五話 銭湯デビュー
家に帰ると、俺は美知子と武の部屋に入り、机の上にカバンを置いた。
武のランドセルは畳の上に放り投げてある。おおかた野球をしに出かけたのだろう。
俺は自分の勉強机に向かって座り、とりあえず今日の授業で出た宿題をすることにした。
宿題なんて久しぶりだ。・・・しかも、知識が追いつかない。
今日の宿題は古文の現代語訳と、数学の教科書に載っていた問題数問だった。
古文なんて、何年も読み返してないとわけのわからない暗号だな。
古文の教科書を開き、枕草子のページを開いたが、数文字読むだけでほとんど意味がわからないことに気づいた。
美知子は古文が得意だったかな?・・・もしそうなら、俺と替われ!
そう思ったが、やはり何の変化もなかった。
美知子の記憶の中に古文の知識が断片的にあったが、それを必死で思い返しても、古文がスラスラと読めるようにはならなかった。
美知子も古文が苦手だったのかもしれない。
俺の時代ならパソコンなりスマホなりを開いて、その訳を検索すればすぐに出てくる。しかしこの時代では望むべくもない。
美知子の本棚には、教科書以外の参考書はほとんど置いてなかった。受験勉強なんか、縁のない中学生時代を過ごしていたのだろう。家の中のそれほど裕福でなさそうな様子を見ると、気軽に参考書を買えなかったのかもしれない。
これなら学校の図書室に寄って調べてから帰れば良かった。・・・明日、恵子に宿題を見せてもらおうかな。
夕方五時を過ぎて、どうにか適当に宿題を終わらせた頃に、玄関の方で騒ぐ声がした。
部屋を出て玄関をのぞくと、服を泥だらけに汚した武を母親が叱っていた。
「あんたはもう、こんなに汚して!これじゃ家に入れないでしょ!?」
武がしている野球は、本格的な野球ではなく、テニスの軟球を投げ、打球をグローブなしで捕球するような子どもの遊びだ。だからスライディングとかをするわけではない。それなのに髪、シャツ、半ズボンなどが茶色く汚れていた。
「家に砂が落ちるから、玄関の外で服を脱ぎなさい!」
バットを玄関に置かせ、武を外に追い出す母親。けっこうワイルドだ。
その母親は俺の姿に気づくと、
「ああ、美知子。ちょうど良かった。武を銭湯に連れて行って」
せ、銭湯?・・・ということは、女湯?
俺は美知子の家に風呂がないことに気づいていた。だから当然予想されることだったが、(地震に遭遇したときとは別の意味で)胸がドキドキした。
そう、俺はかつて女性とあまり、いやほとんど、というか、まったく縁がなかった。だから、・・・(自主規制)。
母親から言われたからしかたがない。
俺はそう言い訳して、いそいそと銭湯へ行く準備を始めた。
アルマイトの洗面器に、手ぬぐいと石けん箱と櫛と替えの下着が入った布袋を入れる。このあたりは美知子の記憶に従っている。武用の洗面器も同じように準備し、古着を着せられた武が待つ玄関先に向かった。
「武、今日は頭も洗いなさいよ」と母親。
「え〜、めんどくさい」と武は口を尖らせた。
「そのままで家に入ったら、畳の上に砂が落ちて迷惑だから」と俺も、美知子の気持ちになって言った。
「ちぇー」
母親に銭湯代をもらうと、まだ明るい外へ出た。行くのは歩いて五分ほどのところにある銭湯の「大黒屋」だ。高い煙突が玄関先からも見える。
「ねーちゃん、風呂から出たらコーヒー牛乳買ってよ」
「そんなお金はもらってないわ」
「ちぇっ」
しかし武ももともと期待してなかったようだ。
「あんた、勉強ちゃんとしてるの?勉強しないとりっぱな大人になれないわよ」
ここで言う「りっぱな大人」とは、大学を出てちゃんとした会社に勤めるという、俺の時代の俺と真逆な大人を想像しての発言だった。
ニートやフリーターなどおおっぴらにいないような時代である。武にもまともな大人になってもらいたいが、美知子、つまり俺自身についても将来のことを考えなきゃと思わされた。
美知子の家の経済状況と頭の出来からは、大学進学はきびしそうだな。・・・せめて短大くらいは出たい。
俺の時代よりも自分の将来のことを考えている俺自身に苦笑しているうちに、俺たちは銭湯に着いた。
銭湯の中に入ると、下駄箱に自分の靴をしまい、武は男湯、俺は女湯ののれんをくぐる。
中に入ると、男湯と女湯の入り口の間に番台があって、六十歳前後のおばさんが座っていた。
「こんばんは」
「あら、みっちゃんとたけちゃん、今日は早いわね。二人だけ?」
「ええ、私と武の分。二人とも髪を洗うから」
そう言って俺は番台のおばさんに、銭湯料金の五十三円を手渡した。高校生二十八円、小学生十五円で、さらに洗髪料が一人五円かかる。
未成年とはいえ二人で五十円ちょっとか。・・・こんなに安くて銭湯やっていけるのかな?
俺は無用な心配をしたが、ここでちょっと襟を正して(?)脱衣所の奥に入っていった。
人は誰もいなかった。まだ時間が早いのかもしれない。ロッカーはなく、籠が転がっている。
俺は服を脱ぐと、床に置かれた一つの籠の中に、簡単に畳んで入れていった。
下着姿になったとき、洗い場から一人の女性が、当然のことだが素っ裸で出てきた。四十歳くらいのおばさんだ。手ぬぐいで前を隠そうともしていない。
俺はちらりと見たが、すぐに視線をそらした。観察対象ではないと思ったからだ。
ちなみに俺はロリコンでも、熟女好きでもないっ。
そう思ってると、そのおばさんが俺に声をかけてきた。
「あら、みーちゃんじゃない。今日は早いわね」
驚いてそのおばさんの顔を見ると、美知子の記憶にある女性だった。
「あ、ケイちゃんのおばさん・・・こんばんは」
「こんばんは。・・・あたしはすぐに帰らないといけないけど、中に恵子がいるからね」
「え?」
恵子は親友だが、まだ十五歳の・・・未成年の、女子高生である。
さっき別れたばかりだが、こんなところで再会するとは。
も、もちろん、俺はロリコンではない!・・・十五歳でもロリコンになるのか?
「みーちゃんからも恵子に、しっかり磨くように言ってやって」
そう言うと、恵子の母親はばっさばっさと服を着て、さっさと銭湯から出て行った。
唖然とする俺。しかし気を取り直して下着を脱いで手ぬぐいと石けん箱を手に取ると、手ぬぐいで前を隠しつつ、少し緊張しながら洗い場に入っていった。
洗い場はタイル張りで、カランが並び、奥に湯船が二つ並んでいた。
恵子は一方の湯船に首までつかっていた。俺が軽く手を挙げると、恵子も手を振り返してきた。
恵子以外には中年女性と小さい子が数人いるだけだった。
すぐに恵子に近づくのも緊張するので、俺は洗い場に腰を下ろすと、手ぬぐいと石けん箱を取り出した洗面器にカランからお湯を注いだ。
たまったお湯を体にかけると、再び洗面器にお湯を入れ、濡らした手ぬぐいを石けんで泡立てて体を洗い始めた。
・・・どうにも緊張して、恵子の方を見れない。
そう思って前だけを向いていると、隣から恵子の声がした。
「みーちゃん、今日は早いね。・・・いつもはもっと来るのが遅いんじゃない?」
「う、うん」
話しかけられて、隣に座った恵子の方に顔を向けた。
顔から胸元にそっと視線を下ろす。・・・思った通り、貧乳だった。・・・美知子も似たようなものだけど。
「今日は武が泥だらけになって帰ってきたから、連れて行けって言われちゃった」
俺の返事に笑う恵子。お湯につかっていたせいか頬が上気している。
こうして見ると恵子も可愛いな。
「今おばさんと脱衣所であったけど、変なことを言ってたわ」
恵子に話しかけつつ、もう一度恵子の体を見下ろす。
「変なことって?」
「あ、ああ、ケイちゃんに体をしっかり磨くように言えって言われちゃった」
「あ」
もともと上気していた頬をますます赤らめる恵子。
「どうしたの?」
「う、ううん、何でもない」
言葉を濁す恵子。
後から考えると恵子は何かを隠していたようだったが、俺は別のことに気を取られていて気づかなかった。
おかしい、と俺は考えていた。曲がりなりにも全裸の女子高生がすぐ隣にいるのに、なぜか全然興奮しない。
男だった頃の俺は、ゲイではなく、女性にしか性的な関心がなかった。だから、隣に裸の美青年がいてもまったく反応しなかっただろう。・・・体を見たいとも思わない。
今、裸の恵子といる俺の気持ちは、ちょうどそんな感じだった。・・・恵子だからというわけじゃなく、女性の裸全般に性的な興味を持てない。
ひょっとして、美知子の体に入っているから、俺の意識も女性化してる?
それはちょっとした恐怖だった。・・・いや、女性の体に興味がないこと自体が恐ろしいのではない。やがて男が好きになるんじゃないかと、身の毛もよだつような考えが頭をよぎったのだ。
いやいやいや・・・男と恋をしたり、結婚したりなんて、とうてい考えられない。
俺は頭を振って嫌な考えを払いのけようとしていたが、恵子はそれにまったく気づかないようだった。
「じゃあ、みーちゃん、先に出るから。・・・また明日、学校でね」
「あ、うん、さよなら」
俺は浴場を出て行く恵子の後ろ姿を、何の感慨もなく見つめていた。
恵子が帰っていった後で、何とか気を落ち着かせた俺は髪を洗うことにした。
しかしシャワーはない。シャンプーもリンスもトリートメントもない。
洗面器のお湯を頭にふりかけ、石けんをこすりつけて頭を洗う。
まだシャンプーが一般市民にまで普及していないのかな?
男だった頃に読んでいたラノベでは、異世界に転生した主人公がその世界にないシャンプーやリンスを作って、売り出して大もうけするという話がよくあった。
しかしシャンプーの作り方なんて知らない・・・。
ラノベのような異世界に行っても、大もうけはできそうになかった。
異世界転生ガイドブックとか作って、いろんな便利グッズの作り方の説明を載せたら、夢見るラノベ読者に売れたかもしれない。・・・いや、そういう動画を作っても良かったな。
何となく動画の次回作の構想を得た俺だったが、もはや動画を作る術はなかった。




