第03話 野菜炒めに謝れ
歓喜に身体が震えていた。
手元に掴んだニンジン。それを見下ろしているだけで、春樹はわき上がる笑みを押さえられなかった。
――すげぇ。
頭の中には、ニンジンの全てが白日の下に晒されていた。
繊維の一本一本、どこをどう切り開けばいいかが見えてくる。
瑞々しいよい個体だ。根だけではなく上部の葉もしっかりと水分が通っている。
まな板に置き、春樹の右腕がすっと動いた。
その瞬間、文字通り瞬きをする間もない時間で、ニンジンが九つの一口大にカットされる。
横で見ている者がいればなにが起こったのか分からなかっただろう。ニンジンが勝手に分解したようにしか見えなかったはずだ。
――すげぇ、すげぇ……これが【剣聖】のスキル。
春樹は切られたニンジンの断面を見つめ悦に浸った。
細胞のなにひとつ潰していない。ニンジンに意識があるなら、自分が切られたことにすら気がついていないだろう。
ドラゴンを討伐して早一週間。心配していた衣食住は驚くほど簡単になんとかなった。
街の組合の人々は悩みの種であった暴れ竜を退治してくれた春樹を歓迎してくれ、春樹の「仕事と寝床が欲しい」という願いを次の日には叶えてくれた。
それがここ、リンが営む大衆食堂「ねこのひげ」だ。
至って普通の庶民の店だが、できれば飲食がよいという希望を通してくれた組合の人たちに春樹は感謝していた。
それからは毎日、こうして仕込みの野菜や肉を切る日々だ。
「ハルキさん、お野菜がなくなっちゃったんですけど」
振り返るとリンが笑顔で話しかけて来ていた。後ろでふりふりと揺れるネコの尻尾にちらりと目を向けてしまったのを隠すように、春樹はにこりと笑ってみせる。
「出来てますよ。はい」
「にゃわぁ! もうこんなに!? ありがとうございます!」
盛りかごをリンに手渡し、その反応に春樹も気持ちよくなった。
野菜を切っただけでこんなに感謝されるなんて、何年ぶりだろうか。先輩たちの顔を思い出し、春樹はくすりと笑った。
「ふふふーん。最近は野菜炒めがよく出ますねぇ」
上機嫌で尻尾を振りながら厨房に戻っていくリンを見送って、春樹は客席に目を向けた。
角、尻尾、鱗……そこには、とても人間とは思えない人々が自分の切った野菜に舌鼓を打っていた。
この店が特別なのではない。街中、人間の姿などはどこにもなかった。
――まだちょっと慣れないな。
最初は面食らったが、今はあまり気にしていない。言葉はなぜか通じるし、言葉が分かれば意思の疎通はできる。それができれば、悪い人たちでないことは瞭然だった。
「よっ! ほっ!」
竈の前でフライパンを振るうリンを見やる。残念ながら料理の腕前はそこまで上等ではないようだ。
それでも下手なわけでもない。至って普通の、家庭の味が楽しめる食堂だ。
自分が全部やれば更に美味しくはなるのだろうが、春樹の興味は包丁のことでいっぱいだった。
肉も野菜も、思い通りに切ることができる。操られている感じは全くしない。
今まで磨いてきた包丁の技術。それが何百倍と高められたかのようだ。
――面白いな。いつまでも仕込みだけでいい気分だ。
春樹とてなんとなく分かる。この【剣聖】というスキルは、本来このように振るうものではない。
この間のドラゴンのように、はたまた魔王相手に勇者が持つ、そんなスキルなのだろう。
――知ったことか。
包丁を握りしめた。魔王退治も世界の救済も、ごめん被る。
――俺は料理人だ。勇者じゃねぇ。
このスキルがあれば、料理人としてどこまでも高みに昇れそうだ。
勿論、万能なわけではない。どれだけご大層な能力だろうが、効果範囲は刃物まで。鍋の茹で上がりも竈の火加減も、このスキルはなにも教えてはくれない。
――それがいい。
能力に使われるなんて虫酸が走る。自分が培った調理の知識と技術は、勇者にも剣聖にも劣るものではない。
このスキルを利用して、理想の料理人まで駆け上る。
それが、知りもしない世界へと突然飛ばされた春樹の結論だった。
それに、春樹には夢がある。日本にいた頃からの夢だ。
なんの支えもない異世界で持つには困難なように思えたが、春樹は今一度ここでの目標を確認した。
――自分の店が持ちたい。
よい響きだ。憧れる。
ちらりとリンを春樹は眺めた。リンはこの店を父から受け継いだらしいが、春樹には当然ながら身寄りがない。
店を持つというのは難しいものだ。ただ料理の腕がよければそれでいいわけではない。
資金を貯め、土地を買い、店自体も建てないといけない。それなりに大きい店にしたいなら、人も雇わねばならないだろう。
――やってやる。
さっきはああ言ったが、春樹もここでずっと野菜を切り続ける気など毛頭ない。行く行くはどこかで料理の腕を振るわないといけないのだ。
「おいおいこの店は客にこんなまずい飯を出すのかぁ!?」
仕込みに戻ろうかと春樹が包丁を構えた瞬間、食堂に男の声が響きわたった。
なんだと思い振り返れば、防具を身にまとった男がリンに向かって皿を突きつけている。
「す、すみません。美味しくなかったですかね?」
「当たり前だろう! このアイゼル様にこんな貧相な料理出しやがって!」
アイゼルという男はそのまま皿を裏返す。ボトリと地面に落ちた野菜炒めをリンが悲痛そうな目で見つめた。
「なんだあいつ、リンちゃんに向かって!」
「馬鹿やめとけ。領主様の上級近衛兵だ。逆らったらなにされるか分かんねぇぞ」
常連の一人が立ち上がろうとしたが、もう一人が慌てて制す。それを聞き、アイゼルは気分良さそうに店の中を見回した。
自分の袖につけられた腕章を見せつけながら、アイゼルは客たちに口を開く。
「そうそう。こっちは自衛権を認められてる上級兵さまだぞ。妙なことをしたら牢屋にぶち込むからな」
髭を指で撫でると、アイゼルは青ざめているリンに顔を向けた。
下卑た視線を向けられてリンの身体が竦む。
「おっ、なんだ。よく見りゃ可愛い顔してんじゃねぇか。おい小娘、この店に……」
アイゼルの手がリンへと伸びる。胸に向かい伸ばされた指に、リンがぎゅっと目を瞑った瞬間――
「リンさんと野菜炒めに謝れ」
春樹はアイゼルの腕を掴んでいた。