第34話 そのときはそのときで
「さてと……」
自分の右腕を春樹はじっと見つめていた。
ぐっと握りしめ、深く呼吸を整える。
皆の前に出れば後戻りはできない。よしと頷いて振り返った春樹は、そこに佇む人物に目を開いた。
「アイリッシュさん」
先ほど試合を終えたばかりのアイリッシュが壁に背を預けながら「やぁ」と小さく手を上げていた。
「お疲れさまです。アイリッシュさんが準優勝したんです。次は俺の番ですね」
笑顔を見せる春樹に目を向けて、アイリッシュはくすりと笑った。どうせそんな調子で観覧していたに違いない。
「相変わらず、料理以外はのんびりとしているなお前は」
砕けた剣の鞘をなぞりつつ、アイリッシュは目を細めた。
「どうだ……いけそうか?」
「そうですね。料理に絶対はありませんから……ただ、全力を出せる場は整えてもらえました」
本当に頭が上がらない領主様だと春樹は扇子の似合う上司を思い出す。彼女がいなければ、自分の異世界生活は今とは違ったものになっていただろう。
ウォーミングアップをするように腕を伸ばしている春樹を眺めながら、アイリッシュは小さく口を開いた。
「その、なんというか……ありがとう」
「なんですかいきなり」
気恥ずかしそうなアイリッシュの呟きに、思わず春樹が微笑んでしまう。
立ち直ったのも今日の結果も、彼女自身の手柄だ。自分は回りくどく、それはもう面倒に背中を押しただけ。
「感謝するのは俺のほうです」
エプロンを縛り、春樹は時間を確認した。そろそろ準備が整うだろう。
アイリッシュを見つめた。なんというか、随分と仲良くなった気がする。
「本当を言うと、俺……二足の草鞋を履くのもいいかと、そう思い始めてたんですよ」
こんな大層な能力を与えられ、次から次へと様々なお膳立てが舞い込んできた。極めつけは、目の前の女性の想いまで乗せられて。
ただ、すべてを受けて突っぱねるには、自分は少々未熟に過ぎていただろう。
続く春樹の言葉に、アイリッシュはただただ目を丸くした。
「隊長の近衛隊で剣も握って、厨房と部隊を行き来して……なんならアイゼルさんの小言でも聞きながら、隊長の夢の続きを追ってもいいと……割と本気で思っちゃいました」
正直、今でも少し思う。それでも十分、自分はこの世界を楽しく生きられるだろう。
武人としての覚悟なんてなくとも生きていけるほどに、自分がもらった力は反則だから。
心の中で謝って、春樹は一度息を吸った。
「アイリッシュさん。ありがとうございました」
その声と笑顔に、アイリッシュは言葉を詰まらせた。なにかを言おうとして、けれど小さく笑って見送る。
「武運をとは言わんぞ。行ってこい」
「はい、行ってきます」
舞台へと向かう背中を見届けて、アイリッシュは思わず息を吐いた。
腕を組み、今更になって苦笑する。
「……こういうのも、失恋というのかな」
疎すぎて、どうやら自分が理解できる日は遠そうだ。剣に生きるさと、近衛隊長は柄を触る。
とりいそぎ、訪ねなければならない二人がいるだろうから。
◆ ◆ ◆
アイリッシュとのやりとりを思い出しながら、春樹はおもむろに口を開いた。
「みなさん、最初にお話しなくてはならないことがあります」
開帳された聖剣にざわつく観衆の音に、静かに割って入る声。
「俺は剣士ではなく、料理人です」
その一言に周囲のざわつきが一瞬止まる。
困惑した観衆が再び口を開きだしたのを見て、春樹は聖剣を握りしめた。
「なぜ料理人である俺が聖剣に選ばれたのか。それはまだ俺にも分かりません」
最初はスキルのおかげかとも思ったが、どうにもそうではないらしい。
無口な相棒は、多くを語ってはくれないのが玉にキズだ。
「だけどせめて、みなさんには俺が俺であることを知ってもらいたいと思います」
その瞬間、舞台にガラガラと車輪の転がる音が響く。
巨大な魚影。いきなり現れたその姿に、ざわついていた観衆も一同に息を飲んだ。
「見栄えはよいが……さてどうするつもりやら」
タマモの声を、傍らに戻ったアイリッシュが笑いながら聞いている。
聖剣の武祭に相応しい一品。それに頭を悩ませているときにふと聞いたこの世の食材。
「せいぜい上手く使ってくりゃれ」
タマモの眼が細まる。
セイントソードフィッシュ。美しく煌めく剣を思わせる鼻と、カジキに劣らぬ巨体と身のふり。
本来ならばマグロ包丁を以て手こずるこの大物を前に、春樹は聖剣の鞘を抜きはなった。
その瞬間、りぃんと鳴り響いた聖剣の音色に、見守っていた観衆の音が止まる。
――この世界で、どう生きるか。
意識が切っ先にまで染み込んでいく。
――料理人として? 剣士として?
食材と自分。浸透した意識は、既に剣を自分の一部と認めている。
――そうじゃない。
料理人として生きるだけなら、造作はない。剣士として生きるのにも十分すぎる力を、自分はもらった。
――そうじゃない。
二つを共にこなすことだって、誰かと共にならば大丈夫だろう。
――そうじゃないだろ。
料理人として、どう生きるか。
春樹の振るった一閃が、聖剣の魚を切り裂いた。
――結局、甘えてたんだよッ!
そりゃそうだ。だって異世界だ。生きていくだけでも大変で、料理できるだけでも幸せで。
――ちげぇだろ!? 異世界だぞ!?
見て見ろよと、春樹は煌めく剣の鼻を笑顔で見つめる。
わくわくする。当たり前だ。こんな食材、あるわけがない。
――安全な城で料理作って、「すごいね」って褒められて、それでいいわけねぇだろうが!
あげく剣士だ。自惚れるのもいい加減にしろと、春樹は聖剣を勢いよく振るう。
異世界だ。自分が最初に見た奴を思い出せ。あのとき、自分はなんて言ったか。
――よく見りゃ美味そうな面してんなって、そう思ったんじゃねぇのかよッ!
春樹は包丁の傍らで火口の炎を吹かし上げた。
ただ、今はまだ違う。この場を整えてくれたのはタマモだ。道を示してくれたのはアイリッシュだ。他にもたくさん、いろんな人に助けられた。
だから見せつける。込めるのは感謝。この世界から受け取ったすべてを、皿の上で見せつける。
見せつける。なにを? 決まっている、地球をだ。
――ほんとはさ、怖かったんだよッ!
あんな怪物のいる世界で……スキルなんか貰っても、自分はただの料理人だ。確保すべきは衣食住。今でも正しかったって思ってる。
猫耳のシルエットが、振り返って笑った。
――リンさん、可愛いもんなッ!
どさくさに紛れて叫んでみる。用意するのは胡椒とバター。それに加えたビールをひとくち、味を確かめてニヤリと笑う。
本当は、あの猫耳少女とのんびりと生きていく。そんな異世界生活もありだなと、何度思ったか分からない。
黒ビールのレディクション。エシャロットにハーブに黒こしょう、本来ならば白ワイン酢で纏めるものを、足で探したビールで煮詰める。
――込めるさ。それが俺の仕事だ。
鮮やかに刃を入れる。切れ味はスキルだろうとも、口当たりを決めるのは自分自身。身の繊維の弾力が、切っ先を通して伝わってくる。
マグロのようでも、その身は白身。どこまでも上質なスズキを思わせる、この世界の幻想食材。
それを厚切り。ゆっくりとゆっくりと、丁寧に火を入れる。
感謝を込めて。今までの彼女たちへ恥じないように。
「よし」
小さく呟き、盛りつけが終わるまで、一同はただただ唖然と一人の料理人の挙動を見守っていた。
◆ ◆ ◆
「黒こしょうバターでゆっくりと火を入れたソードフィッシュの厚切り。黒ビールのディレクション、クリームを添えて」
出された一品に、誰もが息を飲んだ。
その中には、困惑の色も少しあったかもしれない。
「……ふふ」
最初に微笑んだのはカグヤだった。目の前の皿を見つめ、思わず出てきた笑みに任せる。
白く大きな皿の真ん中に、これまた白い魚の身。けれどそれが、見るも美しい金色の液体に沈んでいる。
「面白い名前ですね。ゆっくりと火を入れるのが、そんなにも大切ですか?」
「ええ、とても」
にっこりと笑う春樹に、カグヤも「そうですか」と微笑んだ。
「自信のほどは?」
「勿論。これが……今の俺の『スペシャリテ』です」
魚の身の下に敷かれた塩のサブレ。そして胡椒とアニスの風味甘く香るレデクション。それに合わせたカボチャのクリーム。
けれど、それらは多くを語る必要はない。
「では、ひとくち……」
口に運べばわかることがある。それが料理の、いいところだと春樹は優しく微笑んだ。
◆ ◆ ◆
「大成功でしたね」
「ふん、大盤振る舞いしたからの。……あれを喰っては、みなも認めるほかあるまいて」
どこか不機嫌そうに、タマモは尾を揺らしながら眉をしかめた。
「確かに。わたしたちからしても、あれはかなり美味しかったですね」
「かなり?」
ぴくりとタマモの耳が動く。あの品は、間違いなく春樹の渾身の一皿だった。その完成度は、あのときの野菜炒めを凌いでいただろう。
あれに断トツの評価を下すタマモの舌は正しいのだが、あいにく人には好みというものが存在する。
「わたしは忘れられぬ一品がありますので。そうですね、わたしはもう少しガツンとくるのが好みです」
「なんじゃそれは」
タマモに呆れたように見つめられ、アイリッシュはくすりと笑った。
いつもの城、いつもの広間。ただ、足りないものがある気がする。
「……半年ほどのはずなんですけどね」
「なんじゃ、寂しいか?」
タマモのにやけ顔に、アイリッシュは素直に頷いた。それを見て、タマモは目を丸くする。
まぁよいと、タマモは快晴の空を窓から見つめた。
「腹が減ったな」
「元気な証拠です」
近衛隊長の声を聞きながら、妖狐の領主は愉快そうに笑うのだった。
◆ ◆ ◆
「いいかお前ら! 一人抜けただけで気まで抜くんじゃないぞ!」
城の厨房で、凛とした声が響きわたる。
セリアは、忙しい昼前の厨房で一人指揮を取っていた。仕込みから下拵え、一人にしては大きな抜けだと笑ってしまいながら。
「総料理長、タマモさまが」
「どうした?」
そんなとき、部下の一人がセリアのところに駆け寄ってきた。複雑そうな表情から、面倒ごとであることは明白だ。
「それが……美味くて調子が上がるものを出せと」
部下の声にセリアが止まる。不安そうに見つめながら、部下の青年は視線を逸らした。
「あの、やっぱり」
「いいや、大丈夫だ。わたしに任せろ」
青年の背中を叩き、セリアは持ち場に戻るように指示を出す。
相変わらず無茶なお人だと思いながら、けれどその容赦のなさにセリアは微笑んだ。
彼と一番一緒にいたのは自分だろう。学ぶことは学べたし、素質で負けているとも思っていない。
「よし、やるか!」
腕をまくって、セリアは厨房へと踏み出した。試したいことなど、数えるのも面倒なほどに積まれている。
◆ ◆ ◆
気持ちのいい風だった。
「いい天気だなぁ」
快晴だが、空の流れを感じられる。そろそろ領地から出るための関所だろう。
思えば、ここを一人で超えるのは初めてだ。
「……こんなもんでよかったのかな?」
身支度を確認する。貯めてた給与に、腰には聖剣。後はタマモがくれた身分証明書。食料なんておにぎり二つだけだ。
「やべぇな。どきどきする」
聖剣の柄をちょんと触り、気合いをよしと入れ直す。
蛇だろうが虎だろうがなんでもこいだ。そのときは、捌いて食べればいいだけのこと。
「これ渡せば通れるんだよな?」
関所を渡る札を握りしめ、春樹は覚悟を決めて足を上げた。
そのときだ。
「は、ハルキさーん!」
聞き慣れた声に、春樹は驚いて振り返った。
そこには、必死で駆けてくる猫耳のシルエット。
「リンさん!? どうしたんですか!? それにその荷物……」
彼女の背中には、大きく膨らんだ風呂敷が抱えられていた。息を切らしながら、リンは怒ったように声を上げる。
「どうしたもこうしたもないですよ! なんで置いていくんですか!?」
しっぽを振り回すリンに、春樹は面食らった。
なんでもなにも、連れて行くわけにはいかない。
「用意できたと思ったら先に出たって聞いて……ひどいですよ!」
「え? いや……だって、リンさんお城で働くのが夢だったんですよね?」
不思議そうな春樹の声に、きょとんとリンは首を傾げる。
「そうですけど、でもハルキさんと一緒なほうが大事ですから」
にっこりと微笑むリンに、春樹はまん丸と目を見開いた。
「夢とか、別にテキトーでいいんですって」
「は、はぁ」
なんというか、これまでの流れを全否定だ。
ただ、それもそうかと春樹は笑う。
「それより、春樹さんこそお城のお仕事辞めてよかったんです?」
「あ、俺は辞めてませんよ。有給もらっただけです。タマモさんに相談したら『よくわからんが、じゃあ一年くらいで』って言われたんで」
春樹の声に、「えっ?」とリンが顔を青くする。
「な、なんですかそのユーキューってのは。私普通に辞表出してきちゃったんですけど……」
「そ、そうなんですね。まぁ、俺もいろいろと頼まれちゃいましたけど」
タマモからのお使いは懐に大事にしたためて仕舞っている。なにせ一年の長期休暇だ。お土産は豪華でなくては許されないだろう。
「ま、いっか。なにかあったら、そのときはそのときで」
「相変わらず強いですねリンさん」
のほほんと歩くリンに春樹は笑う。のしのしと踏みしめているが、荷物も相当な重さだろう。
この世界は強い女性ばかりだと、春樹は自分の小さな荷物に苦笑した。
「おにぎり食べます?」
「え、いいんですか!? やったですー!」
出てきた握り飯に、リンが両手を上げて声を出した。
いいかげん、そろそろ関所だ。二人で超えることになってしまったが、それは些細なことなのだろう。
目指すのも、諦めるのも、一度立ち止まって考えてみるのも、きっとどれも正解だ。
ひとつじゃないといけないなんてことも、長い人生ありはしない。
「これからどうするんです?」
「そうですねぇ」
よいしょっと関所を抜けた先、なだらかに続く道を眺めながら春樹は微笑んだ。
横には猫耳の少女。自分にとってはこの上ない。
「リンさん……ドラゴンって、食べたことありますか?」
驚く傍らの少女の声を聞きながら、異世界から来た青年は楽しそうに笑うのだった。




