表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

シヴァ

「後にしてくれないか」


 その言葉に、シヴァは目を丸くした。



 先週、妻が失踪した。

 春が過ぎ去り、まもなく夏がやってくるだろうという季節に。

 そう――あれは風がぬるい夜だった。


 その日は久しぶりに、王宮に参内(さんだい)した。

 そして仕事をした帰りに、偶然出会った旧友と、夜通し飲み明かしていたのだ。

 屋敷に帰ったのは、夜が明ける少し前になった。

 本来なら、妻も、使用人も、皆が寝静まっている時間帯だった。

 屋敷は当然真っ暗なはずだったのだ。

 だがその日は何故か、遠目から見ても分かるくらい煌々と明かりがついていた。


 胸騒ぎがした。


 まるで、取り返しがつかないことが起きてしまったような予感さえした。

 シヴァは急いで屋敷に駆け込んだ。

 目が眩むようなシャンデリアの光の下、慌ただしく駆け回っているメイドを捕まえる。


「お、奥様が――旦那様!?」


 その言葉を聞いた瞬間、ひゅ、と喉が鳴った。

 一瞬で嫌な想像が駆け巡り、体が動く。

 メイドの言葉を最後まで待つことすらできずに、シヴァはナンシーの部屋へと向かった。

 屋敷の中を走ったのは初めてだった。

 ナンシーの部屋の前まで来て、シヴァはようやく歩を緩めた。

 早く扉を開けろと、本能が叫んでいる。

 だが、シヴァはすぐに押しかけることはせず、ゆっくりと呼吸を整えた。

 妻にだけは、情けない姿は見せたくない。


(病気か? いや、そうとも限らない)


 息を整えたことで、少しだけ冷静さが戻ってきた。

 シヴァが思い描いた『最悪の想定』でない可能性が視野に入り、少しだけ焦りがましになる。


 最近は、妻とあまり話をしていない。


 思うことがあって、少し避けていたのだ。

 それが間違ったことだったとは思わないが。

 それでも、今ナンシーがどんな状態にあるのかを想像できないのが、歯がゆかった。


(喫緊で話をしたのは、数日前だったか……。そこまで体調が悪いようには見えなかったが――)


 ああ、でも確か、少し顔が青白かったような気もする。

 それに心なしか、震えていたような――。


(いや病気ならば、とっくに知らせが来ていたはずだ。それに、昨日まで言葉は交わさずとも、同じベッドで寝ていたんだ)


 いつも通り彼女は端の方で寝てはいたが、体調が悪いようには見えなかった。

 病気の可能性は低いだろう。

 それに、なんだろう。

 病気にしては、あまりにも皆慌ただしく動いているような気がした。

 そうだ。

 この騒ぎようは、病気というよりはむしろ――。

 心臓の鼓動が速くなっていく。

 嫌な予感が再び込み上げてきて、シヴァはノックも忘れて、ナンシーの部屋に押し入った。


 大丈夫だろう。ナンシーはそこにいるはずだ。


 そう自分に言い聞かせても、現実は誤魔化すことができなかった。


 そこに、妻の姿はなかった。


 想像していた青い顔をする妻はいない。

 ましてやシヴァの訪れに頬を赤らめる幻想の妻なんていやしなかった。

 そこにあったのは、一枚の紙。

 眉を顰めて紙を覗くと、そこにはナンシーの署名が書いてあった。


「何だ? これは……、離婚届?」


 何故、ここに?

 シヴァには、理解ができなかった。


 ナンシーが姿を消したこと。

 ナンシーの部屋に離婚届があること。

 ましてや、なぜナンシーがこんなものに署名をしているかなんてことは、知るはずもなかった。


 ずきりと頭が痛んだ。

 目の前がぐらりと揺れる。


 今になって酒が回ってきたか。

 ああ、もう何も考えたくない。

 頭を押さえていると、開きっぱなしの扉からメイドがやってきた。


「あ、あの……」

「ちっ、なんだ」

「っ、便箋が、落ちています……」


 舌打ちに、メイドは肩を揺らした。

 こめかみを押さえて、シヴァは机の足に隠れていた便箋を拾う。

 どうせ何か関係ない手紙だろうが――。

 そこには、綺麗なナンシーの字でこう書いてあった。


『どうかお元気で。さようなら――』

 

 シヴァは机を叩いた。

 そうして暴れ狂う心を抑えつけて、ようやく状況を理解した。

 即ち――(ナンシー)が家出したということを。

 いや、それどころか……これは、離婚の危機らしい。

 ひっ、とメイドの声が漏れる。

 強い怒りが込み上げてきた。

 まるで、心の内に渦巻く焦燥を覆い隠すようかのに。


「ナンシーを探せ。三日以内にだ――」


 ナンシーは、シヴァに情を移していた。

 そう簡単に離別の言葉を紡げるはずがない。

 だから、きっとこれは大袈裟な家出にすぎないだろう。

 そうだ。そのはずだ。

 シヴァは自分に言い聞かせるように何度も心のなかで呟いた。

 今までにないほどに心臓が鼓動を速めていた。

 父母が死んだときも、急に伯爵家を継ぐことになったときも、去年の水害のときでさえ……。

 こんなにもシヴァが置き去りにされたような心細さを覚えたことはなかった。


「ナンシー……」


 シヴァはまるで震えているかのように、小刻みに揺れていた拳を握った。

 どうせ、実家に帰っているか、そうでもなければ友人の家にでも行っているんだろう。


(もしくは……いや)


 少なくとも、まだそこら辺にいるのは間違いないだろう。

 すぐにでも見つかるはずだ――。

 けれど、シヴァの想像とは裏腹に、ナンシーは一週間経っても見つけることが出来なかった。



「ですが、お義父(とう)さん。今は一大事です」


 シヴァは食い下がった。

 義父は眉を顰める。

 まるで煩わしいと言うように。


「お義父(とう)さんと呼ぶな。お前たちは離婚したんだろう」

「……離婚はしません。少し、諍いがあっただけですから」


 シヴァは密かに歯噛みする。

 諍いなんてなかった。

 確かにここ最近は、ナンシーと話をする機会がなかった。

 だが、それが理由になるとは思えなかった。

 ナンシーが何を思って、出て行ったのか。

 シヴァには分からない。

 だが、ここは多少嘘をついてでも、義父の協力を得なければならない。

 シヴァではナンシーを見つけることが出来なかった。

 しかし、義父ならばシヴァが知らないナンシーの隠れ場所を、知っているはずだ。

 そのために、わざわざ妻の実家に来て頭を下げているのだから。


「今こうしている間にも、ナンシーは危険な目にあっているかもしれません」

「問題ない」

「ナンシーがどうなってもいいのですか?」

「問題ないと言っている。なぜなら――娘はこちらで保護しているからだ」

「――は?」


 思わず睨みつけようとし、怯む。

 義父はシヴァを憎悪に満ちた目で見ていた。


「まさか、娘が離婚を申し出た訳が分からないわけではあるまい。いいか――二度と娘の前に姿を現すな」

「は、それは――、」

「つまみ出せ」

「ちょ、待ってくだ――くそっ、離せ――お義父さん」

「その呼び名を使うなと……」

「――なぜ、ナンシーは出ていってしまったのです」


 義父は目を見開いた。

 そのあと、後悔を乗せるように、くしゃりと容貌を歪めた。


「お前と縁談を組ませたのは、間違いだった」



 シヴァが右往左往しているときも、待ってくれないのが仕事というものだ。

 ましてや無くなってなんか、くれやしない。

 シヴァは足を揺らしながら、書類仕事に取り掛かっていた。

 中々内容は頭に入ってこず、同じ文章を繰り返し読む羽目になる。


「はぁ……」

「おいおい、苛立ってんなぁ」


 隣にいるのは、子爵家の三男坊で幼なじみのチャールズだ。

 チャールズは幼い頃からこの屋敷に出入りしていたが、少し前から子爵家を出て、シヴァの家に住み込みで働きにきていた。

 シヴァの数少ない本音を話せる相手である。


「奥方のことか?」

「ああ、まあな。……チャールズは、なぜナンシーが出ていったか分かるか?」

「俺は奥方のことをよく知ってるわけではないが、まあ、大体な」

「そうか……」


 チャールズのような他人にも分かるくらいに、シヴァには悪いところがあったのだろう。

 それも家出しても、おかしくないくらいのことが。


「だが俺は、お前だけが悪いわけじゃないと思うぜ。何せ、今回の水害といったら、稀に見る大災害だったからな。結婚一年目の軽い倦怠期にあれが来たのは、なんというか、ツキが悪かったとしか――」

「倦怠期?」

「ああ。災害の少し前から雰囲気が微妙だっただろう?」


 災害の少し前――。

 シヴァは記憶を掘り起こした。

 確かに、あの時からナンシーと話すことが少し減った気がする。

 そのきっかけは――。


(ああ、そうだ)


 あれは夏の舞踏会のことだった。

 王族や位が高い貴族たちへの挨拶回りが終わり、何曲か踊った後、シヴァは少し席を外していた。

 ワインが誤って服にかかってしまったからだ。

 といっても、かかった量はほんの少しだったし、王宮のメイドたちは瞬く間に染みを取りきってしまった。

 少し疲れたシヴァが、ナンシーのところに戻ろうとすると、バルコニーから声が聞こえた。

 聞き覚えのある声だ。


 気になって近づいてみると、そこにはナンシーとシヴァの友人であるケヴィンがいた。

 ナンシーは楽しげに笑っていた。

 ケヴィンも肩を竦め、呆れたように、愛しそうに笑っていた。

 二人とも気を許しているようだった。

 恋人のよう――というには、少々気安く、まるで二人は別れた後のカップルのように見えた。


 シヴァは息を呑んだ。

 いつの間に、この二人は仲が良くなったのだろう。

 シヴァが紹介して、初めて知り合ったはずだ。

 それなのに、一体いつ、どうして――。

 それは、紛れもない嫉妬だった。

 人妻となってなお、清く美しいナンシーが盗られてしまうのではないかと、危機感を抱いた。

 けれど、二人の間に入りに行くことは、どうしても出来なかった。

 ――ナンシーが、シヴァよりケヴィンの方を選んでしまったら。

 そう思うと、どうしても彼らの関係に足を踏み入れようという気にはならなかった。

 結局、もやもやとした胸のわだかまりに気づかなかったふりをして、シヴァは舞踏会の会場に戻った。

 暫くして、ナンシーも戻ってきた。


「あら、シヴァ。戻っていたのね」

「どこに行ってた?」

「知り合いを見かけて。少し話してたの」


 そうか、としか言えなかった。

 その知り合いが誰で、何を話して、どんな気持ちになったのか。

 込み入ったことを、ナンシーは少しも話してくれなかった。

 シヴァも聞かなかった。

 ――聞くのが、怖かった。

 もっとも、それから二人はなんの接点もなく過ごしていたようだった。

 さり気なく名前を出してもなんの反応もない。

 それで、シヴァは二人の仲を邪推するのは止めたのだが。

 シヴァの中にはわずかな凝りが残り、何となくナンシーと距離を置いてしまった。

 それがまさかナンシーを追いつめていたなんて、うぬぼれはしないが――。


「……確かに、少し距離を置いていたが」

「あの時はちょうど、キャサリン嬢が色々と悪さしてた時期だったしなぁ。可愛い顔してやることは凄惨だったからな」

「キャサリン嬢――確か、ワインの取引先のケラー子爵家のお嬢さんだったか。……ナンシーに何かしていたのか?」

「うん? いや、あの()、お前に惚れてただろ。ナンシー夫人に寝盗られたとか言って色々やってたじゃねぇか」

「は?」

「え? ……気づいてなかったのか?」

「いや……」


 確かにナンシーは舞踏会に行くたび少し顔色が悪かったが……。

 元々、舞踏会が苦手なんだとばかり思っていた。

 それに、バルコニーにいた二人を見てからは、こうも思っていた。

 ケヴィンと一緒に来れないのが辛いのだろうと――。

 ケヴィンは学生時代からの友人だ。

 存外気の良い男なのだということも知っている。

 だが、それ以上に器用で紳士的(プレイボーイ)な振る舞いをする印象が強かった。

 だから自分の不慣れな様を晒すたびに、ケヴィンならさぞいいエスコートをしただろうにと歯噛みした。

 ナンシーも、心の中ではさぞ苦々しく思っているだろうと。


(だが、嫌がらせをされていたとなると別だ)


 子爵令嬢のキャサリン嬢は、正直年若なイメージが強かった。

 実際はナンシーと二つ違うだけなのだが、仕事の関係で社交界デビューする前から知っていたので、そのイメージが抜けない。

 昔から、他人との距離が近い子だった。

 勘違いされそうな行動を取ってはいたが、そう性格が悪いようには見えなかったが……。


(チャールズの言う事は信憑性が高い。一度疑って見たほうがいいかもしれない)


 ナンシーが出て行ってしまったのは、キャサリン嬢が原因だったのだろうか。


「チャールズ、キャサリン嬢はどんなことをしてた?」

「最初は、まあ陰口を叩いたり少し礼をかいたりその程度のものだった。けど、どんどんエスカレートしていって……仲間外れや無視は当たり前に行われるようになった。酷いときはワインまでかけられてた。――なあ。お前はナンシー夫人が好きだった、んだよな?」


 チャールズは胡乱げに首を傾げた。

 義父の後悔を刻んだような顔が重なる。

 どうしたらそんなことを言えるんだ。

 そんなにナンシーのことを知らないでいられるんだ。

 そう呆れた、悔やんだ顔が――。


「どこが好きだったんだ?」

「……そういえば、この書類のことで執事長に聞くことがあるんだったな」

「呼び出せばいいだろ。わざわざお前が行く必要は――」


 チャールズの引き止める声を振り切って、部屋を出た。

 これ以上、チャールズの声が聞きたくなかった。


(嘘だろう)


 ナンシーがそんな酷い目にあっていたなんて、想像すらしなかった。

 無視程度ならともかく、そこまで事が大きくなっていたなら、シヴァが目にしたことが無いはずがないのに。


(俺は今まで何をしていたんだろうか)


 気持ちが逸る。

 それに釣られたのだろう。

 歩みも速くなっていたらしく、使用人とぶつかってしまった。


「すまない」

「いえ。あの――」

「……後にし」


『後にしてくれないか』

 何か言いかけた使用人に、そう言おうとして、苦虫を噛み潰したような気持ちになる。

 義父(ちち)にそう言われたことを思い出したのだ。

 言われるほうは、あまりいい気分にはならなかった。


「……なんだ」

「……はい。私、リリーと申します。ナンシー様付きのメイドだった者です」

「ああ。そうだったな」

「本日から、お暇を頂きたく参りました」


 シヴァは顔を上げた。


「それなら、執事長に」

「ええ。言ってあります。ですが、旦那様に一つお聞きしたいことがありまして」

「なんだ」

「奥様――ナンシー様は、どこにおられますか?」


 隙のない笑顔に、頬が引き攣った。


「それは、どういう意味だ?」

「そのままの意味です。私は、ナンシー様にお仕えしたいので」

「ナンシーは……いずれ戻ってくる」


 今は、家出をしているだけだ。

 まだ、間に合うはずだ。


「そうですか。それで、どこにいらっしゃいますか?」

「……実家に戻っている」

「そうですか。ありがとうございます」


 きっと、このメイドはもう戻ってこない。

 そんな気がした。

 この家の中で、ナンシーの一番の味方だっただろうこの女性は。


「……何故、ナンシーは出て行った?」


 答えは期待していなかった。

 メイドは、深呼吸するように一度目を瞑った。


「そういうところだと思いますよ」


 そのまま、不遜にもメイドは屋敷を出て行った。

 シヴァはメイドの言った言葉を反芻した。

 圧倒的に言葉が足りなかった。

 どう考えても、シヴァはメイドの言いたかったことが分からなかった。

 けれど、その言葉に全てが込められている気がした。

 きっと、義父とチャールズが同じような顔をした理由も、ナンシーがシヴァに何も話さずに出て行ってしまった理由も、そこにあるのだろう。

 シヴァは、答えがあるようで無いような難解な問題を、解かなければいけなかった。

 重い溜め息をついた。

 通りがかった執事長に声をかけられるまで、シヴァはぐったりと肩を落とし、壁に凭れかかっていた。



『シヴァ、様ですか』


 夢を見る。

 それは、紛れもない過去の記憶。

 デビュタントを迎えたばかりの何も知らない女性が、不良物件(シヴァ)をまんまと掴まされてしまう物語。

 あの頃、自分(シヴァ)は彼女に夢中でしょうがなかった。


『ああ。……君のこともナンシー嬢と呼んでいいだろうか』

『ふふ、ナンシー()だなんて。なんだか慣れませんね』

『……駄目だろうか』

『いいえ。いいですよ、シヴァ様』


 彼女の一挙一動に惑わされていた。

 何としてでもこの愛らしい女性を、我がものにしたいと――自分の手で幸せにしたいと、思っていたのに。


「どうして、こうなってしまったんだ……」


 彼女を抱き締めようと腕を伸ばした先には、見慣れた天井しかなかった。

 夫婦で寝るために作られた寝台は、一人で寝るには、少しばかり広すぎる。

 頬を何かが伝っているのは気づかないふりをして、シヴァはゆっくりと体を起こした。

 不意にノック音がする。


(まだ起床時間では無いはずだが……?)


 不審に思いながらも、入室許可を出す。


「シヴァ! 大変なことが分かった」

「チャールズ? なんだ、こんな朝っぱらに」

「それどころじゃないんだよ! 奥方――ナンシー夫人の行方が分かったんだ」


 シヴァは目を見開いた。


「っ、どこだ!」

「ナンシー夫人は――南方の、女性修道院にいる」

「は? 修道院、に……?」


 チャールズは苦々しい顔をしていた。

 それもそうだ。

 修道院は、一度入ったら二度と出られない。

 修道院に入れば、神の僕となり、俗世との関わりを断つことになる。

 それは、ナンシーがシヴァと一切の縁を切ったことを意味していた。


「なぜ? いや、いつからだ……?」

「……家を出た、一週間後だ。南の女性修道院は三つある。その中の、一番冴えないところにナンシー夫人はいるんだ。つまり――」

「南にある片田舎の女性修道院。アトウッド修道院か。ナンシーの再従姉妹(はとこ)がいるという――。そこへは、ちょうど、ここから一週間かかるという」


 嘲るような声が出る。

 微かに震えるそれは、一体誰を嗤っているというのか。


「つまり、こう言いたいのか? ナンシーは、ここを出てすぐに修道院を目指した。――二度と、やり直すつもりはなかった」

「おい。そこまでは――」

「そうだろう。それ以外に何か考えられるか? そうとも知らず、探し回る様はさぞ滑稽だったことだろう」

「シヴァ」

「……少し、一人にしてくれ」


 チャールズは、それ以上何も言わず部屋から出て行った。

 シヴァは、これ以上溢れてくる感情を抑えることが出来なかった。


「ふっ、ぐ……っ、ナンシー……」


 いい年した男の泣き声は、さぞかしみっともなかったことだろう。

 しかし、聞いている人がいないこの場だけは、許して欲しかった。


「なぜ、そんな……」


 そこまで、シヴァは取り返しのつかないことをしてしまったのか?

 シヴァには、まだ分からなかった。

 自分のどんな言動が、ナンシーにそこまでの苦しみを与えてしまったのか。

 それが、苦しくて、悔しかった。

 なぜ、自分は分からないのだろう。

 この国の中で――いや、この世界の中で、一番大事な人を傷つけてしまった理由。

 それすら、満足に分からないだなんて。

――そんなのは、人間と呼べるのだろうか?

 そんな折だった。

 扉の外が俄に騒がしくなったのは。


「……のよ、」

「……リ……さま、……けません!」

「いいのよ! 私は! 何せシヴァ様の正式な奥方になる者ですもの」

「キャサリン様!」


 メイドの悲鳴のような叫び声が聞こえる。

 何か言う暇もなく扉が空いた。

 そこには、最近何かと話題に上っていたキャサリンがいた。


「……キャサリン嬢? なぜここに……悪いが、今取り込み中なんだ」

「シヴァ様、泣いてらっしゃるの? まあ。もっと綺麗にお泣きなさいな。せっかく整った顔が台無しよ」

「……出て行ってくれないか?」


 やんわりと言ったはずなのに、キャサリンは傷ついた顔をした。


「酷い。酷いわ。また私を除け者にするつもりなのね」

「何を……」

「シヴァ様……いつか、結婚してくださると言っていたのに……。婚約者を差し置いて、他の人と結婚するつもりなの?」

「は……?」


 シヴァはキャサリンの言っていることが分からなかった。

 そもそも結婚を約束したことなんかないし、書面を交わした覚えもない。

 キャサリンは、シヴァにとって、取り引き先の娘、ただそれだけの存在だった。

 だが、この際シヴァはキャサリンが何を勘違いしていて、どんな思考回路を持っていようとどうでもよかった。

 ただ、キャサリンは何かを勘違いして、ナンシーを虐めた。

 彼女を傷つける一因を作った。

 シヴァには、その事実だけで十分だった。

 彼女は、少し、頭とタイミングが悪すぎた。

 早い話、色々と混乱し、傷つき、自責の念に駆られ、少しキャパオーバー気味になったシヴァの格好の的になってしまったのだ。

 シヴァは思いきり殺気を向けた。


「貴女の婚約者になったつもりはない。――出ていけ」


 たった一言、二言。

 けれど、たったそれだけのことにキャサリンは、がたがたとみっともなく震え、青ざめた。

 シヴァは、構わずキャサリンを部屋から出した。

 メイドが途方に暮れてチャールズを連れてくるまで、キャサリンはずっと扉の外で紫色の唇を震わせていた。


「はあ……」


 キャサリンを追い出したあと、シヴァは無造作に寝台に転がった。


『そういうところだと思いますよ』


 昨日出て行ったメイドの言葉が蘇る。


「なんだか、無性に疲れた」



 時は色を失くしたまま過ぎていき、夏になった。

 シヴァの気持ちに反して、王都の民草は、賑やかな様子を見せている。

 今日は年一回の誕生祭だ。

 王国の繁栄と前途を祝い、貴族も町人も農民も、皆それぞれに歌い、踊り、ご馳走を囲む。

 この日は、毎年王宮では舞踏会が開かれていた。

 何か危急の用事がない限りは、基本貴族は参加しなければならない。

 全く気が乗らないながらも、シヴァも舞踏会に参加していた。

 王宮にあるホール、舞踏会の会場の隅でワインを嗜んでいると、視界の端に白いドレスの少女たちが映る。

 彼女たちは、今年のデビュタントだ。

 年に一回しかないこの舞踏会は、オーソドックスで、箔がつくこともあり、多くの少女たちが社交界デビューの場として選ぶ。

 ナンシーに一目惚れをし、口説いたのも、数年前のこの舞踏会だった。


(あの時、もし――)


 ぎり、と奥歯を噛みしめる。

 悶々と浮き上がるのは、もう何度も考え後悔したことだ。

 だが、本格的に考えに耽け始める前に、シヴァは旧友に声をかけられた。


「シヴァ。そんなところでどうしたんだ」

「……ケヴィンか。別に何でもない。お前こそどうしてこんな隅に?」

「君を探していたんだ。一杯どうだい?」


 ケヴィンと、シヴァの分だろう。

 二つのグラスを持ったケヴィンを見て、溜息をつく。

 シヴァは自分の持っているグラスを見やると、ひと思いに、くっと飲み干した。

 頭がくらりとする。

 それから、ケヴィンのグラスを受け取った。


「前途ある王国の繁栄に」

「眩いまでの希望を抱えるデビュタントに」


 お固い言葉でシヴァが音頭を取ると、ケヴィンは笑いながら軽口を叩いた。


「「乾杯」」


 カツンとグラスがなる。

 少し行儀が悪い気もするが、気分を害するほどでもない。

 学生時代のノリに、少し気が明るくなった。

 やはり昔馴染みはいい。

 それが例え、妻との浮気疑惑があった男であっても――というのは少し語弊がある。

 シヴァがこうしてケヴィンと笑いあえてるのは、疑いが完全に晴れているからだ。

 ナンシーも、他に男がいたなら、修道院に行くより前にそちらに行っていただろうから。

 ……ナンシーが、『ケヴィンに迷惑をかけないように』と配慮していなければ、だが。

 しばらく世間話をしたあと、ケヴィンは気遣うように、ちらりと目配せをした。


「――そういえば、奥さんに逃げられたんだって?」

「……誰から聞いた、と言うまでもないな。この社交界中の皆が知っているのだろう」

「ああ、まあな。皆なぜそんなことになったのか、気になってる。心無いデマも飛び交っているし、しばらくは噂雀たち以外には、距離を置かれるだろう。けど、少し待てば、新しい縁談もたくさん来るんじゃないかな。君はまだ若いから」

「――は、そんなもの」


 吐き捨てるように否定する。

 ケヴィンは眉を上げた。


「何があったんだい?」

「大体察しはついてるんだろう」

「……社交界で酷い目にあったとは聞いている」

「それに、夫に酷い扱いをされていたと?」

「そこまで酷い噂でもないさ」


 シヴァを擁護するような言葉を吐くケヴィンに、シヴァはじとりと目を向けた。


「――と、」

「ん?」

「お前と妻は、仲が良かったんだろう?」

「は?」

「男女の仲、だったかは知らないが……」

「おいおいおい、何を言ってるんだ」


 とぼけるケヴィンに、少し責めるように言う。


「お前たちがバルコニーにいるところを見たんだ。ちょうど――一年前か?」

「え? いや、そんなこと……。あ!」


 ケヴィンはもうすっかり空になったワイングラスを回した。


「シヴァ、もしかしてそれが原因で拗れたのか? 邪推がすぎる」

「……ただならぬ雰囲気だっただろう」

「あのなあ。あれは、君のことを話してたんだ。あのときは――惚気られて大変だったぐらいだ」

「それで、あんな雰囲気に?」

「ああ、あと少し……」


 ケヴィンが少し頬を赤らめた。

 シヴァは自分のワインを持つ手に力が入ったのを感じる。

 ナンシーはもう修道院に行ったのだ。

 今更、真実を知ったって変わりはしない。

 なのに、ケヴィンの言葉を聞くのが怖かった。

 ナンシーが、『少し』不貞を働いていたなんて、信じたくない。

 それでも、震えた声で続きを促してしまう。


「少し?」

「……恋愛相談をしていたんだ。お前みたいな堅物を落とせるんだから、さぞ経験が豊富なんだろうと思って」

「……は? いや、でも妻は何も」

「格好悪いだろう。自分より年下の女性に相談をしにくる男なんて。だから、他言無用をお願いしたんだ。それで、誤解させたのかもしれない」


 シヴァは、目が点になりそうだった。

 違うだろう違うだろうとは思いつつも、心のどこかで染みになっていた思いがじわりと溶け込むように消えていく。

 人によっては一日でも解ける誤解がここまで尾を引いたのは、きっと、シヴァがコンプレックスを抱いていたからだ。

 シヴァは、きっと、自分とは釣り合わないほどに美しく社交的な妻に負い目を感じていたのだろう。

 何も知らない世間知らずな娘を騙して、縁続きにしてしまった。

 きっとケヴィンのようないい男とこそ、釣り合う女性だろうに。

 そう、ずっと思っていたのかもしれない。


「だが、シヴァ。君の奥さんは随分と君を想っていたよ。そんな誤解はあんまりじゃないか」

「ああ……」

「大体、僕が友人の妻を取るように見えるかい?」

「ケヴィン、妻が出ていった日、お前は俺を飲みに誘ったな。あれは偶然だったのか?」

「……そういえば、『恋愛相談のお礼』をしろって、君の奥さんにシヴァと飲みに行くよう頼まれたな」

「そういうところだろう」


 シヴァは、呆れて溜息をついた。

 不思議なことに、その溜息は、少しだけ安堵が混ざっているような気がした。



 それから、数ヶ月が経った。

 今年の冬は、ぞっとするほど寒く、吐く息は漏れなく湯気が立つように白く靄がかかる。


 これでも去年よりは暖かいらしい。


 シヴァは去年、自分がどのように暮らしていたか、思い当たらなかった。

 執事長曰く、ナンシーが屋敷や馬車など色々な管理をこまめにしてくれていたお陰で、不自由なく暮らせていたらしい。

 そんなことも知らなかったのかと、シヴァは自嘲した。

 ナンシーが抜けた穴を埋めるのは、難しかった。

 彼女が熟していた仕事量は、社交に関するものを除いても十分すぎるほどにあったし、シヴァの仕事自体も、去年より増えていたからだ。

 しかし、新しい人材を雇うのも簡単ではない。

 大きなお金の管理を任せられるほど、信頼できる者はなかなかいないのだ。

 この広い屋敷の中でさえ、屋敷の全権を任せられるほど信頼しているのは、執事長しかいない。

 だが執事長にも、このところ相当な重労働を課してしまっていた。


 それに――金銭的にもかなり厳しかった。


 正式にナンシーとの離婚の手続きをした後、義父(ちち)は、シヴァが管理しているスチュワート伯爵家の領地で進めていた全ての事業を撤退させた。

 先の災害で負担してもらっていた費用は、多額の色を付けて請求された。


 それらを抵抗することなく受け入れなければならなかったスチュワート伯爵家は、瞬く間に火の車となった。

 屋敷の全ての暖炉に火を入れることは贅沢となった。

 いつからか窓の縁に空いていた穴からは、冷気が忍び込み、人々を凍えさせた。

 木枯らしが吹くたびに屋敷が軋んだ。

 ねずみが屋根裏で足踏みをする音が聞こえるようになった。

 夕食には石のように硬いパンと、具があまり入っていない簡素なスープが出されることが増えた。

 やがて、一人、二人と使用人がいなくなっていった。

 それが余計に屋敷を淋しく見せ、どこか寂れた雰囲気をもたらした。

 こんな寒い日だと、余計に恋しくなってくる。

 ナンシーの温かい言葉が、愛らしい笑みが。

 彼女がいるだけで、まるで春の妖精が舞い降りたかのように場の空気が明るくなるのだ。

 彼女は今ごろ、南国の修道院でどう暮らしているのだろうか。


 シヴァは白い息を吐いた。

 それは自嘲の溜息であり、自分を宥めるための一呼吸であった


 彼女を不幸にしてしまった張本人だというのに、なんと未練がましいことだろう。

 彼女の身を案じる資格を、シヴァは持ち合わせていないというのに。

 シヴァは目を伏せ、ふと机の上から二つ目にある引き出しを撫でた。

 この中には、昔シヴァがナンシーに送った手紙が入っている。

 ナンシーが出ていったときに、何か手がかりがないかとナンシーの部屋を隅から隅まで探した。

 その時に出てきたものだった。


 ちょうど、この時期に送った手紙だ。


 あれは、シヴァが僻地へ視察に行った帰り、崖から滑り怪我をしたときだった。

 彼女は屋敷から手紙を飛ばし、物資の手配、領主の代理、部下たちのメンタルケアまで。

 献身的に自分を支え、助けてくれた。

 それなのにシヴァは、そのことを当然と思っていた。

 手紙を部下に代筆させ、そのことを隠すべきとも思わなかった。

 最後の言葉もそっけない言葉で終わらせた。

 ナンシーを気づかうことなんて、一度もしなかった。

 シヴァはナンシーの手紙に、どこか心落ちつかせていたというのに。


 だがそれにも関わらずナンシーは、この手紙をずっとそばに置いていたらしい。

 何を思ってそうしていたのかは知らない。

 だがこの手紙を見ると、なぜかシヴァは呼吸が速くなった。

 嫌な手紙だ。

 だが手放してはいけないのだろう。

 シヴァは一通り考えを終えたあと、気まぐれに便箋を取り出した。

 白い手紙にナンシーへの謝罪を書く。

 すまなかった。反省してる。許してくれとは言わない。だが……。

 平静を装って平坦な字でつらつらと同じようなことを書き、許しを請う手紙。

 それを封筒に入れ、シヴァは眺めた。


(これを出せば、ナンシーは――)


 己のあまりに不快な思考に、シヴァは思わず手紙を机に叩きつけた。

 まるで醜い本音に、嘲笑うような声を出し、机の上をぐちゃぐちゃにする。


 その拍子で手紙がはらりと宙を舞った。


 シヴァはそれを気に留めるでもなく、また真っ白な便箋を取り出した。

 先ほどの失態を無かったことのように、次は何を書こうかと考え始める。

 シヴァはペン先をくるくると動かし、それから気まぐれに指に力を込めた。

 書くのは求婚の手紙だ。

 愛している。君だけだ。こんなに愛しく思っていたとは、自分でも気づかなかった――。

 シヴァは書いている途中にペン先を折った。

 それでもしばらく睨みつけていたが、あまりにも自分に嫌気が差して、やがて手紙を宙に放り投げた。


 何を書いたって、まるで口先だけのままごとのようだ。

 自分は何も変わっていないし、これからも変わらないだろう。

 シヴァはしばらく額を押さえていたが、やがて一息ついて、落ち着きを取り戻し、溜まっていた仕事に取りかかった。


 木枯らしは今日も屋敷を軋ませている。

 冬はまだ、明けそうになかった。




 仕事が一段落して、シヴァは一息ついた。

 ほんの気分転換に、厨房に足を向ける。

 今はもう、わざわざコーヒーを煎れにくるほど暇なメイドは残っていないのだ。

 苦戦してコーヒーを煎れ、零れないように慎重に部屋に戻った。

 温かいカップに手を沿わせ、部屋を見渡して、ふと違和感を覚える。


 先ほど書いた手紙もどきが、一通無くなっていたのだ。


 シヴァは首を傾げた。

 書類の山に紛れ込んだのか。

 それとも、ソファと床の間の隙間に入ってしまったのか。

 心当たりを探るが、見つからない。


(ああ、そういえば先ほど、執事長が書類を探しにきてたな。一緒に持っていったのか?)


 確か、宛名は書いてなかったはずだ。

 傍目から見たら、誰が誰に書いたのかも分からない、正体不明の手紙でしかないだろう。

 ならいいか、とシヴァはカップに口をつけた。

 自分で煎れたコーヒーは、ずいぶんと苦く、どろりとしていた。


お読みいただきありがとうございます。

今後の参考にしたいので、評価を1~5の中で選んでいただけると嬉しいです。

誤字脱字報告もありがとうございます。大変助かっています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ