ぜにした表情。青ざめた顔。己の転落を前に深緑色の瞳が虚ろぐ。窓から入り込んだ風だけが彼に触れて銀の髪が揺れる……。
ミモアが捨てていった王子。
元婚約者の公爵令嬢も、親であるはずの両陛下も、弟の第二王子も、誰も彼に手を差し伸べない。
「勿体ないなぁ、あんなに綺麗な顔なのに」
ポツリと漏らされたキャンディスのこの言葉に、ロブが驚いてキャンディスへと視線を向け……、次いで眉根を寄せて顔を背けた。
痛々しいと言いたげにロブの顔が歪む。
「まぁ……、お前からしたらそうなのかもな」
「そうですよ。あんなに綺麗な顔、もったいないじゃないですか。……誰もいらないなら私が貰っても良いんですかね」
「……はぁ?」
「良い顔が近くにある生活。うん、素晴らしい。よし貰おう!」
「貰おうってお前っ……!」
待て、とロブが制止の声をあげる。
だがそれとほぼ同時に、キャンディスが「発言の許可を求めます!」と声をあげると同時に片手を挙げた。
いち早く気付いたのは公爵令嬢レベッカだ。彼女はキャンディスが発言したことに僅かに驚き、だが金色の髪をふわりと揺らして駆け寄ってくると穏やかに微笑んだ。
レベッカの瞳がキャンディスを見つめる。青色の綺麗な瞳だ。
だが一瞬その瞳が僅かに揺らいだ。キャンディスの左目、黒一色の布の眼帯、そこから頬へと走る傷痕からふいと逸らされる。「どうしたの?」という声は微かな躊躇いを感じさせる。
「貴女がこういう場で発言をするのは珍しいわね。何かあったの?」
「この場で発言の権利が無い事は承知しておりますが、一つお願いしたいことがあります」
「そんな、発言の権利なんて気にしないでなんでも言って」
ユベールに対しての厳しい態度から一転して優しい声色で話すレベッカに、それでもキャンディスは背筋を正し一介の騎士らしい態度で「申し上げます」と前置きをした。
そうして上げていた片手をすっと下げ、いまだ唖然としたままのユベールを指差し、はっきりとした声色で告げた。
「彼を私にください」
と。
それに対しての「え?」という声はレベッカのものか、それとも話を聞いていた両陛下や居合わせた者達の声か、もしくはゆっくりとこちらを向いたユベールのものか……。
「キャンディス……、彼をくださいって……。ユベールのこと?」
「はい。ユベール王子をください」
「なんで、どうしてあなた……」
「なんでって、それは……」
キャンディスがユベールを見れば、彼とばちりと視線が合った。
整った顔付き。理解が追い付かないと言いたげな、一般的であれば間の抜けた表情になるであろうこの状況でも彼の顔付きは麗しい。呆然としても崩れないのは流石だ。それほどまでに彼は美しい顔をしている。
「ユベール様の顔が良いからです」
だから欲しいんです、と断言すれば、誰もが理解出来ないと言いたげな表情を浮かべた。この場に居る全員の頭上に疑問符が浮かんでいる。
そんな中でもやはりユベールの顔は飛び抜けて美しいのだ。