第02話 ドラゴンがまな板の上の鯉に見えた
これはなんだと下を見つめた。
そこには真っ赤に血で染まった自分の手のひらが映っていて、春樹はどこか現実味のない頭で顔を上げた。
「いや、おかしいだろ」
ドラゴンと目があった。瞳も巨大な竜の眼差しは、けれども生者のものではない。
血の匂いが鼻を突いてきた。痛みはない。身体は返り血で染まっているが、断じてこれは自分のものではない。
なら誰の血か。決まっている。目の前で事切れている竜のものだ。
愛用の包丁が艶めかしく赤色に輝いていた。俺だぜ相棒というように、今回の下手人が存在を主張してくる。
「はは、なんだよこれ。どうなってんだよ」
覚えている。竜の喉を切り裂く感触も、勝手に動いた身体の感覚も。
手に取るように分かった。振りかざされた爪も牙も、止まっているようなものだった。
包丁を握り、覚悟を決めた瞬間だ。なにもかもが止まり、ドラゴンがまな板の上の鯉に見えた。
それから先は簡単だった。鯉がどれだけ暴れようと、面倒だがこちらが死ぬなんてあるわけない。
弱点、逆鱗とでもいうのだろうか。それもなぜか一目で分かった。
どこを切ればいいか。どう動けばいいか。なにもかもが熟練の職人のようだった。
「どうなっちまったんだ、俺」
春樹は身を震わした。歓喜などではない、恐怖からだ。
そのとき、ふと白い少女の言っていた言葉が思い出された。
『ほう!【剣聖】のスキルか! 当たりの方じゃな。せいぜい上手く使うといい』
心当たりといえばあれしかない。
「うわぁ! ど、どうなってんだこりゃああッ!!」
呆然と立ち尽くしていた春樹の耳に、人の声が舞い込んだ。
声のする方へ顔を向けると、そこには十数人の男たちが驚いた顔で春樹の姿を凝視していた。
「ドラゴンが……お、お前さんがやったのか?」
警戒するように、男たちは各々が持つ槍だの剣だのを春樹に向けた。
けれど、血の海で佇む春樹に男たちの腰は引いていて。春樹はかけられた言葉を受けて、右手に持った包丁を改めて見つめた。
信じられないが、状況と記憶から考えて自分しかいない。
「そうだと、思います。襲われたので」
「お、襲われたってあんた……」
男たちは春樹に警戒しながらも、囲みながらドラゴンの方へと近づいた。
恐る恐る倒れている竜の鱗を突っつくが、息耐えたドラゴンはぴくりとも動かない。
「ばっさり、喉の逆鱗をやられてる。一撃だ。すげぇ、こんなの見たことねぇ」
「ちょっと待て……あんた、まさかその包丁でやったって言うんじゃねぇだろうな」
男たちは春樹の右手の獲物に息を飲んだ。刀身は見事なものに見えるが、所詮は包丁だ。ドラゴン退治にはあり得ない刃渡りを握りしめる春樹を、男たちは得体の知れない者として見つめた。
「とにかく、偶然でもなんでも生きててよかった。これでようやく被害も止まるってなもんだ」
「あんた、見ない顔だけど旅人かい? 感謝するよ、このドラゴンに何人食われたことか」
春樹に敵意がなさそうなことに安心したのか、男たちは春樹に向かって笑顔を見せる。
背中を叩かれながら、春樹は未だ感じられぬ現実感の中で、先ほどの感触をただただじっと思い出していた。
◆ ◆ ◆
「おまちどうさまー! 日替わりの定食でーす!」
元気のよい声が食堂に響きわたった。目の前に出された皿に、客の男が待ってましたと手を叩く。
置かれた皿の上には、実に普通の野菜炒めがこんもりと盛られていた。カットされた肉に数種の野菜。味付けも、庶民的な普通の味だ。
「うーん。やっぱり美味くなってるぜ。リンちゃん、腕を上げたな?」
「にゃはは、そんなことないですよ。いつも通りです」
耳をぴこぴこと動かしながら、少女が照れたように笑みを浮かべた。
けれど、それに男は不思議そうに首を傾げる。
お世辞ではない、確かに美味くなっているのだ。食堂の看板娘が作る野菜炒め。カウンターから見ていたが、彼女の言うように今までと特に変わったところはない。
「切った野菜とお肉、フライパンで炒めるだけですよ。変わらないですって」
「そうだよな。……でもなぁ」
男はそれでも眉を寄せて定食を噛みしめた。美味い。味にそこまで変化はないが、確実に以前のものよりも数段美味い。
舌触りというか歯ごたえというか。どういうことだろうと男は皿の上のニンジンを見つめる。
「あ、でも。新しい仕込みの人を雇いましたから、それで美味しくなったのかも」
「仕込み?」
リンと呼ばれた少女の言葉に男は顔を上げた。頷く少女の視線の先に自分も振り向き、そこに立っている青年を見やる。
黒髪の大人しそうな青年だ。特徴のない出で立ちをしていて、逆に男は目を細めた。
「妙な奴だね。角も尻尾も鱗もない。耳も尖ってないからエルフじゃないし……なんの種族の人だい?」
「それが、私もよく分かんなくて。でも真面目だしいい人ですよ」
男はふーんと青年に目を向ける。黙々と野菜を切っている青年は確かに真面目そうだ。
「なんでも、ドラゴンを退治したとかで。宿がないみたいなんで、組合から連絡きまして。うちに住み込みで働いてるんですよ」
「え!? じゃあ、例の『竜殺し』って彼なのかい!?」
言って、男は慌てて口を押さえた。
街を脅かしていた森の主。そいつがどこかの旅人に退治されたというのはもっぱら街中の噂だが、まさか竜殺しが場末の食堂で野菜を切っているとは思えない。
「……ほんとに彼なの? そんな強そうな奴には見えないけど」
「そこらへんは私もよく。ただ、野菜切るのはめっちゃ上手ですね」
ひそひそと話しながら、二人は件の青年を見つめた。
なにやら右手に持ったニンジンをじっと見つめていて、一向に動く気配はない。けれど、サボっているわけではないことは背中から伝わって来ていて。二人は首を傾げながら顔を見合わせた。
「切るの上手かったら野菜炒めって美味しくなるの?」
「いや、どうなんでしょう。そんなに変わらないんじゃないですか?」
そうこうしている内に別の客からのオーダーが入ったので、リンは竈へと戻っていった。
男も「ま、そうだよな」と野菜炒めを再び口に運び出す。
確かに美味くなった味は、きっと野菜の質がよかったのだろうと納得した。