第01話 よく見りゃ美味そうな面してんじゃねーか
「これ洗っておけよッ!」
厨房に響く声を無心で聞いていた。
本来であるならば声の主も含め、分担で任されたはずの仕事。それを一人で片づけることに、もはやなんの抵抗もない。
――腹、減ったな。
新堂春樹は客が食べた跡が残る皿を洗いながら、鳴り始めた腹の音を無視した。
皿を丁寧に一枚ずつ並べて、春樹は一人厨房の中で黙々と作業を続けた。
感慨はなかった。
夢に満ちあふれて就職した一流と呼ばれる厨房だったが、現実はこんなものだ。
いくら優秀な人材を集めた場所といえど、そいつらの人格までが上等だとも限らない。
チーフに気に入られ、若くして包丁を任された新人には諸先輩たちからのありがたい可愛がりもあるということだ。
――なんか、思っていたのと違う気がする。
自分が若かったということなのだろうか。厳しくも優しい先輩、お客さんの笑顔、上達していく自分。そんなものを夢見たのがいけなかったのだろうか。
料理は好きだ。目をかけてくれているチーフにも感謝している。
しかしそれとは別に、抜け殻のような日々を春樹はただ黙々と過ごしていた。
◆ ◆ ◆
気づいたときには、春樹は白く広がる空間に立っていた。
「……は?」
思わず口も開く。きょろきょろと辺りを見回して、その異様な光景に春樹は目を見開いた。
なにもない。ただどこまでも続く白い空間だけがそこにあった。
立ってはいるが境界線のない世界。どこが地面か頭がおかしくなりそうになりながら、春樹は目の前の人物に目を向けた。
この空間の中で唯一現実的なものとして存在する、大きなテーブル。
学校の校長室にあったような、あのテーブルだ。そこに、一人の少女が座っていた。
『お、久しぶりじゃな。なになに……ほう、料理人か』
少女はなにやら手元の資料をめくると、愉しそうに笑みを浮かべた。
白い少女だった。髪も、肌も、服まで全部白い。
アルビノという奴だろうかと思ったが、少女の瞳は赤ではなく美しすぎるほどの金色に輝いていた。
『ん? なんじゃ、覚えてないのか』
「覚えて?」
少女に言われ思い出す。そういえば確か、自分は夜の街を歩いていたはずだ。
先輩に押しつけられた仕事を片づけたのが零時前。今日もコンビニ飯かと苦笑しながら帰路を歩いていたのを覚えている。
そして自分は――
「あっ」
心臓がどくんと跳ね上がった。
近づいてくる車。信号は赤。急に降り始めた雨に自分も少し気を取られていて――
そこでようやく、商売道具の包丁ケースを左手に握ったままだと気がついた。死んでも手放さなかったということだろうか。
『まぁよい。ほれ、一本引け。サービスじゃ』
いつの間にか少女がテーブルごと目の前に移動していた。
いや、少女が来たのか自分が行ったのか。それすら春樹には分からない。
差し出された筒には何本もの木の棒が差し込まれていて、春樹は言われるがままにその中の一本を手に取った。
『ほう! 【剣聖】のスキルか! はは、当たりの方じゃな。せいぜい上手く使うといい』
愉快そうに笑う少女の声を訳が分からぬまま聞きながら、そこで春樹の意識は消失した。
◆ ◆ ◆
逃げていた。
息を切らし、説明もないままにただひたすらに走っていた。
「なんなんだよ! なんなんだよこれ!?」
視界に入る景色は森。見たこともない来た覚えもない木々の中を、春樹は全力で駆け抜ける。
それもそのはずで、歩みを止めれば死ぬからだ。
「なんで!? あんな……ッ!」
躓いた。しまったと思ったときにはもう遅い。春樹の身体が前方に勢いよく飛び出し、数回ほど地面を転がったところでようやく止まった。
その間に、追っ手が悠々と春樹の元に近寄ってくる。
本気で狩ればすぐであろうに。まるで遊ぶように追いかけてきたのは、手頃な獲物の体力を減らすためだろうか。
鱗が付いていた。大きな牙も、尻尾も。
見上げるほどの巨体。地面に落ちた影だけで春樹の身体が埋まっている。
「……なんでッ!?」
ドラゴン。それは空想上の生き物ではなかったのか。
尻餅をつきながら春樹は後ずさった。身体は震え、歯は恐怖で音を立てている。
地面を揺らしながら、影が春樹の方へと近づいた。
遊びは終わりだと言うかのように、竜は牙を光らせる。蒸気に似た息が口から漏れ出て、春樹は自分の死を悟った。
「ふざ、ふざけんなッ」
ただ、それでも春樹が抵抗できたのは死への恐怖からなどではなく、偶然視界に映った仕事道具のおかげだった。
こんな状況でも放さず持って走ったというのか。我ながら呆れると、春樹は衝撃で開いたケースを見て笑う。
まるで使えというように、愛用の一本が手元のすぐそばに転がっていた。
――死んだな、俺。
考えなくても分かる。たかが包丁一本、貧弱な人間が持ってどうだというのだ。
けれど、それでも強く利き腕で握りしめ、春樹はドラゴンに向かって包丁の切っ先を向けた。
ドラゴン――捌いたことなど勿論ない。
「はは……よ、よく見りゃ美味そうな面してんじゃねーか」
精一杯の虚勢を張りながら、春樹はガタガタと震える右腕を左手で必死に押さえた。涙が溢れ、どうしてこうなったんだと春樹は退屈な日常を思い出す。
その瞬間、けたたましい雄叫びが森に響きわたり、春樹は今度こそ自分の死を覚悟した。
◆
数分後、血溜まりの海の中で呆然と立ち尽くしながら、春樹は自分の手のひらを黙ってひたすらに見つめ続けた。