四話 午後のミシン実習
美知子として目覚めてから、既に数時間が経っていた。
その間、美知子として当たり障りなく行動できたのは、美知子の経験が記憶としてあったからだ。
だから、第一家庭科室にずらりと並んでいるミシンを見ても、美知子としては驚かなかった。
しかし、俺の意識は目を丸くしていたろう。
そのミシンはほとんどが鉄製で、脚のついた台の上に載っている。・・・そしてその脚の間には、網状の鉄製の踏み台がついていた。
その踏み台の軸に連結した輪とミシン本体にある右側の輪状のものが、ゴム紐のようなもので結ばれていた。
「これは・・・足踏みミシン!」
もちろん美知子は知っている。家にもある。踏み台を足でこぐことで動力をミシンに伝え、ミシンの針を上下させるのだ。
しかしその美知子も今まで使ったことはなかった。母親が家で使っているのを見ただけである。
機械なら男の俺でも使えるかも、と思っていたが、なかなか難しそうだ。
ミシンの針でうまく縫えるように手で布地を誘導しつつ、足は絶えずコキコキと動かしていなければならない。足の動きが針の動きに連動する・・・。
俺は小学一年生の頃、親のすすめでピアノを習おうとしたことを思い出した。
最初は右手だけで、鍵盤を押さえて簡単なメロディーを弾く。
これはそう難しくなかった。
しかし次に、鍵盤を両手で弾くところでつまずいてしまった。
両手を別々に動かして異なるメロディーを弾くことができなかったのだ。
それに比べてこの足踏みミシンは、足の動きが単調で、ピアノほど難しくはないだろう。・・・それでも手と足を同時に別々に動かすと、変な方向に体に力がかかって手間取りそうだった。
「ケイちゃんはミシンが使えるからいいな。私は初めて」
「私もミシンに触るの初めて〜」と淑子が横から言った。
「ケイちゃん、わからなくなったら教えてね」
まもなく家庭科の先生が入ってきた。年配のおばあちゃん先生だった。
俺や恵子たちは適当なミシン台の前の椅子に座った。
「それでは、まず、宿題の手縫いのエプロンを提出してもらいます。名前を呼んだら順に前に持ってきなさい。・・・それでは赤池さん」
出席番号順に生徒の名前が呼ばれると、席を立って持参した手縫いのエプロンを先生に手渡す。
先生はエプロンの出来をちらっと見て、「なかなか上手ですね」とか、「少し雑な縫い方ですね。もう少し丁寧に」とか、簡単な評価を述べた。
俺のエプロンの評価は、「まあまあですね」でほっとした。美知子が自分で縫ったものだが、母親に見てもらいながら縫い進めていたことを俺は知っている
委員長、河野さん、恵子の評価も悪くなかった。淑子は「もう少し丁寧に縫いましょう」と言われていた。下宿の環境が関係しているのかもしれないが、もともと細かい作業が苦手のようだった。
麗子はにくたらしいことに「大変お上手です」とほめられてにんまりしていた。
「それではミシンの実習を始めます。・・・ミシンに慣れている方は教室の後の方へ、ほとんど使ったことがない方は前の方に移って席に着いてください」
俺と淑子は当然前へ移動する。恵子は使い慣れているはずなのに、俺たちとともに教室の前に移動した。
「ケイちゃん、初心者じゃないでしょ」
「まあ、いいから・・・」
俺がさっき「教えて」と頼んだから、一緒についてきてくれたのだろうか?
クラスの三分の二の生徒が後の方へ、俺たちを含めた三分の一の生徒が前へ移動し、適当にミシンの前に座った。
後方の慣れた生徒に対しては、先生が指示を伝えた委員長に任せるようだった。
俺たち初心者の課題は、ミシンでの三角巾作りだ。
三角巾と言っても骨折した腕を吊るやつではない。エプロンとセットで、調理時に頭に巻くやつだ。
先生の指示に従って俺たちは白い布を受けとる。六十センチ四方くらいの正方形の布で、薄く安っぽい。
それを三角形に半分に折って、重なった布の端をミシンで縫っていく。雑巾縫いと同じくらい簡単な作業だ。
ただし三角形の端の重なった部分を全部縫うわけではない。それだと三角形の端の部分が二重になった布のままなので、一部を縫い残して、縫ってない部分から布を反転させるようにして出す。
これで布の端の部分が内側に折れ返すようになり、少し安っぽさが減る。そこでもう一度三角形の端の部分をミシンで細かく縫って完成させる。
簡単な作りで、初心者の俺でもできそうだった。
先生の説明に従ってまずミシンの下糸をミシン台の中にセットする。ミシンという機械は基本針を上下させるだけなので、針だけに糸をかけても縫うことはできない。ただ布に穴をあけるだけだ。
そこでミシン針には上糸をセットし、ミシン台の中に下糸をセットし、針が上下する時に上糸と下糸を絡ませて縫っていく。
けっこう複雑な機械だ。
恵子にも見てもらいつつ、上糸を針にセットして、ようやく準備が整った。
三角形に折ってある三角巾用の布をミシン台に置き、ミシン本体の輪(名前がわからない)を回しつつ、踏み台を足でこぐと・・・
「わわわわわ」
思わず声が出てしまった。いきなりミシンの針が動き出して、布を斜めに縫っていく。
「ぷっ」後方で誰かが吹き出した。・・・わかっている、麗子だ。
俺は真っ赤になっているであろう顔を見られたくないので、振り返らなかった。
「あ〜、もう一度やり直しすかないわね」と恵子。
隣の淑子も「うほほほほ」と、妙な声を出して失敗していた。
だめだ、俺はミシンに向いていない。
美知子ならどうかな?・・・美知子もほとんど経験がないが、やってみたら俺よりうまいかもしれない。
美知子、俺の意識と入れ替われ!・・・そのまま元の美知子に戻っても、俺は文句言わないから。
俺は心の中で美知子の意識との入れ替わりをひたすら願った。・・・しかし美知子の意識が出てくることはなかった。
「何やってるの、みーちゃん?気を落とさないでやり直そう」
恵子のはげましに俺はうなずくしかなかった。
・・・何とか終わった。
俺は一時間ほど悪戦苦闘して、どうにか三角巾を縫い終わった。
縫い目は下手な手縫いのように不揃いだし、ところどころで縫い目がねじれて盛り上がっている。
「何度か練習すれば、すぐにうまくなるよ」と恵子。
淑子も最初は苦戦していたが、最終的には俺よりましな仕上がりになっていた。
教室後方のミシン上級者組は、同じ三角巾のほかに、エプロンの胸当て部分と肩ひもにフリルをつけていた。今日提出した宿題のエプロンと縫い合わせる予定のものである。
「あっちは胸まであるエプロンね。・・・ケイちゃんも作れたんじゃない?」
「作ろうと思えば家でも作れるからいいの」
やっぱり俺のために、初心者組に来てくれたんだ・・・。
俺は恵子の優しさに涙が出そうだった。
そのとき、いきなり部屋が揺れ出した。天井からぶら下がっている蛍光灯やミシン台ががたがたと揺れる。
「きゃーっ」叫ぶ生徒たち。
俺も思わず近くのミシン台にしがみついた。
その揺れは数秒でおさまった。ミシン台が倒れることもなく、被害はなさそうだった。
「みなさん、落ち着いて。たいした地震ではありませんでした」
先生が声を張り上げて、まだ騒いでいる生徒たちに注意した。
落ち着く生徒たち。
「突然だったからびっくりしちゃったね」
そう言って俺の顔を見た恵子がびっくりしたような顔をした。
「どうしたの、みーちゃん?顔が真っ青じゃない!?」
俺は恵子の顔を見返した。
「え、そう?・・・全然大丈夫よ」
確かに急な揺れだったのでびっくりしたが、意識を失うほどじゃない。俺の時代にも、この程度の地震はしばしば経験している。
しかし、心臓がまだドキドキしていて、つかまっていたミシン台から手を離そうとしたのに、すぐには離せなかった。
美知子には、地震に対するトラウマがあるのだろうか?
俺はそう思ったが、美知子の記憶を探っても何も見つからなかった。
まだ俺の意識と美知子の体が完全に融合していないのだろうか?
俺の返事に恵子は安心したようだった。生徒たちは、ミシン台や椅子を整頓してから教室に戻って行った。
授業がすべて終わると、俺と恵子は帰宅するためにカバンを持って学校の外に出た。
空はよく晴れていた。街中に先ほどの地震の痕跡はまったく認められず、いつもののんびりした風景だった。
「今日もい〜天気だね〜」
「そうね」
俺はさっきの地震のショックが残っているからか、あまりしゃべる気になれなかった。
それを察してか、恵子もあまり話しかけて来なかった。
二人で川沿いの土手の上の道を歩く。ここも未舗装で、道の脇から川岸まで、草が生い茂っていた。
顔にかかるそよ風も心地いい。
「ほんとにいい天気。・・・五月晴れよね」
「え?みーちゃん、五月晴れって梅雨の合間の晴れ間のことだよ」
「え、そ、そうだっけ?」
「でも梅雨になると、傘をさす手間だけじゃなく、水たまりが増えて、歩きにくくていやよね」
確かに未舗装の道はところどころで窪んでいる。そう思ってると、三輪のトラックが大きく揺れながら、しかも排気ガスをもうもうとたてながら、俺たちの脇を通り抜けていった。
「え、何?あの車?」咳をしながら珍しい車に驚く俺。
「いやよねえ。排気ガスと砂煙で咳き込んじゃう。あのオート三輪!」
俺と恵子とは注目するところが違っていたが、あの妙な車がオート三輪であることを知った。
その名前は聞いたことがあったが、実物を見たのは初めてだった。美知子が住むこの時代では珍しくないらしい。でも、俺の時代には存在しない。
四輪自動車に淘汰された、ということなら、あのオート三輪には致命的な欠点があるのかな?
ほかにもいろいろ珍しい物、見慣れない物があるかもしれないと考えると、時間があるときに近所を回ってみるのもおもしろそうだな、と俺は思った。




