ナンシー
「後にしてくれないか」
そう言って袖にされたのは、これで何回目のことだろう。
ナンシーは俯いて小さく返事をした。
ナンシーは一年前にスチュワート伯爵家に嫁いできた。
あの頃は旦那――シヴァだって不器用ながら優しく接してくれたのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
泣きそうになるのを堪え、淑女の礼をして部屋を後にする。
その間だって、ちらりともこっちを見ようとはしなかった。
(ああ、シヴァ、私の愛しの旦那さん。貴方はもう私のことを愛していないの?)
分かっている。
仕事が忙しいのも、彼が疲れているのも。
でも、少しくらい話してくれたっていいじゃないか。
最近のシヴァは、二人で寝台に入ったって一言も話さず、ナンシーが何か話そうとすると鋭い目つきで睨んでくる。
面倒くさい妻になんてなりなくたい。
それでもナンシーは思わずにはいられなかった。
(こんな状態じゃ、結婚していたって――)
意味はないのではないか。
シヴァは仕事のことで頭がいっぱいなのに、ナンシーはシヴァのことでいっぱいだ。
それが嫌になって、ナンシーは自らの執務室へと向かった。
「リリー、執事長に言っておいてくれる?」
「はい、奥様。何でしょう」
「私の実務の量をもう少し増やしてくれていいわ。……そうね、今の半分くらいの量なら増やせるのではないかしら」
ナンシー付きのメイド、リリーは困った顔をした。
「ですが奥様、それですと」
「先の災害のせいでどの領地も復興で忙しいもの。お茶会もパーティーも当分延期になるわ。その間だけ。ね、いいでしょう?」
復興の間は、仕事の量が増える。
少しでもシヴァの助けになれればいいと思った。
……本当はシヴァに直接相談したかったけれど。
簡単には意見を変えそうにないナンシーを見て、眉を寄せていたリリーは苦笑いを見せる。
「分かりました。執事長に伝えておきますわ」
「ええ、お願い」
リリーの了承を得て、ほっと一息ついた。
羽ペンをインクに浸し、ナンシーは今日分の仕事に取りかかる。
仕事を増やしてくれと言う前に、まず充てられた分を熟してしまわなければいけない。
(お屋敷の屋根の塗装が少し剥がれてきたから……。お野菜の物価も……。今月は出費が多くなりそうね)
ナンシーがしているのは王都と領地のお屋敷の管理だ。
たまに別荘の書類も交ざってくる。
お屋敷は何もしなくても快適に過ごせる――というわけにはいかない。
こうしてこまめに手入れを入れたり、市場を精査したりしなければいけないのだ。
代理で執事長にやらせることもあるが、基本的にお金の管理は領主や領主の妻の仕事だった。
一通り書類に目を通し、途中から訪ねてきた文官と問題を精査し――としていると、いつの間にか時計の針が十二の数字を過ぎていたことに気がついた。
十二時には食堂でお昼を食べることになっているのに、なぜ知らせてくれなかったのだろう。
ちらりとリリーの方を見ると「旦那様は今日もお部屋でお食べになるそうですから」と苦笑いされた。
なるほど、それならば少しくらい時間が過ぎたっていいだろうが……。
(食事をとる時間さえ無いのかしら……)
胸に苦いものがこみ上げる。
分かっている。
分かっているのだ。
此度の災害は規模が大きく、被害が甚大だったということぐらい。
復興に奔走しなければ、対応さえままならないことぐらい。
それでもナンシーがこんなに不安なのは――。
(災害が起きる前から、あの人は冷たかった)
結婚当初はあった熱のようなものが、徐々に冷めていっていたのだ。
夫婦の時間が減っていくたび、このまま忘れ去られてしまうのではないかと不安になっていって――。
「奥様?」
はっと我に返ると、顔が陰っていることを自覚した。
リリーが励ますようにワンピースの裾を直し、話題を変えてくれる。
「そういえば、今日は奥様のお好きなレモンのパウンドケーキだそうですよ」
「まあ、それは楽しみだわ」
「私も楽しみですわ」
「あら、お溢れを期待しているの?」
「私は奥様の忠実なる臣下ですから」
「ふふ、どうしようかしら」
勿体ぶると、リリーはきらきらと瞳を輝かせて見つめてくる。
お預けされたワンコのようで、思わず「しょうがないわね」と笑うと、リリーも「ありがとうございます」と嬉しそうに笑みを浮かべた。
リリーの優しい冗談で、張り詰めた気分が和らぐのを感じる。
ほっとして息をついた。
だが安心できたのは束の間の時間でしかなかった。
ドアがノックされ返事も聞かず開けられる。
突然現れた人物に、ナンシーは目を白黒させるしかなかった。
「シ、シヴァ……」
幻かと思い目を瞑る。
しかし目を開けた先にいるのは、紛うことなきナンシーの旦那さんだった。
一体どうしたのだろう。
今までナンシーの執務室に訪ねてくることなんてなかったのに。
「どうかなさ」
「ナンシー、昼飯はどうした?」
言葉を遮り質問をされる。
相当苛立っているのか、言葉尻には棘があった。
悪いことなんて何もしていないのに、まるで責められているような気分になる。
「い、今行くところで」
「時間は守れ。……はあ。ところでナンシー、執事長から聞いたのだが」
実務の追加のことだろう。
リリーが言っておいてくれたようだ。
「ええ、それがどうなさいました?」
「どうなさったも何も、君は仕事を何だと思っているんだ」
何だと言われても、今このときまでずっとナンシーは仕事をしていた。
「遊びでできることじゃないんだ。君は君のするべきことをすればいい」
「……でも」
「でもも何もない。全て私に任せていればそれでいいんだ」
言いたいことだけ言ったシヴァは、マントを翻した。
「……って」
「何?」
いつもだったらここでただシヴァの冷たい背中を見つめていただけだっただろう。
いつも、いつもナンシーはシヴァの言うことだけを聞いて――。
けれど、もう無理だ。
ナンシーは震える手を、押さえ込むようにして握りしめた。
「任せていればって、それで貴方、何回お食事を抜いたのでしょう」
「それが――」
「領地では沢山の人が水害に巻き込まれて、家さえ無くなってしまった。これまでにないほどに危機的な状態で、しかも私にできることがあるというのに、黙って見ていろというのですか?」
ナンシーは、胸の内に渦巻いて離れないモヤモヤとした思いが限界を迎えていた。
黙っていることができなかった。
これまでの不満と言い分が、池の水が溢れ出るように次から次へと口から零れ出た。
「大体私のやることをやれって、此度の災害で社交がほとんど機能しなくなったことを承知の上で言っておられるのですか?
もし子供がいる状態だったならばやることも溢れて来ましょうが、子供さえいないこの状況で、私にただ不安を胸に抱えて生きろというの?
――っ、大体、もう一年も経っているのに……子供の一人もできない、なんて……」
ナンシーは自分の目にじわりと涙が浮かぶのを感じた。
子供は宝だ。
いるだけで心強い。
だがそれとは別に、ナンシーは自分の社交界での立場が段々と危ういものになっていっているのを感じていた。
結婚して一年も経っているのに子供ができる兆候がないというのは、それだけで致命的なことなのだ。
それは暗に夫婦仲が悪いことを示しているし、そうなれば離婚も養子を迎え入れることも視野に入れなければいけない。
そういったことを示唆され責められるのは、主に社交界にいる時間が長いナンシーの方なのだ。
社会でも、家内でも居場所が無くなったなら、ナンシーは一体どう生きていけばいいのだろうか。
ナンシーの心はもう幾月もこうした言いようのない辛さが飽和した状態だった。
もしここで、シヴァがナンシーの鬱々とした思いに気づいたなら。
あわよくば泣き出したナンシーを抱き締め、自分が悪かったと懺悔し、この仕事が一段落したら必ずナンシーを大事にすると約束したならば。
ナンシーはシヴァの謝罪を受け入れ、心を穏やかにすることが出来ただろう。
だが実際には、シヴァは頭を掻きむしり、面倒な女が何か言っているとばかりに溜息をついただけだった。
「――とにかく君は私に任せていればそれでいいんだ。余計なことをする必要はない」
「だからっ」
「行くぞ、執事長」
シヴァはナンシーの言葉に足を止めず、執事長を伴って行ってしまう。
涙が止まらずぼろぼろになってしまったナンシーに、リリーはハンカチを握らせ背中を擦った。
「――っ、ありがとう、リリー。ごめんなさい、今日は食事はこの部屋で取ってもいいかしら」
「……ええ、勿論ですわ、奥様。料理長に言っておきますね」
一人になりたかったのを察してくれたのか、リリーはナンシーをソファに誘導すると、パタパタと食堂に向かった。
一人になったナンシーは、ハンカチを握りしめて、声を殺して泣いた。
部屋の外に泣き声が漏れるのは醜い自分を露呈しているようで許容できなかった。
目が充血し、メイクが取れ、スカートに染みをつくる姿は、さぞみっともなくて見られたものではないだろう。
そうは思っても、ナンシーは涙を止めることはできなかった。
「うっ、うう――」
この場に慰めてくれる存在がいないことが虚しくなった。
この場に哀れんでくる存在がいないことが救いとなった。
ナンシーは声を殺して泣いた。
けれど完全に殺せているわけではなかった。
それにも関わらず察してくれる人がいないことが、ナンシーの全てを表している気がした。
冬になった。
あれから結局ナンシーは前から熟していた以上の仕事を任せてもらえず、もやもやとした日々が続いていた。
スチュワート伯爵家の領地は王国の中でも北の方にあるので、冬は冷え込み、とてもじゃないが野外で暮らせる状況にはなかった。
そのため復興作業は月を経るごとに焦りを見せ始め、シヴァはナンシーの隣で寝ることさえもしなくなっていた。
シヴァとナンシーの仲は冷え込み――というのは、ナンシーが思っているだけかもしれない。
でも、廊下ですれ違っても一言も話さないこの状況は、あの一件で両者に芽生えた不信感によるものだったのは間違いない。
ナンシーは溜め息をついた。
果たしてシヴァはこの復興作業が終わったあと、ナンシーと仲を戻す気はあるのだろうか。
勿論何事もなかったかのように擦り寄ってくるのは気持ちが悪い。
シヴァも余裕が出てきたら、反省して酷い態度を取ったと謝罪してくれるかもしれないが――。
ナンシーにはそれ以外の選択肢がちらついて仕方がなかった。
即ち浮気をする――愛妾を持つということである。
一応義務的にナンシーの間に子供を作るかもしれないが、それとは別に愛妾を作る、なんてことは大いにあり得る。
今はそれどころではないが、少し余裕が出てきたらそういうことにも目を向け始めるだろう。
それくらいなら、いっそ――とナンシーは考えた。
ナンシーの生家は貧乏ではない。
シヴァとの結婚は対等なものだったし、なんなら今回の災害ではナンシーの生家の方がシヴァにお金を貸していたぐらいだ。
今ナンシーがシヴァと離婚したって、生家はそう大きい損害を被る訳ではないだろう。
実家が足枷にならないならば、シヴァに愛妾を作られ、ナンシー・スチュワートの名を辱められながら生きるよりも、いっそシヴァと離婚して修道院に駆け込んだほうがまだ幸せになれるかもしれない。
(……なんて)
そう思っても行動に移さないのは、期待と恐れによるものだろう。
もしかしたら復興作業が終わったらシヴァがナンシーに謝り、愛をもって大事にしてくれるかもしれない。
毎日優しい言葉を囁かれて、愛しているよ、と口づけられたら、今までのことがあったって、きっとナンシーはシヴァを愛してしまう。
一方、修道院というのはすごく恐ろしいところらしい。
服は触れたこともないようなごわごわな麻。
食事は食べたこともないようなパサパサな芋と両面焼きの目玉焼き。
寝台は一度寝ただけで背骨が軋むような粗末な造り。
毎日腰が抜けるほどの重労働をさせられ、町人のように、もしくは農夫のように様々な雑用をさせられるとか。
生まれてからずっと最高級のものにしか触れていなかったナンシーは、その話が恐ろしくてしょうがなかった。
自分が耐えられるか分からなかったし、そうなったら自分はどれだけ醜くなってしまうのかと思うと喉が震えた。
(意気地無しね)
そうは思っても恐ろしいものは恐ろしい。
溜息をついて、ナンシーは肘掛けにもたれかかった。
(でも結局のところ、私はどうなってしまうのかしら)
ぐずぐずと考え込んでいては、いつまでもこのままだ。
ぼうっとしていれば、放っておいても旦那が溺愛してくれるなんて、そんな都合のいい話は現実にはない。
自ら動こうとしなければいつまでも運命の糸は複雑に絡まるばかりで、綺麗に一直線になろうとはしないのだ。
糸を一直線にするには、方法は二つ。
絡まった糸を解くか、絡まったところを鋏で――。
「奥様!」
忙しないノックの後、幾分も待たずリリーが入ってきた。
「旦那様が、旦那様が――」
――帰宅途中で、重症を負われたそうです。
その知らせを聞き、ナンシーは目を見開いた。
シヴァは今年災害の被害が特に酷かった場所を視察に行っていた。
例によって例のごとくナンシーは留守番を言いつけられたわけだが、まさか、シヴァが怪我を負うなんて思いもしなかった。
頭が真っ白になる。
どうすればいいのとパニックになりそうになったところで、目の前で真っ青になっているリリーと、その後ろに控えている執事長が視界に入った。
(そうだわ、こんな時こそしっかりしなくては)
二人は、特に執事長はナンシーの指示を仰ぎに来たのだろう。
ナンシーは、これでもスチュワート伯爵家の夫人なのだから。
一度だけ大きく息を吸う。
それだけで少し落ち着いた気がした。
ちかちかと暗転を志した目に無理やり力を入れ、まっすぐ二人を見る。
「執事長、シヴァは今どこに?」
「怪我をしたときにあった近隣の村に御身を寄せられています」
村……村という符号を使っているのなら、間違いなく田舎だろう。
シヴァの怪我を治せるようなお医者さんはいないかも知れないし、機材が満足に揃っていない可能性もある。
出来ることならこの屋敷に帰ってきてもらって治療に努めたいところだが――。
「シヴァの容態は?」
「命に別状は無さそうですが、意識が戻らずとても魘されているとのことです」
「命に別状がないのに、意識が戻らないの?」
「もう数日待てば自然と目を覚ますでしょう。点滴は出来ているのです」
「そう……」
シヴァが死なないと聞いて、ナンシーはほっと息をついた。
(無事で良かった……)
だが後遺症は残るかもしれないのだ。
出来るだけいい環境で治療に当たりたかった。
「足りないものは?」
「医療品と食材が。これが送る予定にある物資のリストです」
執事長にリストを渡され、ざっと目を通す。
なるほど、確かに必要なものばかりだ。
病人に送るのに妥当なものから、ちょっとした嗜好品まで、数日過ごすには問題ないくらいのものが書いてあった。
「毛布は?」
「大丈夫だとは思いますが、念の為足しておきましょう」
「水は?」
「水、ですか」
「スチュワート伯爵家の一部の領地では、湖の水が凍って水不足になることがあるわ。勿論領民たちも最低限の分は確保しているでしょうけど……村はどこら辺にあるの?」
「フルード湖の辺りです」
「ぎりぎり必要、かもしれないわね。多めに持っていって。領主の看護をさせた分の謝礼も兼ねて……もちろん改めてお礼はするけれど、城下周辺の水は美味しいから喜ばれるはずよ」
「承知致しました」
「後は……良いと思うわ。さすがね。毛布と水の費用を算出したらまた提出しなさい」
「はっ」
これ以上今することはないだろう。
一刻も早くシヴァの元に物資を整えなければならない。
執事長を文官の所へ返そうとして、ナンシーはふと呟く。
「シヴァはいつ頃帰ってこれそうかしら」
執事長はナンシーをちらりと見たが、慇懃に腰を折って答えた。
「どのような様態で戻ってこられるか分かりませんが、五日以内にはお戻りになるでしょう」
「……そう」
少しだけ自分の声のトーンが下がったのを感じる。
その相槌には様々な感情が含まれていて、ナンシーには自分がどんな気持ちで答えたのかさえ、分からなかった。
シヴァが無事だと知って安心したはずだ。
それなのに、胸の奥がざわざわするのだ。
少なくとも喜びや安堵だけが全面を占めているわけではなかった。
執事が部屋から出ていくと、ナンシーはソファの背もたれに体重を掛け、眉間のしわを揉んだ。
憂鬱な気分に溜息をつく。
今回は口出すことがあったものの、基本的にスチュワート伯爵家の執事や文官は優秀なので、入り嫁ごときが言うことは何もない。
それでも執事長がナンシーに指示を仰いできたのは、ナンシーの立場を慮っているだけではなく、責任を負わせるためだ。
先程ナンシーが詳細を確認したので、シヴァの救助についてはナンシーの責任の下となる。
何かあったら相応の罰が下るだろう。
だが責任の重さは課せられる罰だけによるものだけではない。
ナンシーの判断には、シヴァやシヴァに付いていった数名の護衛の命が掛かっているのだ。
いくら執事や文官が詳細を詰めているとはいっても、最終的な判断を下すのはスチュワート伯爵家の夫人であるナンシーである。
その事実はナンシーの内にある不安を擽るのには十分だった。
(もし指示を間違えていたらどうしよう)
燻っていた恐れが、鱓が穴の中から顔を出すように、ひゅるりとナンシーの頭を過ぎる。
これだから責任ある立場は重苦しい。
だがシヴァはいつもこの何倍もの責任を背負っていたはずだった。
シヴァは、シヴァはいつも何を考えていたのだろう。
シヴァもこのような苦悩をずっと抱えてきたのだろうか?
シヴァの境遇も考えていることも、分かっているようで何も分かっていないのかも知れない……。
もちろんそれはナンシーを蔑ろにしたことの免罪符にはならないが。
ナンシーとてスチュワート伯爵家に嫁いできてから遊び暮らしてきたわけではないのだ。
社交界のような閉じた世界での人間関係は中々に凄惨だ。
虐めだって横行しているし、時には病んで死んでしまう人だっている。
人のいないところで泣いた日だって、ワインを浴びせてやろうかと思うほどの仕打ちを受けた日だってあった。
けれど、ナンシーもシヴァも、実はあまりお互いのことを知ってはいないのかもしれない。
これを機に知っていくのも良いかもしれない――。
少なくとも知る努力をしたいとナンシーは思った。
数日後、ナンシーはリリーに渡された手紙を見ていた。
差出人は言わずもがなシヴァだ。
あまり上質ではない白い便箋は、シヴァが怪我をした日から何度も送られてきている。
現在の状況に足りないもの、今後どうしたら良いか……。
たった数日でも、しなければならないことは色々ある。
シヴァの代理をナンシーがするのは妥当なことだ。
しなければならないこととは、シヴァの救援の手配というよりは、喫緊に出して置かなければいけない書類や会議についてだ。
もちろん延期すべきものは延期するが、そう無闇に予定を崩す必要はない。
そうだ、これは必要なこと。
必要なことなのだ。
こうして頼られるのは、信頼の証のはずだ。
望んでいたことでもあったはずだった。
けれど、ナンシーは何だか虚しかった。
手紙の最後には、通常お別れの言葉だとか、また会いたいだとか、自分は元気だとか、何か一言入れるものだ。
シヴァの手紙にもいつも一言、素っ気なく「変わりない」と書いてある。
そしてそこにある文字の癖を、いいや、全ての文章において見ることのできる文字の癖を、ナンシーは知ってしまっていた。
シヴァの字は、こんな丸っこい字ではなかった。
その文字は、その手紙は、シヴァの書いたものではなかったのだ。
辛うじて手紙のサインはシヴァのものではあるが、そんなもの何の慰めにもならない。
(変わりない、か)
いっそ、手紙が書けないぐらいの重症であったら良かったのに。
だがそうではないことは、シヴァの流れるよう
な達筆のサインが証明してしまっている。
つまりシヴァは、ナンシーに手紙を書く時間を惜しいと思っているということだ。
代筆させたほうが、効率的だと。
効率――そんなものは言い訳にもならないなんてことは、ナンシーはよく知っていた。
こんな短い手紙、書こうと思ったら五分でだって書けるのだから。
つまりシヴァは、その少しの手間でさえ惜しむほどにナンシーのことを好いていないのだ。
もう、結婚直後のあの熱はどこかへ行ってしまったのだ。
ナンシーは虚しかった。
ナンシーは泣きたくなった。
ナンシーは投げ出したくなった。
もっと必要とされたかった。
お荷物として扱われたくなかった。
愛されずに尽くせるほど、スチュワート伯爵夫人の座は軽くはなかった。
辛かった。
こんな時に限って、社交会の夫人たちの言葉が脳裏をよぎっていく。
『あらあら。スチュワート伯爵は、貴女を愛しておられないのですね……』
『政略結婚にしてもお粗末なこと』
『ああ、お可哀そうなナンシー様。くすくす、慰めて差し上げましょうか』
穏やかな声で、涼やかな声で、可憐な声で、そこまで、そんなにもナンシーを責めなくたっていいだろうに。
ナンシーが貶められているときに、シヴァに助けてもらったことは、ただの一度だってありはしなかった。
それどころか、隣にいるナンシーがどんな表情をしていたのか、気づいたことすらなかった。
人のいないところで泣いていたときに、駆け寄って胸を貸してくれたことなんてなかった。
……ああ、ナンシーが泣いていたことを、気づいていなかったのかもしれない。
そう自分に言い訳をすると、その言い訳はナンシーの心を苛む矛となった。
だって、それは、ナンシーを少しも見ていないということだ。
目は充血していたのに、メイクだって崩れていたのに。
側付きのメイドのリリーが一目で気づいたことを、出迎えた執事が目を見張ったことを、ずっと隣にいたシヴァが気づいていなかったということだ。
それは、どれだけナンシーに無関心でいれば出来る芸当なのだろうか。
(いいえ)
いいえ、とナンシーは泣きそうになった。
そんなはずはない。
シヴァは気づいていたのだ。
ナンシーが陰口を言われていたことも、傷ついていたことも。
それでありながら、見えないふりをしていたのだ。
この手紙を直筆で書いたほうがいいと分かりながら、他の人に書かせたように。
ナンシーが傷つくことを知っていて、けれど、どれだけ傷つくのかを知ろうとはせずに、ずっと見えないふりをしていたのだ。
ナンシーはもう心が折れてしまいそうだった。
まだ子供がいれば違うのだろう。
けれど幸か不幸か、ナンシーには子供がいなかった。
ナンシーは、自分自身のためだけにスチュワート伯爵家に居座る意味は分からなかった。
ナンシーが宝石や財宝に目のない人だったならまだ良かったのだろう。
けれど、ナンシーは人並みに好んでいるだけで、宝石の類に心身を捧げられるほど熱中していたわけではなかった。
今まで健康に幸せに暮らしてきたナンシーにとって、ここは常に自分をじわじわと苛む社交界の一角でしかなかった。
早く去りたい、と思った。
けれどナンシーは去らなかった。
それは、修道院への恐怖がほんの少しだけ今の境遇の心痛さを上回ったからであったし、少し前に一度お互いのことを知ってみようと思ったからでもあった。
きっとそれは、ナンシーの心の中にある最後の砦だった。
ズキズキと痛む心臓は、そんなことをしたって無駄だと暗示しているかのように感じた。
もう無理だと叫びを上げる心に見て見ぬふりをして、ナンシーは木枯らしが木の葉を舞い上げる窓の外に、そっと気をそらした。
それから数ヶ月が経った。
雪はもうすっかり溶け、肌寒さもどこかへ去っていった。
じわじわと照り輝いている太陽は、生き生きと背を伸ばす若葉を尻目に、朗々と夏の訪れを謳い上げている。
もう一月二月もすれば、社交会シーズンがやってくる。
そのときにはスチュワート伯爵家自慢の庭では、ひんやりとした木陰のオアシスが一番の売りとなっていることだろう。
ナンシーは夏の服装に近い半袖のワンピースに薄手のストールを巻き、気まぐれに屋敷内を散歩していた。
本邸から小さな離れに続く渡り廊下は風通しがよく、歩いているだけで少し気分が良くなるのだ。
「ナンシー」
ふと名前を呼ばれて、心臓がどきりと跳ねた。
声の主は言わずもがな、シヴァだ。
「貴方が、なぜここに……」
「自分の家だ。どこにいたっていいだろう? それより、今年の夏だが――」
「シヴァ」
お互いに話をしてみようと決心して、もう幾月も経ってしまった。
その間、二人の関係は何も進展しなかった。
それはシヴァが相変わらず忙しそうにしていたからであり、ナンシーが怖気づいたからでもあった。
次にシヴァに拒絶されれば、自分はもう耐えられないかもしれない。
そう思うと、どうしても勇気が出なかった。
けれど、今度こそはもう話しをしてみなければ。
このまま騙し騙しやっていくには、ナンシーの心は少し傷つきすぎた。
「少し、話があるのだけど……」
「後にしてくれな――」
「なら、今月末の舞踏会は出席する?」
シヴァの言葉に質問を重ねる。
『後にしてくれないか』なんて言葉は、もう……聞きたくない。
やはりその点、決着をつけるなら舞踏会がいいだろう。
プライベートな場でこの話を持っていくと、シヴァは逃げてしまう気がする。
かといって他の家門の人たちがいる場では、話し合いにはならないだろう。
舞踏会での夜のバルコニーは人目につかないし――他の場所よりは逃げにくいと思うから。
「今月は忙しい」
「じゃあ来月は?」
「……来月も忙しい」
「じゃあ夏の舞踏会は? 流石に行くわよね?」
「君と違って暇じゃないんだ」
「社交をするのも立派な仕事よ」
「うるさい。君は何も考えなくていいんだ。それより、夏のバカンスだが――」
ナンシーは唇を噛み締めた。
『互いに話し合いを』しなければ。
話し合いを、話し合いを――?
……本当に、する必要があるのだろうか?
話し合いどころか、シヴァはナンシーの話を聞こうとしない。
ナンシーがどれだけ訴えたって、どれだけ嘆いたって、彼の心は動かない。
ならば、こうしているのは時間の無駄なのではないか。
シクシクと心臓が泣いている。
あたかも悲しそうに、辛そうに泣いている。
ナンシーは今、どんな顔をしているのだろう。
顔は青褪めてないか。
唇は震えていないか。
絶望を手で掬ったような、泣き濡れた後のような顔をしていないか。
けれど、それはこの男にとって、なんの意味も見いだせないのだろう。
だって、目の前にいるこの男は、今のナンシーの様子を見ても、少しも顔色を変えない。
気づかれない。
気づいていない?
いや、本当に、どうでもいいのだろう――。
ナンシーが笑っていようと、泣いていようと。
(ああ、シヴァ、私の愛しの旦那さん)
前もこう口ずさんだような気がする。
確か――あれは、半年前のことだったか。
(貴方はもう、私のことを愛していないの?)
分かってた。
そんなことくらい、とっくの昔に。
けれど、呑み込むのに時間がかかってしまった。
ナンシーは、シヴァのことを――愛していたから。
(ああ、結局話し合いはできなかった)
けれど、もういい。
もう、逃げてしまおう。
実家に手伝ってもらって、遠くの小さな修道院に匿ってもらおう。
ゴワゴワの麻の服を着て、日の出とともに起床し、めいいっぱい洗濯物でも干してやろうではないか。
このクワ一つ持ったことのない綺麗な手をあかぎれだらけにして、よれよれの栄養の抜けた野菜でも作ってやろうではないか。
それは今まで見たことのない世界だ。
今まで培ってきたものが、少しも役に立たない世界だ。
それは、想像さえ乏しくて、自分がどんなことになってしまうのかさえ分からなくて、少し怖くさえあった。
けれど、今ここで真絹で首を締められるような圧迫感に耐えながら、息もまともに出来ずに生きながらえるくらいなら。
いっそ、知らない世界でめいいっぱい倒れてしまいたかった。
「シヴァ……ごめんなさい」
貴方から逃げてしまう私を、どうか許して。
「ナンシー!」
「はい」
女性修道院の統括をしている院長のマーサさんが手を振っている。
何事かと、洗濯物を干す手を止めた。
カゴの中身が飛ばないように蓋を閉めると、ふと自分の手がささくれができているのに気がついた。
ナンシーが全てを捨てて女性修道院に駆け込んでから――半年以上が経つ。
最初は慣れない仕事で失敗ばかりだった。
自分はこんなにも何もできなかったのだと、ここにきて痛烈に体感した。
お荷物だと言われ、嫌がらせだってされた。
逃げ出したくなったし、嫌になったこともあった。
けれどなぜか、何もしなくてよかったはずのシヴァとの結婚生活よりは、随分ましだった。
体を動かすとスッキリした。
毎朝早起きをして、神に祈りを捧げる時間は、次第に苦痛じゃなくなってきた。
両面焼きの卵焼きも慣れたら美味しく感じてきた。
今では苦楽を共にする友人だってできて――これからの人生、ここで過ごすのは悪くないと思うようになった。
とても順調に物事が進んでいた。
もちろん――毎日忙しくて、手の手入れをする時間さえないくらいだけれど。
かつて、社交界の花と呼ばれていたころには、考えられない、でもここがこれからの私の居場所なのだ。
「どうなさいました? マーサさん」
「手紙が届いているよ。あんたの実家と、もう一つ」
差出人を見て、私は思わず笑った。
「今度は直筆で書かれているのかしら」
今日の話の種は、この手紙にしよう。