2.異世界に行く、つまり今生の別れ
朝起きると、体に痛みはなかった。
あれだけ俺を苦しめてきた痛みから解放されたおかげで、最後の一日を、穏やかな気持ちで過ごすことが出来そうだった。
母さんに押してもらって車椅子に乗り、長い間閉じこもっていた病室を抜ける。
目指す先は病院の庭。奇跡的な回復を見せたとは言え、医者に許可されたのはそこまでだったからだ。
でも窓枠からしな見えなかった世界が、目の前に広がって、手を伸ばせば触ることだってできる。
ーー今の俺にとってはそんな事が嬉しい。
喜びのままに、後ろを振り向き母さんに話しかけた。
「母さん。昨日夢でさーー」
信じても信じなくてもいい、けど別れくらいは済ませようと思った。
俺は昨夜あった神との出来事を夢に置き換えて、語る。それを聞く母さんの表情は柔らかくて、暖かい目をしていた。多分、話す俺の顔も楽しそうだったからだろう。
随分と久しぶりに見た気がして、なんだか嬉しくなったのも相まって、鏡を見るのが恥ずかしいほど幸福に満ちた顔を浮かべてる事だろう。
病院の庭をぐるりと何周か回った後、「そろそろ戻ろうっか」と母さんが言った。久々の外に満足した俺はそれに賛成して病室に戻った。
「ーー今日は私も楽しかったわ……。久しぶりに元気な貴方と話せて、一緒にお散歩までして、こんな平穏な一日が日常になれば良いのにね。あらいけない、今朝お医者さんが回復に向かってるって言ってたのに……実感がねぇ……。ほんとに嬉しいわ‥‥……」
「ーーうっ……。ううん、大袈裟だよ母さん、明日からもさ、庭に連れっててよ。俺、楽しみにしてるから」
あの神の言っていた話が本当なら、明日にはもう……俺はこの世界にはいない。
それを知っているから、母さんの希望に満ちた言葉に胸が締め付けられた、その痛みが声となって漏れる。
それを悟られないよう、頑張って取り繕ったつもりだけど、どうか気付かないでほしい。
「じゃあお母さん、仕事があるから今日は帰るわね」
「うん……」
そう言い残し、俺に背を向けて病室のドアに手をかけた。俺はベッドに横たわってその背を見つめている。
ーー小さくて細い背中だ。働きながら俺を育ててくれて、しかも病気がちでよく入院をする俺を時間を見つけては看病に来てくれた。
おかげで小さい頃も寂しい思いをした記憶はない。
そんな苦労が滲み出た細くも、力強さを感じさせる愛しい背中だった。
その母さんと二度と会えないのか……。なのに俺は、大切な最後の時間を誤魔化して終えようとしている。そんな事が許されるはずがない。
「まって。母さん、俺……母さんの子供でよかったよ。ーー産んでくれてありがとう」
「ーーもう縁起悪い事言わないの……、私の方こそ丈夫な体に産んであげれなくてごめんなさいねって思ってるのに……、そんなふうに、貴方に言われたら……」
俺の言葉を受けて、母さんは背中を向けたままだった。声は聞こえないし顔も見えないけど、きっと泣いているんだと思う。
かくいう俺も、涙が流れて止まらないでいる。けど互いにそれを見せ合ったりはしない。
だって、今の病室に嬉し涙は似合わない……完治したならまだしも俺にとっては話が早すぎる。
だから互いに泣きあってしまえば、それは悲しみを連想させてしまうだけだ。
だけど、言いたい事は言えた……。
互いに同じタイミングで泣き終わって顔を合わせる。
「ーーーーじゃあ、また明日」
「うん、じゃあね」
そして母さんは病室を去っていく。これで、二度と会う事はないだろう。
本当に……今までありがとう。
*****
ーー約束の夜
『待たせたな少年。こっちの調整は滞りなく済んだ。あとは向こうの世界での名前を決めればいいだけだが、どうだ? 良いものは浮かんだか?』
それはもう決まっている……。グレイだ、グレイって名乗ることに決めた。
『グレイか、その名の偉人もいた気はするがそこから取ったのか? それとも……ああ、なるほど、そりゃ趣味の悪いこった』
神の言う通り、偉人の名を借りたわけじゃない。彼ら彼女らのように偉業を成し遂げられる気がしない。
まして一部を借りて、その分は頑張ろうなんて出来る気もしない。
だから、こう考えてみることにした。
これから向かう異世界にとって、俺は異なる世界の者で、つまりは異なる星の者……そこから皮肉気味に連想して、グレイ。
趣味が悪いなんて感想が浮かんでくるのも納得がいく。
『いまいち理解出来ねぇが……、まぁいい、グレイだな、忘れないうちにステータスに記入しといてやる』
それで、異世界にはどうやっていくんだ?
『ーー急かさずともすぐに運んでやるが。その顔を見るに、気持ちはもう決まっているってところか。さて、まずはオレの元へその命を運ぶぞ』
真っ暗な病室に波の音が響く。ゆっくりと寄せては返すその音に、俺の意識は海に流されているかのようにゆらゆらと、曖昧になっていった。
どれくらい長い間、この海を漂流していたのだろう。とても不思議な海だった……、水は薄く白っぽく煌めいて、生き物の気配は一切ない。海水なのだろうか、体はずっと浮いている。
このままずっと流され続けるのかと不安の感情を抱いていると、不意に海底へ引き摺り込まれてしまう。
不思議と抗う気は起きなかった。それは、引き摺り込もうとする手が悪意の全く感じさせない、ただただ慈愛に満ちたものだったから。
気づくと目の前には海があった。海に引き摺り込まれていたのに、その先にあるのも海と表すると語弊があるだろうけど、確かにそれは海であった
それはおよそ人型ではなかった。
それの一部は珊瑚礁に覆われ…‥というよりも珊瑚礁そのものといった風で、実態のない魚がそこかしこで泳ぎ、至る所に貝が張り付いている。
それには見たことのない生き物が蠢いてる部分も存在していて、しかもその中では恐ろしいほどのサイクルで、生と死が繰り返されている。
『ようこそ少年。こうして会うのは初めましてになるな? では改めて名乗らせてもらおう、オレは命の神。少年を異世界へと誘う恩神というところかな?』
声帯や口は存在しないと思われたものから、聞き覚えのある声が発せられた。
「貴方が……。こちらこそ初めまして、俺は」
『グレイだろ? もう元の名を名乗るのはやめとけ、今から慣れとかないと、偽名で疑われた挙句、誰かに燃やされるかもしれないぞ?』
「刺されるとかじゃなく燃やされる?」
『あー、ま、例え話だ気にすんな。それより落ち着いたか?』
神は俺の内心を当然のように見透かしていた。訳もわからず海に流されてから、常識外れの姿をした存在と相見えて正気を保っているのに少なからず疲弊していた。
『昔はちゃんとした命の神だったからな、命の原初たる海を象徴した姿になっている……中々いけてるだろう? ま、オレの話はこんなところでいいだろう。
さあ、グレイ! これからお前は異世界へと旅立つこととなる。元の世界とは環境も文化も、世界そのものの仕組みも全く異なる。それでも、少年は異世界に行くことを望むか?』
神の言葉は文字通り最後の忠告だろう。今の俺は魂だけとなった状態で、この世界と世界の狭間のような場所にいる。
今なら引き返すことが可能だろう。けど、戻ったところで俺の体は末期の病に侵されていて、死は避けられない。だから、俺の気持ちはもう決まっていた。
「それでも、望むよ」
『じゃあお別れだ少年、目覚めたら巨大な塔を目印にして道なりに進め、少し行ったところに街があるはずだ』
今まで読んできた異世界ものに比べて、少し簡素な送りだしだと感じた。
いわゆるチートスキルや伝説の装備となんてのを貰えるなんて事はなく、異世界に行くことになりそうだ。
『痛い所を突いてくれるな少年……、向こうでの体を構成するのに、ただでさえ少ない力の大半を費やしたんだ。オプション的なのをつけてやるのは難しい、悪いな。ま、頑張ってくれ、期待してるよ』
神の体に住う生き物たちが、揃って申し訳なさそうな顔を浮かべている。
顔も口も見て取れない存在かと思われたが、顔に関しては魚や貝が表し、声は波のさざめく音や生き物らの動く音で発しているようで、人よりも断然分かりやすく見える。
なので、むしろ無茶な要求を心に浮かべてしまった俺の方が、申し訳ない気分に落ち入ってしまった。
「こちらこそ悪かった……。病を治すチャンスを貰えるだけでも幸運すぎるのに、楽をしたくて望みすぎた」
神は、というか生き物たちはそれぞれの暮らしを始めて、命のサイクルが再び始まっていく。神なりの「別に気にしない」という答えだろう。
すると波が引いていく音がして、すぐにザザーッという音が押し寄せる。それには荘厳な声が乗っていて、俺の耳へと響く。
しかし押し寄せていたのは音だけではない。何もかもを押し流すような荒波に襲われてしまい、体が……正確には魂が、この場所から弾きだされた。
こうして、神からの別れの言葉を聞き取る事は出来ず、病室からこの場所まで流された際と同じように意識が曖昧になっていった。
意識が完全に失われる直前に遠目に見えた神が笑っているように感じた。生き物たちは口の端を吊り上げて笑う。
それが余りに醜悪で、異世界に向かう俺の行く末を嘲笑っているかのようだった……
*****
意識の回復とともに、少しずつ体が感覚を取り戻していく。まず感じたのは地面に生えた柔らかい草木の感触。そこに寝転んでいる俺の体に澄んだ風が吹き、優しく包み込んでいく。
とても心地よい気分で、このまま眠っていてもいいと思えた。
それに痛みが少しもない。元の世界で俺を蝕んでいた病気の気配が完全に消えている。それも相まって、気持ちがいい。
目蓋越しに感じる強い明かりを警戒して、ゆっくりと目を見開く。
視界の先には元の世界と同じように太陽が一つ輝いて、世界を照らしていた。ここが外であると認識する。次に上半身を起こして、周囲を見渡してみた。
けど、ここが異世界だというなら、モンスターに襲われないとも限らない。事前の説明ではここは街から離れた道の近くと言うことで、よくよく考えると危険だ。
確かここから少し行ったところに街があるって話だったっけ。
なので、まずは道に向かって丘を降ることにした。
「体が軽い……。それによく見れば、記憶にある俺の体格と全然ちがう」
元の世界では、病に侵され食事も取れなかった事も多く、健康とは程遠い痩せ細った体だった。
それがどうだろう。
腕を曲げ力を入れると力こぶが浮き出るくらいには筋肉がつき、足腰も同じようにそれなりの筋肉がついていて、肌も普通の色を取り戻している。
服装も直前まで着ていた患者着ではなく、西洋風の……なんだかパッとしない服に変わっている。
肉体も服装も俺のものじゃ無くなっている。となると、約16年慣れ親しんだ顔も変容してるんじゃないかと恐怖を覚える。
確認しようにも鏡を持ってるはずがなく、水面も見当たらない。
顔がどうなっているのか。その答えを得るためには、どの道、街に行くしかなさそうだった。
慣れた手順で恐怖を一旦仕舞い込む。生まれつき病弱だった俺が、長い闘病生活から心だけでも逃避するために得た技術が役に立ったようだ。
落ち着いた心で街の目印である塔を探すと、それはすぐに見つかった。
螺旋状に積み上げられた古めかしい塔だ。とても現代的な建築物には思えない、レンガに似た色合いに見えるが、詳しい情報はここからでは得られそうにない。
いずれ辿りつかねばならない場所を拝んでみようと見上げてみるも、塔は途中から雲に隠れてしまい、頂上を目視で確認することは出来なかった。
気を取り直し俺は塔を目印に、街へと歩き出した
「広大すぎる草原に、あり得ない高さの塔……、異世界と言われれば納得できる光景ではあるけど、実感としては弱いよな」
丸腰でモンスターに出会いたいわけじゃないけど、異世界らしさと言ったらモンスターだと思う。それか、ステータス……。
ゲーム的なシステムとして数々の作品に存在してきた物だが、世に出ている異世界の物語でも一定数見かける物だ。HPやMP、各種パラメーター、使える魔法、果てにはその人の持つ技能をスキルとして表示されたりだ。
これに関しては苦手な人も一定数いるが、俺は好きだった。この異世界にも存在していたら嬉しいけど。
「ーー物は試しか。ステータス、表示、ステータスオープン、アナライズ、みやぶる……、代表的な単語だとこの辺だけど、うーん、反応はなしか……ちょっと残念」
どの単語にも反応はなく、網膜には何の文字も出現せず視界はくっきりとしたままだ。
だがステータスはあるはず、あの神が俺の新しい名前をステータスに記入しておくと言っていたのを覚えている。
「とにかく街へ急ごう。そこでならステータスの話も顔の状態もはっきりするはず」
街には人もいれば、図書館なんかもあって情報を得られるだろうと、改めて街へ向かう必要性を認識する、その胸に好奇心と不安を抱えながら。
とか言いつつも、大半はまだ見ぬ出会いや異世界での生活を楽しみに、胸膨らませて駆け出した。