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4.失い、また得る

 あの屋敷で、生涯を送るのだと思っていた。いつかは、司祭の学識の一端を修め――それはあのピレスラムの峰々を越えるよりも難儀なことに思えたが――一人前の書記として、父のように司祭をたすける身となるのだと。それ以外の未来など考えもしなかった。

 こんなふうに、父も母も、書記見習いという立場さえも失って、屋敷から放り出される未来など――。



 舌禍ぜっか、という言葉を彼が知るのはまだまだ先のこと。

 とはいえ、うっかり司祭への敬意を欠いた発言により、ディルの書き取りの課題が容赦なく増量されたことは言うまでもない。

 そんな目に遭いながらも、それでも聖堂へ行くのは嫌ではなかった。

 知ったところで何の腹の足しにもならない未知のもの。司祭はそういった物事へ関心を向ける面白さを、ディルに教えてくれた。

 皆、日々を生きることだけで精一杯だ。労働して、得たかてを食べて、眠る。余計なことに考えを巡らせる余裕など、平民にありはしない。

 毒にも薬にもならない謎を前にして、ああでもない、こうでもないと取り留めのない話をするなんて、あの司祭以外のひととは決してできないことだった。

 貴族身分出身の司祭があのように接するべきは、本来ディルのような平民の書記見習いなどではなく、立派な家柄の貴族の子弟のはずだ。あの屋敷で、たまたま他に教え子がいなかったからこそ、ディルはたくさん相手をしてもらえたのである。

(おれって、やっぱり運が良かったのかな……)

 空腹に散漫になる思考のなかで、ぼんやりとディルは考えた。

 長い間餓えを堪え、さらに慣れない山道を歩き通しの身体はあちこちが痛み、視界もことあるごとにぐらぐらと揺れる。

 辛くない、と言えば噓になるだろう。けれど、今自分の数歩先を行く、この背の持ち主が差し出した手にすがったことを、後悔はしていなかった。

「……ヴィー……」

 力無い声で、ディルは彼に呼び掛ける。

 相手はすぐに振り返った。烟る金の睫毛の奥から、透き通るような薄青の瞳が優しくこちらを見下ろす。

「どうしました?」

 丁寧な発音で問われる。こんな裏街道で出会ったなんて信じられないくらい、このようやく少年を脱しようかという若者は、外見も口調も整いきっていた。

「……じゅうぶんのいち、ってどういう意味……?」

 唐突な質問に、相手は一瞬、虚を突かれたような顔をする。

 いつか教わるはずだった。でも、屋敷を追い出されてしまった今、もうあの司祭に教えてもらうことはできない。

 そう思ったら無性に知りたくなったのだ。

「……ああ、分数はまだ知らないのですね。ええと……」

 なぜそんなことを? などとは訊かず、ヴィーは説明のための言葉を探してくれているらしかった。彼のそういうところが、どうにもかつての師を思い出させる。

「さっき、貴方とふたりで魚を食べましたよね? 一尾しか獲れなかったから、半分ずつにして。半分――つまりあるものをふたつに分けた場合、そのうちのひとつのことを二分の一、と言います。ですから、貴方の言う十分の一というのは……」

「……十個に分けたうちのひとつ?」

「そう」

「十個に……」

 ディルは口の中で小さく呟いた。頭の中で、先ほどヴィーと食べた魚が細切れになっていく。

 一年越しの謎が、ようやく解けた。

(……司祭さまって、ずいぶんひどいな)

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