12
「……本当に良かったのですか」
助手席から向けられるカニ子の視線は、きわめて懐疑的であった。
俺は車の運転を続けながら、ちらと横目にカニ子を見やる。
まるで差し出された餌を素直に受け取るべきか警戒する野良猫のような、そんな反応だ。
ちなみに今のカニ子はセーラー服から着替えて、例の若草色のノースリーブブラウスに、白のロングスカート、加えてその上に薄いカーディガンを羽織っている。
暑さに弱い吉蔵のため車内は冷房を強めに効かせているので、万が一にも肩が冷えたりしないよう、葛西リコに頼んで追加で見繕ってもらったのだ。
「こんなに服を買って……結構な値段になったでしょう?」
「大したことない、なんせ5億もあるんだし」
「あーはいはい、そうでしたね」
カニ子はうんざり、とでも言った風に肩をすくめて、それからぼそりと呟いた。
「……神様というのは不公平です」
スマホのシャッフル再生がしっとりとしたジャズを選び、車内を満たしている。
カニ子は頬杖をついて、窓の外に流れる景色をひどくつまらなさそうに眺めながら、ぽつぽつと語り始めた。
「10億……それは人生がひっくり返せるぐらいのお金です、それぐらいは分かります……では、神様はどうしてそれをあなたに与えたんでしょう、あなたよりも貧しい人や不幸な人なんて、世の中にはごまんといるでしょうに……」
それは俺が聞きたいぐらいだよ。
と反射的に答えそうになったが、やめた。
俺はしばらく車を走らせてから、車が並木道へ入ったあたりで口を開く。
「俺がどうして5億で君を買ったか教えてあげようか?」
「……えっ?」
カニ子がこちらへ振り返る。
「……ただの気まぐれじゃなかったんですか?」
「まさか、本当にただの気まぐれに5億も使うほど馬鹿じゃないさ」
車が緩やかなカーブに差し掛かる。
俺は片手でハンドルを手繰りながら、助手席の窓を開けた。
柔らかに降り注ぐ木漏れ日が、心地よい。
「俺が10億を当てたのは単なる偶然、神様っていうのはホントに気まぐれだよなあ、まぁそれはいいんだよ、重要なのはそのあと俺と会った人たちだから」
「会った、人たち……?」
「うん、俺が10億当てた後で会った人たちは、みんな笑ってたよ」
親戚を名乗る女、いかにも胡散臭い男、そして彼女の母親。
さっきウニクロで出会った葛西リコだってそうだ。
そんな中、
「笑ってなかったのは君だけだった、君だけは一人、どうしようもなくつまらなさそうな顔をしてた……勝手な感想だけど、君だけが全部諦めているように見えたよ」
「それは……」
「俺も同じだからさ」
カニ子――中野ヒマリが、はっと息を呑む。
「……10億、当たったのに、ですか?」
「最初に言っただろ? 5億円、それが平均的な日本人が一生遊んで暮らせる額らしいって、その理屈で言うと俺は一気に二生分の自由を手に入れたわけなんだけど……不思議だよな、いざ自由を手にして、色んなしがらみから解放されたら、自分がなにしていいか急に分からなくなっちゃったんだよ。旅に出ることにしたのも自分が何をすべきか探すためだった、そんな時に現れたのが君だったんだ、だから――」
しっとりとしたジャズが途切れ、スマホは次にシティポップを流し始める。
俺のお気に入りの曲だ。
「――だから、俺はこの5億で君を笑わせることにした」
車が並木道を抜け、一気に視界が開ける。
目の前に広がる光景に、中野ヒマリは両目を丸くした。
「これは……」
開け放たれた窓から吹き込んでくる潮風を浴びて、中野ヒマリは感嘆の声をもらした。
シートに貼りついた吉蔵もまた、かつての故郷との再会に、吸盤を「ぺこぽこ」鳴らして歓喜を表現している。
――どこまでも続く大海原が、太陽の光を返してきらきら輝きながら、俺たちを歓迎していた。
重沼県に海はない。
つまり俺たちは今、重沼を抜け、花原県へと至ったのである。
「綺麗……」
中野ヒマリはその大きな黒目に輝きを宿しながら、夢見心地に呟いた。
「花原の名物は岩牡蠣に海鮮丼、あとはこの道をまっすぐ進めば遊園地があるな、どこか寄りたいところがあれば遠慮なく言ってくれよ」
「あなたは……そんなことのために、あんな大金を……」
彼女の声が、湿っぽいソレに変わる。
俺は自らの不器用さを自覚して、自嘲した。
笑わせるつもりが、泣かせてしまっては元も子もないではないか。
そんなことを考えていると、中野ヒマリはおもむろに言った。
「……カニミソパフェ」
「うん?」
「だからカニミソパフェですよ、海央道の」
中野ヒマリがゆっくりこちらへ振り向いて、不敵に笑う。
「――あれ食べるまでは、笑ってやりませんから」
「……りょーかい」
かくして、二人と一匹を乗せた車は、海央道に向かって走り続ける。
太陽はまだまだ沈みそうにない。




