気付き1
深く眠るどこの国から来たとも知れない異邦人を見て、思わず溜息が漏れる。
健康そうな小麦色の肌に反して、背中には夥しい傷跡、肋骨の浮き出た薄っぺらい胴体、骨張った四肢、身長に見合わない軽い体重。
まともな環境で育ったとは到底思えない。純粋に可哀想だとも思う。
しかし早川が何処へ行ったのかなんて到底理解も説明も出来なさそうな奴である。一気に解決どころか、一気に行き詰ってしまった。
(警察に届けてみるか)
(でもこいつのことをどう説明したらいいんだ、納得して貰えるのか、俺まで怪しまれないか)
(こいつの身柄を渡したら楽になるんじゃないか)
(でも早川への唯一の手がかりを手放して他人任せにして待つだけなんて出来ない)
俺は自分の心の安寧のためにもひとつの仮説を立てることにした。
この異邦人と早川は入れ替わったと仮定する。入れ替わったのなら、この異邦人が今まで居た場所に早川は今居るはずである、と。
こいつの元居た場所の情報を聞き、すぐに迎えにいけないまでも、せめてどんな場所へ飛ばされたのか、どんな環境にいるのかを知り、安心材料にしたいと考えたのだ。
(こいつの身なりや傷を見る限り全く安心は出来ないんだが...)
不安は拭えないが、何よりまずこいつと意思疎通を図る為に動かなければならない。
言語も常識も違う相手とのコミュニケーションほど難しいものはない。
向こうの言語が分からない以上、相手にこちらの言語を覚えて話してもらうしかない。
相手は3歳児だ。そう思い込み、言葉も常識も教え込んでいこう。
早川のことは心配だが、あいつは意外と図太いし、警戒心も強い。外国でも上手くやっていけるだろう。楽観的だがそう思うことにする。
(こっちはこっちでお前のこと探すから、お前も何とか帰ってこいよ!)
祈るような気持ちで決意を新たにする。
翌朝、俺の安定の寝床になっている床から起き上がる。いい加減ベッドを占領されたままなのもどうにかしたい。早川の部屋から布団借りてくるか。寝ぼけた頭で考えていたらベッドの上で動く気配。
ふとベッドの方へ視線をやった瞬間転げ落ちる影。
「お前土下座好きだよな」
呆れながら床に這い蹲るそいつをひっぺがしベッドへ戻す。
いちいち怯えられるのは気分が良いものではないが、言葉も常識も通じない状況でこいつも混乱しているのだろう。それにこいつからしたら日本は完全アウェイだ。
(何が原因かは知らないが、虐げられる側、っぽいしな)
「熱はどうだ」
額に貼っていた冷却シートを剥がす。体温計を脇に差し込む。
「おい、動くなじっとしてろって」
どうしても奴は土下座をしたいらしい。無理矢理起こして体温計が落ちないように腕を外側から抑え付ける。
(こいつは3歳児、こいつは3歳児)
怯える緑色の目が俺の腕や顔やらをいったりきたりと忙しない。
「37度、もう少しだな。もうお前はシャワー禁止だから」
朝飯を何にしようか考える。
(あいつもお粥ばっかで飽きるかな、うどん食えるかな、箸使えない可能性高いよなぁ、俺はうどん食いてぇ...あいつは卵粥にしよ)
何においても先立つものは食べ物である。腹が減っていては回る頭も回らない。
そう決まれば朝食の準備に取り掛かる。
よくある学生向けのワンルームマンションなんて、廊下にシンクを無理矢理くっつけたような狭いキッチンしかない。そんな狭いキッチンには一通りの調理道具が揃っている。小さい冷蔵庫には一週間食い繋げる分の食料が詰まっている。外食が多くなりがちな学生の中でも、俺は珍しく自炊する方だった。勿論節約の為で、大層な料理が出来るわけでもないが。
ワンルームと通路を区切るドアは開けっ放しになっている。
狭いキッチンに驚いているのか、調理する俺の姿に驚いているのか、ベッドから俺を見つめる緑の瞳は見開かれていた。目が合ったらすぐ逸らされたが。
「できたぞー」
通じないと分かっていても声を掛けてしまう。
テーブルの上にお椀を並べる。知らない内に早川の食器が俺の部屋に移動していたので有難く使わせてもらった。早川、お前の為でもある。文句は言うなよ。
「はい、ご飯ですよー」
引っ張って座布団の上に座らせる。
右手でスプーンを持たせる。
「はい食べてー、はい、水飲んでー」
(相手は3歳児、3歳児)
呪文のように頭で唱えながら、図体170センチの虚弱男児の世話をする俺まじ保育士さん。
こいつは食欲はあるようで最初の一口を口に突っ込んでやれば、あとは自分で黙々と食べ始めた。スプーンを使い慣れていないのか、時折もどかしそうにお椀に口を直接つけてかき込むようにして食べている。
向かいでうどんを啜りながら様子を観察するに、卵粥は気に入って貰えたようである。
そして何より好物らしいのが、水。ただの、水。
百均で買ったグラスを大事そうに両手で持ちながら、中に入っている水をちびちびと飲んでいる。
(おいそれは日本酒の飲み方だ)
俺がうどんを食べ切らない内に、奴はすっかりお椀もグラスも空にしてしまった。心なしか満足気な表情をしているようにも見える。
相手の心を開く為に胃袋から攻めるというのは、何も恋愛の駆け引きにおいてのみ使われる手段ではない。
胃も心も温まり、心身ともに余裕がある状態になることで、相手のことを受け入れやすくなるのだ。
「美味かったか?」
食器を下げようと側に寄ると、途端に飛び上がって、距離を取られて、土下座。
(早川、ごめん、こっちはちょっと、難しいかもしれない...)
窓から吹き込む初夏の風を受けながら、遠い地で苦労しているであろう親友へエールを送った。