第1章
「やっぱスノボ楽しいー!!雪質最高ー!!」
ひと滑りした後、早朝の見渡す限り真っ白な銀世界の中で、颯太は両手を高く上げて叫んだ。
「よく言うよ。婚約者を放ったらかしにしておいて」
と、友人その1、剛田太一。
「楽しいものは楽しいじゃん」
「じゃあ、俺がもらうぞ?」
と、友人その2、楠木悟史。
「却下、あげない、ゲレンデも結菜も俺のもの~」
と再び両手を高く上げて答えるハイテンションな颯太だった。
剛田太一は短髪のガテン系、楠木悟史は長髪細めメガネの知的系、そして颯太は爽やか系という三者三様の個性だったが、3人とも180くらいの身長で顔もそれなりにまとまったトリオで、本当は街中なら目立つところだ。
残念ながら、ここ龍神平のゲレンデではスノボ用のウェアとゴーグル、ニット帽で、ただの人だった。
「女っ気、ねー!!」
太一が叫ぶ。
「スノボがあれば十分だろ?」
颯太が本気で言っている。
「ふざけんな!お前には結菜、悟史には美希ちゃんいるけど俺は孤独だー!」
「太一、楽しそうだな」
「悟史!冷静に言うなー!」
「まあまあ、そんなことよりもっと滑ろうぜ!」
そう言って颯太は、さっさとリフトの方へ滑って行った。
「おい、待てよ!」
「やれやれ……」
そんな感じで楽しそうな三人だった。
颯太たちはコースを変えながら何本か滑っていたが、太一が大きなコーナーで転けた。
ボードが引っかかって転がったせいで、まるでコメディの様に顔から雪面に突っ伏していた。
颯太はその太一に向かって雪を大量に浴びせながら止まった後、そのまま後ろに倒れこんだ。
「モゴモゴ」
雪の中で太一が何か言ったようだ。
颯太はそのまま大の字に寝転がって、晴れ渡った青空を見ていた。
谷で狭くなった白っぽい世界の上に、くっきりとした濃い青色の世界が広がっていた。
「最高だよな」
彼らを守るようにコース山側に立ったままの悟史も、颯太の言葉とその視線に誘われて空を見上げた。
「ああ」
「結菜もやればいいのに」
颯太が青空を見たまま言った。
「そうだよな。あいつ、あれだけ活発そうなのに運動オンチってどうなのよ?」
雪に突っ伏したままだった太一がガバッと起き上がって言った。
「そういうギャップもかわいいの」
颯太がけらけらと笑った。
「はいはい。ごちそうさま」
太一は拗ねた。
笑いながら、颯太は目の前にある少し小さめの雪のジャンプ台を見た。
オレンジ色のポールとネットの向こう側はスノーボードクロスのコースだった。
数人が同時に滑って、ジャンプ台やその他の障害物を越えながら速さを競う競技だ。
雪上のF1と呼ばれている。
「このくらいの高さなら飛べるかな?」
颯太はそう言いながら、ボードを外して手に持つと、そのネットを越えた。
「おい、颯太、まずいだろ」
「やめとけ」
「大丈夫、今は誰も滑ってないし、このジャンプ台だけな」
颯太は悟史と太一の止めるのも聞かずにコースを少し登って行った。
20mくらい上に登ると、颯太はボードをセットした。
バタンバタンとその場でジャンプして、ハマり具合を確かめると、
「よっしゃ、行くぜ!」
そう言って颯太はもう一度、前の方にジャンプして勢いをつけて滑り始めた。
見た目より意外と急なのか、すぐにスピードが乗った。
そして、思ったより高く飛んだ。
「うわっと!」
そのせいで空中でバランスを崩した颯太は、無様に転けることとなった。
雪まみれとなった顔で颯太が悟史たちの方を見た。
「あほー」
「へたっぴ」
太一と悟史はそんな颯太を見てけらけらと笑っていた。
その時だった。
悟史は誰かがコーナーを凄いスピードで滑って来たのに気が付いた。
「颯太!!」
「え?」
颯太はジャンプ台の下の方で座り込んでいたので、なぜ呼ばれたのか分かっていなかった。
だが、音に気が付いて顔を上げた時には、既に空中に浮かんで自分の方に飛んで来る人が見えていた。
「颯太ぁあああ!!」
太一と悟史の叫び声が重なった。
その直後に響いた鈍い音は、その叫び声にかき消された。
「そこ!どいてください!」
ER(救急治療室)担当の医師と看護師が血だらけになった颯太を乗せたストレッチャーを手術室に運び込んだ。
「颯太!」「颯太!」
太一と悟史は目の前で閉まった手術室のドアにそう声を掛けるしかできなかった。
少しして、ドア上の手術中のランプが点いた。
太一は壁際のベンチによたよたと倒れるように座り込んだ。
その時、自分のウェアが血だらけなのに気が付いた。
「悟史……」
悟史が、手術中のランプから引き離すように、太一に視線を向けた。
「颯太、死なないよな?」
虚ろな視線で、太一が悟史を見ていた。
「……大丈夫だ」
悟史は絞り出すようにそう言った。
悟史も自分のウェアに付いた赤い色が目に入ったが、
「あいつは、結菜を悲しませるようなことはしない」
と、付け加えた。
「……ああ、そうだよな」
頭を抱えながら太一は呟いた。
その二人の姿を離れたところで見ている女性がいた。
颯太とぶつかった神崎茜だった。
その表情は顔面蒼白で、そこで立っているのが不思議なくらい憔悴していた。
両手を胸の前で固く結んで、その視線は、手術中のランプを見つめたまま動くことはなかった。
他に警察関係者や、スキー場関係者もいたが、太一たちや茜の雰囲気に、まだ声を掛けることはできなかった。
誰もが、颯太が助かるようにと、ただそれだけを願っていた。
だが、そんなに時間も経たないうちに、手術中のランプが消えた。
それに気が付いた悟史の動きに、ハッとしたように太一が立ち上がった。
茜は、まるで石にされたかのように、身体を強張らせた。
手術室のドアが開いた。
担当した医師が一人で出て来た。
太一と悟史が彼に近づいた。
医師は太一と悟史を見ると、一呼吸置いた。
「残念ですが、手の施しようがありませんでした……」
「そんな!……嘘でしょ?先生……」
「頸動脈を切っていたので、もう……」
「嘘で……しょ?」
太一は虚ろに呟き、悟史は、ただ、天井を仰ぎ見た。
茜は、焦点の合わない視線で医師の方を見ながら、首をゆっくり左右に振りながら、後退りした。
そして、関係者達が医師の周りに集まっている間に、その場から居なくなった。
「おい、神崎さんは?」
警察関係者が気付いて周りを見た。
「え?茜ちゃん?」
「おい、どこ行った?」
スキー場関係者も騒ぎ始めた。
神崎茜の兄、神崎龍生と茜の恋人、上杉陸は、事故の事を聞いて、市立中央総合病院に駆け付けた。
龍生が駐車場に車を止めると、陸が先に助手席から降りた。
「俺、先に行きます」
陸はドアを閉める時にそう言った。
「ああ……」
龍生は、待てよと言いたかったが、軽く手を挙げて応えた。
陸が病院の方へ歩き始めた時だった。
ふと、屋上の人影に気が付いた。
「茜?」
屋上の手摺りのところ立っていたのは、茜だった。
人をケガさせて、ショックを受けている様子だった。
「茜!!」
陸は少し心配そうな表情で両手を口に当てて叫んだ。
でも、その声は茜には届かなかった。
もう一度叫ぼうとした時だった。
茜は手摺りを越えた。
「おい、ちょっと待て……」
それが意味することを陸が理解する前に、茜の身体は宙を舞った。
何の躊躇もなく。
茜はそのままの姿勢で落ちていった。
陸にはそれは、まるでスローモーションの様に見えて、永遠と思える時間だった。
彼女の身体が駐車場の車の陰に消えたのと同時に、低く、鈍い音が聞こえた。
「!!」
陸は、よろめく様に歩き始めた。
車で遮られた視界が邪魔で、でも、その向こうも見るのが怖くて……
そして、何台かの車の向こうに、ついさっきまであんなに高い屋上にいたはずの茜がいた。
身体を震わせながら、茜のすぐ側まで行くと、倒れる様に膝をついた。
茜に触れようとするその手は、震えていて、それでも、触れようとするけど、確かめるのが怖くて触れられなかった。
「茜……、おい、何、こんなところで寝てるんだよ?」
どこかが動くのを求めて視線を泳がせていたが、自分の膝が温かくなったのに気が付いて下を見た。
赤く、温かい水溜りが広がっていた。
「い、いや、そんな、だから、待てよ、何なんだよ……、なあ、おい、おまえ、な、何やってるんだよ……こ、こんなに血が出たら、し、し、死ん……」
その先は言えなかった。
「うわぁあああああ!!」
陸は頭を抱えて叫んだ。
「おい!どうした……」
その声を聞き付けて龍生がやってきて、言葉を失った。
「あ、茜……」
どう見ても、もうその身体に妹は……、いなかった。
「うわぁあああああ!!」
龍生も陸と同じく叫んだ。
気が付けば、二人の周りを警察関係者やスキー場関係者が遠巻きに見ていた。
そのまま二人の叫び声が響き渡るだけの時間が流れていった。
楽しいはずの金曜が、こんな不幸な結末になるとは、太一も悟史も思わなかった。
こんなことなら、颯太に合わせてわざわざ休みを取るんじゃなかったと、太一は後悔した。
悟史も、颯太のために無理に休みを取ったようなものだった。
颯太がここに運ばれて来た時、一度はケータイを手にした。
だが、結菜へ架けることはできなかった。
まだ希望があったし、それを信じたかったし、もし仮にその希望が失われたとして、彼女が間に合うとも思えなかった。
不安な気持ちで駆けつける彼女の気持ちを想像したら、悟史にはできなかった。
でも、もう答えが出てしまった。
それも、最悪の……
悟史は、ポケットからケータイを出すしかなかった。
倉庫で備品の確認を終えて席に戻ると、ケータイの着信ランプが光っていた。
確認すると、悟史からの留守電だった。
「何だろ?」
私は首を傾げながらも留守電を再生した。
『結菜、電話をくれ』
伝言はそれだけだった。
オフィスから廊下に出ると、悟史に電話を架けた。
少し呼び出し音が続いた後、繋がった。
「悟史?私だけど、どうかしたの?」
『…………』
繋がったけど、相手は何も言わない。
「え?悟史?悟史だよね?」
『結菜……』
やっと彼が声を出した。
「え?な、何よ。颯太に何かあったの?あ、わかった!颯太、派手に転んで骨折でもしたんでしょ」
私は勝手に想像して、少し笑いながら言った。
『すまん、俺たちが付いていながら……』
「あ、やっぱり?いいよ、気にしないで。悪いのは颯太だよ。言うことも聞かずに、何かやらかしたんでしょ?」
『颯太が、死んだ……』
「え?」
言われた意味がわからなかった。
「骨折って……」
『骨折なんかじゃない。ジャンプしてきた女性とぶつかった。……大ケガして、……ほぼ即死だった……』
「嘘……、嘘だよね?」
『嘘じゃない。すぐにこっちに来てくれ。……すまない』
「いや、だから……、嘘だと言ってよ。ねえ、そんな嘘、ひどいよ。ねえ!早く!嘘だと言ってよ!!」
『ごめん、結菜……』
悟史は嘘だと言わなかった。
『恋の神様のバチが当たっちゃえ!』
あの日の言葉が頭に蘇った。
嘘だ!
嘘だ……
嘘だ…………
震える手がケータイを落とした。
溢れる涙と止まらない嗚咽でぐじゃぐじゃになりながら、壁に手をついて崩れ落ちた。
口を押さえる左手も震えて、押さえているのかわからない。
私は壁に肩を預けて泣き叫んだ。
「え?森川さん?ど、どうしたの!?ちょ、ちょっと誰か!!誰か来て!!」
同僚達が私の周りに集まってきたが、私はそれに構わず泣き叫び続けることしかできなかった。
その数日後、私は煙の出ない煙突を見ていた。
周りの誰もが黒い服を着ていて、個性がなくて、ただ黙っていて、ただ、颯太が灰になるのを待っていて……
そんな中で、私は心の置き場がなくて、気持ち悪くて……
ここに、居たくなかった。
私は颯太とぶつかった女性を責めたかった。
そうできたら、どれだけ救われただろう……
でも、その彼女も、実際は自分のせいでもないのに、人を死なせたという思いに耐え切れずに死を選んだ。
そんな彼女を恨むのは間違ってる。
それに、彼女にも恋人がいたと聞いた。
お互い様。
おあいこ。
ううん。
勝手に競技用コースに入った颯太でもなく、本当は、私が悪い。
私が颯太に言った何気ない言葉が、言霊となって恋の神様に届いてしまった。
そのバチが、あの衝突事故だった。
私が彼を殺したのと同じ。
悟史から連絡を受けてからは、事故の相手を恨むより、それの方が頭を離れなかった。
病院に駆け付けて、彼女の自殺を知ってからは、なおさら。
ただ悲劇のヒロインぶっているだけだと言われても、一度心がそうだと記憶したら、私はその思いから逃れられない。
恋人を失った思いだけでなく、この思いからも……
「結菜さん」
振り向くと、颯太のお父さんだった。
「……はい」
「あっという間だね」
係の人達の動きが全てが終わったらしいことを分からせた。
「ええ……」
「あのさ」
「はい」
私は義父を見た。
「颯太のことは、忘れなさい」
「え?」
「何もなかったことにしなさい。君はこれからも生きていくんだ。前だけを見て生きて行ってほしい」
「お義父さん……」
「そう簡単じゃないことは分かってる。でも、颯太のためにも、そうしてほしいんだ」
「颯太のため……」
義父の言いたいことは分かった。
「そうだ。あいつのことは君が一番知っているだろ?あいつなら、君が今のままだと心配で成仏できない」
「そうですね」
「早く成仏させてやってくれ」
そう言って義父は笑った。
本当は笑えるはずがない。
義父は私のために笑ってくれたのだ。
「はい。そうします」
だから、私も、今は少し笑った。
颯太と太一、悟史、そして私の4人は大学時代の同級生だった。
名前はそこそこ知られているけど、言うほどレベルの高くない大学の経済学部。
颯太は中堅商社の営業、太一は中堅建設会社、悟史は少し大手の設計事務所。
私は大手の商社だけど、ただの一般職で、しかも庶務課。
その他大勢のうちの一人なだけ。
みんな似たり寄ったり。
だから、颯太が急に休めるようになった時、本当はいつでも休めた。
でも、スノボは無理だった。
確かに、見渡す限りの白い世界、山頂近くからの景色、滑った後の温泉とかetc……
魅力的だと思う。
でも、やっぱりスノボは無理。
付いて行けば、私自身滑らないといけない。
それなのに、私はまるで滑れない。
みんなには運動オンチだと言って誤魔化しているけど、本当は違う。
スキーやスノボに関しては、過去のトラウマが原因。
高校の修学旅行で一度だけスキーに行ったことがある。
その時、友だちに一番上まで連れて行かれた。
一番上と言っても、くねくねと緩やかに降りてくる初級者コースもあったから。
その分長く滑ることができて練習になる。
「じゃあ、私が付いて行きながら教えるから、がんばって」
そう言って、彼女が私の方を振り向くと、そこに私はもういなかった。
「え?結菜?」
確かに、リフトの所から右に行けば初級者コースだった。
でも、私のスキーは勝手に左に滑り始めていた。
「ゆ、結菜、そっちじゃない……」
あの時の、呆然とした友だちの顔が忘れられない。
私は友だちの「山側に倒れて!」というアドバイスに素直にしようとしたけど、身体は言うことを聞かなかった。
あっという間にまるで崖の様な上級者コースに落ちて行った。
なぜか行きたい方とは逆に曲がろうとするし、倒れたいのに倒れないし、スピードがどんどん乗って、私はコース端の網に突っ込んで絡まった。
絡まらなかったら、その先の斜面から落ちてた。
その後は歩いて下りて、二度と滑らなかった。
それがトラウマの原因。
それじゃ、宿で待っていればいいという意見もあるかもしれないけど、それだと、颯太が私を気にして思いっきり楽しめない。
だから、私はあの日も、付いて行かなかった。
「おまえさ、笑う時ってさ、いっつも目が笑ってないよな」
「ひどい、これでも本気で笑ってるんだよ」
「あははは、わかってるって。でも、そんな照れが隠せない笑い顔が好きなんだよな」
「ちょ、ちょっと!」
「おまえさ、ちょっと声低いよな」
「まあ、私ももっと女性らしい方がいいなぁとは思ってるけどさ……」
「でも、俺は好きだぜ」
「ちょ、ちょっと!」
そんな会話を思い出す。
彼は、余り照れずにそんなコトをさらりと言って、人の戸惑うところを楽しんでいた。
私は、完全に表情をオープンにできる方じゃないから、そんな感じだったけど、私のココロの中は伝わっていたとわかっていた。
だから、婚約していた。
それなのに、そんな会話も、もうできない。
もう、部屋に帰っても、明かりが点いていることはない。
ソファーの右側に、温もりがない。
ベッドでも、いつまでも右側が冷たい。
無意識に抱きつこうとした左手が、そのまま落ちる。
彼からのメールとか着信もない。
彼の存在がどこにも、ない。
それからは、気が付くと、いつも深い海のような水の底に沈んでいた。
周りは光が届かなくなって、自分の手さえ見えないくらい深い水の底。
見上げても、光が見える水面は遙か遠く。
身体も何もかもが、空気さえ、重い。
そのまま沈んだままでいれば、自分をどうするかわからなかった。
でも、私には、太一と悟史、会社で仲がいい同僚たちがいた。
彼ら、彼女らがいつもいろいろ気遣ってくれた。
そのおかげで、私は水の底から少しずつ浮かび始めて、段々水面に近づいている気がした。
颯太の実家からも、「忘れなさい」という言葉どおり、何の連絡もしてこなかった。
そのために私も、連絡したり、行ったりすることができなかった。
そうすれば、逆にご両親が気にしてしまうと分かっていたから。
1年後。
今日はバレンタインデー。
颯太の命日。
颯太の一周忌をどうしようか悩んだ。
でも、颯太のお母さんから前もって電話があった。
「あなたは、絶対に来ちゃだめよ。忘れなさい」
そう言ってすぐに切れた。
その声は、厳しくて、それでいて少し震えていた。
私には優しさしか伝わらなかった。
そんなご両親は、私の義理の両親でいて欲しかったのに。
とりあえず休日。
家でじっとしていられなくて、街へ出掛けた私は、なぜかその手にチョコの入った紙袋を持って電車のドア付近で揺られていた。
渡せないと分かっているのに、買ってしまった。
お墓へも持っていけないのに。
ふと気が付くと、目の前に立っている若い女性がドアに寄り掛かって、一生懸命にメイクを直していた。
彼女の腕にはチョコらしき紙袋。
きっと、彼氏に会いに行くんだね。
他の人から見れば、二人とも幸せな女子。
でも、同じような紙袋を持っているのに、私と彼女では、まるで違う。
渡せるチョコと、渡せないチョコ。
今日という日、彼女は明るい空の下で笑えるのに、私はまた暗い水の底に沈んで行った。
時とともに少しずつ浮かび上がれていたけど、こんな風に何かあれば、また光の届かない場所に引きずり込まれる。
光が段々減ってくる。
気が付けば、真っ暗。
どんな表情をしてるのかさえ、誰にも見えない場所。
また、あの光の届く場所まで浮かび上がるのに、きっと独りだと息が続かない。
私は、流れだそうとする涙を目の前の彼女に気付かれないように、紙袋の紙紐をキツく握り締めながら、堪えるしかなかった。
何回水面に浮かんでも、また、1年後の今日、私はこの想いに囚われる。
それはいつまで続くのだろう……
その時は、そう思っていた。
バッグの中でケータイが震えた。
取り出すと、公美だった。
私は、何とか、今日を終わらせることができるみたい……
それからさらに1年半後の10月末。
「結菜先輩!来週の週末スノボ行きましょ!」
「え?」
突然の誘いにすぐに反応できなかった。
残業になった後、私たちは更衣室で着替えていた。
今年入って来たばかりの一条亜美が私の目の前で満面の笑顔を浮かべていた。
「え、えっと、スノボ?」
「はい!スノボ!初滑りです!って、え?え?な、何ですか!?」
まだ着替えている私を置いて、同期の坂塚公美と雨宮美香が彼女の両脇を抱えて後ろ向きのまま連れて行った。
「せんぱ~い!?」
助けを求める叫びを残して、更衣室のドアが閉まった。
「えっと……」
私はとりあえず、そのまま着替えた。
茶髪セミロングの公美と、少し茶髪セミロングの美香は、同期で同い年の26才。
公美は、細め体型で、目ヂカラがある感じ。
美香は、普通体型で、その表情は眠そうな目とクリッとした目の間を行ったり来たり。
茶髪セミロングの亜美は23才で、細めでカワイイ系女子。
ぶりっ子もできるタイプ。
3人とも160cmくらいで、ほぼ私と同じ身長。
みんな庶務課。
公美と美香は、もう親友。
亜美はかわいい後輩。
バン!
ドアがまた開いて、亜美が飛び込んできた。
そして、ドアを閉めると、背中で押さえた。
「ね、先輩!スノボ行きましょ!」
「えっと、どうして私を?」
「え?だって先輩、上手そうだし。彼が予定合わずで、せっかくですし、いつもの仲の良いメンバーでの女子会ってことで」
ドンドンドン!
「こら!亜美!開けな!」
「開けなさいって!」
ドアの向こうで公美と美香が叫んでいた。
「えっと、どうして、あの二人がこんなに止めるんです?」
「えっと……」
私はほっぺをカリカリと掻く。
「ちゃんと、後でお二人も誘おうと思ってたのに」
「まあ、私のコトを思ってなんだけどね……」
私は少し苦笑した。
ドンッ!!
「きゃあ!!」
さすがに押さえ切れずにドアが開いた。
「ちょっと亜美!話があるからこっち来な!」
「ちょっとおいで!」
亜美がまた二人に抱えられた。
「だぁかぁらぁ~お二人も一緒にどうですかあ?って言おうとしてましたって!もう、離してくださいよぉ」
「わかった。行くよ」
私はそう言った。
「え?」
「結菜?」
公美と美香が驚いたように動きを止めた。
「ほんとですか!」
亜美が、ほらほらみたいな感じで二人の手を振りほどいた。
「結菜、ほんとに?」
公美が心配そうに私を見た。
「うん。そろそろ自分の気持ちにけじめをつけないとね」
いつまでも、さっきみたいに彼女たちに気を遣わせる訳にはいかない。
「でも……」
美香も心配そうに公美と顔を見合わせていた。
「で、どこに行くの?」
私は亜美に聞いた。
「龍神平ですよ。スノボのメッカなので」
「え……」
私と公美、そして美香の声が重なった。
「え?龍神平だと何かまずいんですか?」
さすがに亜美も私たちの雰囲気に少し戸惑っていた。
「別にそこじゃなくてもいいでしょ。他には候補ないの?」
公美がそう言ったが、
「わかった。いいよ、そこで」
私はそう言って亜美を見た。
「結菜!」「ちょっと!」
美香と公美が何を言ってるの?という感じで私を見た。
「ううん、いいの。逆に言えば、龍神平しか行きたくないよ」
「結菜ぁ」
公美が私の肩を掴んで揺らした。
「いつまでも、逃げてばかりじゃダメだと思うの。だからこそ、あそこに行きたい」
公美が、言いたいコトを言えないもどかしさに、顔を複雑にしていたが、がくっと頭を落とした。
「……わかった」
「公美?」
美香が、それでいいの?という顔で公美の腕を揺らした。
「だってぇ……」
「美香、大丈夫だよ。二人がいつもそんな風に寄り添ってくれてたから、私、今、行くって言えたの」
「……そう?」
「うん」
私は、いつも目が笑ってないと颯太に言われた笑顔で頷いた。
「……わかった」
美香も、うう~ってなりながら頷いた。
「えっと、私には何がなんだかですが~?」
さすがに亜美が一人蚊帳の外で戸惑っていた。
「いいの。気にしないで。いろいろよろしくね」
私は彼女の肩をぽんぽんとした。
「はい!任せてください!」
亜美は胸をバンと叩いた。