一話 美知子十五歳
目をさましたら、知らない部屋に敷かれた布団の中だった。
目の前は天井。そこに今はもう作られていない白熱電球がぶらさがっている。
布団の中に入ったまま右を向くと、安っぽい壁紙が貼られた壁が見えた。
壁の前に木製の勉強机が二つ並んでいた。その下に木製の椅子がある。
・・・?
今度は左を見た。
隣に敷かれた布団に、小学生くらいの男の子が寝ている。
どこだ、ここは・・・?
昨夜のことがはっきりと思い出せない。目をつむって、もやがかかったような混沌とした頭で、最近の記憶を呼び起こそうとした。
・・・俺は二十代後半の無職の男。・・・いや、無職ではない。ユーチューバーとして一攫千金を目指して、一日中安アパートの下宿の部屋にこもってパソコンで動画作りをしていた。
既に何本も動画をアップロードしている。
しかし閲覧数はまったく伸びず、まだ収入には結びついていない。
世の中にはクソな動画をあげて稼いでいるやつもいるのに、それよりマシな動画を作っている俺がまったく注目されないのはなんでだろう?
出不精で、家の外に出てネタをあさったりしないからなのか?世間の注目を浴びるために、高いビルのてっぺんで危険な行為をしなければダメなのだろうか?
そういえば、夜中に突然スマホから警報音が鳴った。災害の予報で鳴るやつだ。
スマホを取ろうとして・・・、スマホを取ったっけ?・・・そこからが思い出せなかった。
改めて寝ころんだたまま室内を眺める。
けっして上等な部屋ではないが、俺の部屋よりも清潔そうだ。
もう少し状況を知るために、掛け布団をめくって上半身を起こしてみた。
六畳くらいの部屋に勉強机が二つ、小さな衣装ダンスが一つ、そして空いたスペースの畳の上に俺と少年の布団が密着して並べられている。
自分の手を見る。
薄黄色のパジャマの袖から、自分の手のひらが見えた。
パジャマなんて最近着たことがないはずだ。いつもジャージだった。
いや、それよりも、自分の指を見て驚いた。
記憶にある自分の指よりも細い。・・・手のひらも小さい。
思わずその手のひらを自分の頬に当ててみた。
無精髭のないつるつるした顔の皮膚に、手のひらの温かみが浸みてくる。
俺の体じゃないみたいだ・・・。
頭の中はまだもやに包まれていたが、思い切って布団から出て立ち上がった。
横の勉強机の上に手鏡が置いてある。
手鏡を取って自分の顔を見てみると、知らない女の子の顔が映っていた。
???
そのとき、頭の中にもうひとつの記憶がよみがえってきた。
俺・・・いや、鏡に映っているこの子は藤野美知子。昭和二十五年、つまり一九五〇年生まれの女子高生・・・まだ十五歳だ!
そして、現在は昭和四十一年、一九六六年の五月?
俺はなぜか約五十年前の昭和時代の女子高生になっていた!
少し動転してしまった。
パニック状態にならなかったのは、美知子が生まれてから今に至るまでの記憶がちゃんとあって、この世界の状況が理解できたからだろう。頭の中は、男であった俺の意識が支配していたが・・・。
立ったまま足先を見下ろす。
さえぎる物はなく、足の指が見えた。
両手でパジャマの上からそっと自分の胸を触ってみる。
・・・うん、知ってた。Aカップだ。
手鏡に顔を再び映して見る。
肌の色は浅黒く、まぶたは一重、鼻は丸っこく、唇は薄い。
髪の毛は肩までかからない程度の長さ。直毛で、もちろん染めたりなどしていない。
不細工というほどではないが、美人でもない。
俺とこの子の記憶が同居しているってことは、体が入れ替わったという状況ではなく、俺がこの子の体の中に転生したのか?
異世界に転生するというラノベやネット小説はよく読んでいた。アニメ化やコミカライズされた作品も少なくない。
男向けのラノベでは、RPGのような剣と魔法の世界に転生し、チートな能力を授かって活躍するという話が多かった。
でも、今の自分、この美知子に、人並みはずれた能力は何も備わっていない気がする。
女向けのラノベでは、乙女ゲームや少女マンガの世界、特に貴族社会の公爵令嬢などに転生し、前世の知識を生かして世の中を変えていくという話が多かった。
でも、美知子が生きてきたこの時代で、一山当てられるような役に立つ知識を俺は何一つ持ち合わせていない。
俺が男だった頃・・・面倒だから俺の時代と呼ぼう・・・に得意というか、知識があったのはパソコンやスマホの扱いだけ。
この世界には多分どちらもない。
もちろん自分でパソコンやスマホを作る知識も技術もない。
この時代の人と比較して、自分に有利な点はなさそうだった。
夢でなければ、この世界で一人の女性として生きていくしかない。
困惑したままだったが、とりあえず記憶に従って顔を洗うために部屋を出た。
洗面所に向かう途中、台所に朝食の準備をしている美知子の母親がいた。鍋でみそ汁を作っているようだった。
「おはよう、美知子」
「お、おはよう、お母さん」
俺は自分の高い声にどきっとした。やはり俺の男の声とは違う。
とまどいながらも母親の顔を見つめた。母親は顔も体つきも美知子に似ていた。
「どうしたの、人の顔をまじまじと見つめて?」
「う、ううん、何でもない」
「顔を洗ったら、武を起こしてね」
武とは、隣で寝ていた少年、美知子の弟だ。返事をして洗面所に向かう。
タイル張りの流し台に向かい、歯ブラシを手に取る。
歯磨き粉のチューブを探す。・・・ない。
美知子の記憶を頼りに洗面台に置いてある缶を手に取る。缶の上蓋を取ると、中からミントの香りがただよってきた。中には文字通り粉状の歯磨き粉が入っていた。
俺の時代の歯磨き粉はペースト状でチューブに入ったものしかなかったのに、歯磨き「粉」という呼び方が残っていたのは不思議だな。
俺は自分の歯ブラシを缶の中に突っ込んだ。
白い歯磨き粉がついた歯ブラシを口に入れて歯を磨く。
顔を洗うと、俺は美知子の部屋に戻った。
武はまだ大の字になって寝ている。よく日焼けしたわんぱくそうな男の子だ。
俺は自分の布団をたたんで押し入れにしまうと、寝ている武の横に座って武の体を揺さぶった。
「武、朝よ、起きなさい」
意識は男なのに口から出たのは女言葉だった。どう変換されているのだろう?不思議だ。
武は目をこすりながら起き上がった。
「姉ちゃん、おはよう」
武はあくびをしてから立ち上がったが、そのとたん、文句を言い始めた。
「あ〜、また学校か。先週はとびとびに休みがあってよかったけど、今週は休みなしか。」
今日はゴールデンウィーク明けの五月九日月曜日だった。
でも、昭和四十一年のゴールデンウィークは、まだ連続した休みでなかった。
先々週の四月二十九日金曜日は天皇誕生日で祝日。ここでいう天皇はもちろん昭和天皇だ。
翌四月三十日土曜日は午前中に学校の授業がある。週休二日制はまだない。
五月一日日曜日は休み、五月二日月曜日は普通に朝から午後まで授業、五月三日火曜日は憲法記念日で、俺の時代と同じく祝日だ。
しかし、五月四日水曜日は、昭和四十一年当時は祝日でなく学校がある。
五月五日木曜日はこどもの日で休み、五月六日金曜日は普通に登校、五月七日土曜日は半日授業、そして昨日の五月八日日曜日は当然休みだ。
本当に学校が休みの日はとびとびだった。
「休みの間に学校行くと調子狂うんだよな。連続して休みにしてくれたらいいのに!」
武よ、そう思っていた子どもが大人になって五月四日を休日にし、社会人になって有給使って十連休とか取るようになるんだよ。
もっとも俺の場合は、毎日が休みのようで休みでなかったけど。
武が顔を洗いに部屋を出て行った間に、俺はセーラー服に着替えた。
スカートは膝の下十センチくらいまであり、布地は分厚くごわごわしている。
ださい。・・・あか抜けない制服だな。
俺にはセーラー服フェチの素質はなさそうだった。
着替えると台所前のお茶の間に行く。その部屋にはちゃぶ台が置かれ、ワイシャツにネクタイ姿の父親が既に座っていた。
「おはよう、お父さん」
「うむ」
美知子の父親は会社員。高給取りではなさそうだが、家の中では一家の長としての威厳を保っていた。
ちなみに美知子の家は木造一戸建てで、お茶の間兼両親の寝室、子ども部屋、台所の2K。トイレはあるが内風呂はない。狭い庭がついていて、そこに納屋もあった。
ちゃぶ台の横におひつが置いてあったので、俺は家族四人分のご飯を茶碗によそう。
母親は台所でみそ汁をお椀についでいて、まもなくお盆に乗せて持ってきた。
弟の武も制服に着替え、遅れて茶の間にやってきた。
俺は畳の上にあぐらをかいて座ろうとしたが、乙女の座り方ではないと途中で気づいて正座に変えた。父親に気づかれたらうるさいところだった。
しかし、正座だと足がしびれそうだったので、足を片側にずらす、いわゆる女座りにした。
朝食のメニューはご飯、だしの効いていないみそ汁(トウフ入り)、タクアンと白菜の一夜漬けだけだった。
それを急いで口にかっこむ武。ご飯をあわただしくおかわりして、同じようにあっという間に食べ終わると、部屋を出て行った。
「相変わらず落ち着きのないやつだ」と父親が言う。
「武、ハンカチとちり紙持った?・・・そう、行ってらっしゃい」
母親に見送られて家を出る武。俺も食事を終えると、「ごちそうさま」と言って席を立った。
頭に軽くブラシを入れた後、通学カバンと手提げカバン、それに母親が作ってくれていた弁当の包みを持って家を出た。
美知子の記憶では、手提げカバンの中に宿題の自作エプロンが入っていたはずだった。




