03
「ああいう手合いは一体どこから嗅ぎつけてくるんだ……」
俺はうんざりして一つ溜息を吐き出した。
10億という自分には過ぎた大金を手にしてからかれこれ一か月以上が経過したが、未だあの手のヤベーやつらが毎日ひっきりなしに俺のアパートへとやってくる。
出自不明の親戚もこの一か月で10人近く増えた。
「親戚なんて一人もいねーよボケ」
悪態を吐いて、その場を離れようとする。
すると、背後から「ぺっこんぽっこん」と奇妙な音がした。
何かと思って振り返ってみれば、キッチンシンクに一匹のタコがへばりついて、八本ある足の吸盤を「ぺっこんぽっこん」鳴らしている。
――彼は俺のペットで、名を吉蔵と言う。
「ああ、騒がしくして悪かったな吉蔵」
俺が腕を差し出すと吉蔵は何も言わずに――タコなので何も言わないのは当たり前なのだが――触手を伸ばし、俺の腕に乗り移った。
彼は依然「ぺこぽこ」と吸盤を鳴らしながら、漏斗と呼ばれる器官をさかんにぱくぱくさせている。
どうやらお腹が減ったらしい。
「ちょっと待ってろよ」
俺は彼を腕に乗せたまま、床に置いたコンビニ袋の中からカニミソの缶詰を取り出した。吉蔵の好物だ。
吉蔵が触手をしゅるしゅる伸ばして、缶詰を持った方の腕へ乗り移ろうとする。
「こら待て」
そう言うと、吉蔵は本当にぴたりと動きを止めてくれる。
タコは頭の良い生き物だ。
こと吉蔵に至っては、誰彼構わず吠えまくるそこらの馬鹿犬なんかよりよっぽど頭がいい。
俺はその場にゆっくりと腰を下ろして、フローリングの床に缶詰を置いた。
「いいぞ食べて」
待ってましたと言わんばかりに吉蔵は缶詰の上に覆いかぶさると、八本の触手を器用に操ってあっという間に缶詰の蓋を取り外してしまう。
俺がやるのを見てすっかり開け方を覚えてしまったのだ。
大好物のカニミソをちびちび舐める吉蔵を眺めながら、俺はふぅぅぅーーー……と深い溜息を吐き出す。
疲れた、本当に……。
5億円。
それは平均的な日本人が一生遊んで暮らせる額だと聞いていたはずだが……現実はどうだ?
その倍額を手に入れたにも拘わらず俺は、こんな朝っぱらから頭のおかしい連中の応対に追われている。
俺自身、まだ10億にはびた一文手を付けていないのに……
「でもま、それも今日で終わりだ」
俺は独り言ちて、随分とスッキリとしてしまった自室を見回した。
四年間の社畜生活を支えてくれた俺の部屋には今や布団一つ、椅子一つない。
めぼしい物は全て回収業者に頼んで処分してもらったのだ。
よって残ったのはフローリングの床と、真っ白な壁だけ。
――俺は今日をもってこの六畳一間に別れを告げ、旅へ出る。
「吉蔵ぉー、どっか行きたいとこあるかぁー」
我が家での最後の食事の邪魔をされたことが不服だったのか、吉蔵が横長の眼でじとっとこちらを睨みつけてきた。
「西の方だと鷺白県のフラワーガーデンか、もう少し遠くに行けば天参府の――」
ぎゅぱっ、と吉蔵が吸盤を鳴らした。遺憾の意だ。
「あ、ごめん、天参府はタコ焼きが名物だもんな、じゃあ北にするか、桜場県か花原県にでも行って、美味い海鮮でも……」
と、そんな時である。
家の外から、ぱしぃぃぃん、と何か柔らかいものを打ち据える音がした。
遅れて小さな悲鳴、俺は窓へ駆け寄って外の様子を見る。
アパートの駐車場、俺の愛車のすぐ隣。
熱暑に揺らぐアスファルトの上で、一人の女子高生が倒れ込んでいた。
赤くなった頬を抑え、唇を噛み締める少女。
よく見ると、さっきのカニババアの娘ではないか。
そして当のカニババアは、肩で息をしながら血走った眼で少女を見下ろしていた。
先ほどまでのニコニコ顔はどこへやら、さながら山姥のように恐ろしい形相である。
「――アンタはなんなのよ! いっつもいっつも私の邪魔ばっかり……! 生まれた時からずっとそうだったわ! アンタなんか産まなきゃよかった! アンタ私にとっての疫病神よ!」
ババアが口角泡を飛ばしながら、ぎゃんぎゃんと喚きたてる。
それからも延々、聞くに堪えない罵詈雑言が飛び出してくるが、少女は言い返さない。
いや、正確には文字に起こすことさえ憚られる下劣な暴言の波に圧し潰されて、届かなかっただけだ。
しかし、俺には届いていた。
俯いた少女の口が僅かに動き、紡ぎ出したその言葉が。
「世の中……馬鹿ばっかり……」
俺はおもむろに空を見上げた。
夏の太陽がきらきらと輝いている。時刻は朝の8時半だ。
「夕陽は昇らない、朝陽が照らした分だけだ……」
俺はぼそりと呟いて、吉蔵を見る。
吉蔵もまた、横長の瞳で静かにこちらを見つめ返していた。
彼は頭が良いので、きっと俺の考えなんてお見通しなのだ。
俺は窓を開け放ち、むわりとした熱気の中へ身を乗り出した。
そして胸いっぱいに熱い空気を吸い込み、
「あー、こんな話があるんだが」
ヒステリーババアと女子高生が、同時にこちらを見上げた。
俺はもっともらしく「ううん」と咳払いをして、更に続ける。
「5億円、それが平均的な日本人が一生遊んで暮らせる額らしい、だからご婦人、ちょっと提案があって、要するに……」
怪訝そうにこちらを見上げる二人に、俺はとうとうその台詞を吐いた。
「――5億でその子、買いたいんだけども」
セミの鳴き声が、うるさいぐらいに響き渡っている。