入れ替わり S2
翌朝、兵士が檻の鍵を開けに来た。
腰に結ばれた縄を引っ張られて歩く。
(昨日食べた飯が最後の飯になったな)
何度自分に言い聞かせて諦めたつもりでも、底知れぬ不安は冷たい床から足の裏を伝って這い上がってくる。足が震えて縺れそうだ。
たたらを踏む度に焦れた様に縄を強く引かれる。ふらつくと舌打ちをされる。出来の悪い家畜の気分だ。前までは家畜の世話をしていたというのに笑えない。
薄暗かった通路から、明るい広間へと出た。
ここまでの間で階段を上った覚えはないから、きっとここも地下なのだろう。明るいのは各所に明かりが灯されているからだ。中でも一際明るく照らされた、正方形の寝台くらいの大きさの台座が中央に置いてある。
「あそこに上がれ」
その台座の上を指し示され、腰の紐を解かれた。俺が逃げだされないようにか、少し離れた距離に抜刀した兵士が四方を取り囲んでいるのが見える。
床を踏みしめている感触もあやふやで、なんとか広間中央の台座まで来た。
近付くにつれ、台座周辺が薄汚れているのが分かる。拭き取った様子はあるが、これはきっと血の跡だろう。俺より前に連れて来られた奴らの跡、なのだろう。
震える手で台座に手を掛けてよじ登る。台座の上に座り込む。腰が抜けて立てそうになかった。
俺はここで死ぬ、殺される。そう確信した。
この台座周りが明る過ぎるせいで、周囲の様子が分からない。
耳を澄ますと、複数の人間の声が唸っているような声が聞こえる。次第にその音には抑揚がつき、重なり合い、ついには一人の人間の歌声のようになった。
すると台座の周りが薄紫色に発光し始めた。異様な雰囲気に息を飲む。
光は次第に強くなり、目も開けていられなくなる。
歌声は止み、代わりにどよめきと歓声が湧き起こる。
瞼を突き抜けて光が差し込んでくるようで思わず顔を手で覆った。
真っ白な視界が明滅し、うねり、平衡感覚も覚束なくなる。揺れの酷い馬車に乗った時の様な気持ち悪さを感じる。耳鳴りが止まない。頭中を金槌で叩かれているような痛みが響く。
(...このまま死ぬんだな)
そう思った。
ふわっと体が宙に浮いたような気がした。台座から落ちたのだと思った。しかし衝撃はない。
周囲の様子が変わっていることなど全く気付かず、ただただ気持ち悪さと闘っていた。
どうしてもせり上がってくる吐き気には抗えず、胃の中身をぶちまけてしまう。
(...最後の飯だったのになぁ、...もったいないことしたなぁ)
吐いたら存外楽になり、そのまま意識が薄れていくのに身を任せた。
体中が熱かった。
俺は死んで、今その死体を燃やされているのかな、なんてぼんやりと思った。
それにしては皮膚が焼ける痛みを感じない。
荒野に放り出されてじりじりと日に照らされているのだろうか。
しかし背中に当たる感触は地面のように固くもなければ砂っぽさもない。
吐く程の気持ち悪さは消えて、頭痛も軽くなっている。
(なんだ、死ぬってもっと痛くて苦しいものだと思っていた)
体が重く、下に下にと沈んでいくようだ。意識も同じように沈めていく。
どのくらい気を失っていたのか、下した瞼の向こう側に光を感じ、意識を浮上させた。
自分が生きていることに、驚き、そして落胆した。
起き上がろうとして、自分の下に敷かれている真っ白なシーツに体が強張る。
とんでもない所で自分は倒れてしまったのではないかと胃が締め付けられる思いがした。
(こんな肌触りの良い布地、高価なものに違いないのに...)
俺なんかが寝転がっていて良い場所では決してないはずだ。
「 」
男の声がした。
聞き取れなかったが、自分に対して掛けられた言葉のような気がした。
ゆっくりと身を起こし、恐る恐る声のした方へと顔を向ける。
ここは一体何処だ。
王宮は市井では考えられないような贅沢な暮らしがされているとは思っていたが、まさかここまで想像できない造りをしているとは思わなかった。
部屋自体は民家よりも狭いが、そこかしこに道具なのか装飾品なのかも判断できない、光沢のある綺麗なものが置かれている。
何より目の前にいる男が、全く今までに見たことの無い風貌をしている。
黒髪黒目というのも珍しいが、全体的に主張の少ない顔の造りをしていて表情が全く読めない。
兎にも角にもこんな綺麗な布地の上にいては怒られるのは必至だ。慌てて床へ降りて謝罪の形をとる。
俺たちみたいなのは許可が無い限り声を発してはいけない。
そういうことは求められていないのだ。
近寄ってきた気配に、背中にくるであろう衝撃に耐えようと息を詰める。
いくら慣れていても痛いものは痛いし、出来ることなら打たれたくなんかない。
今か今かと構える背中に訪れた衝撃は、想像以上に軽く、自分の背中ながら触覚を疑った。
不思議なことに、この男は俺を打つことはしなかった。それどころか、起き上がるように促し、不思議な味のする食べ物や飲み物を食わせてくれる。
家畜に世話係がいるように、俺のような人間を世話するのを仕事にしているやつなのかもしれない。しかしそれにしたって、奇抜ではあるが小奇麗な身なりをしているし、こんな部屋にいるのだから身分はきっと高いはず。俺を世話する意図が全く分からない。
また地下の広間へと連れて行かれるんじゃないだろうか、今度はもっと酷い目に遭わされるんじゃないだろうか、今度こそ死ぬかもしれない、殺されるかもしれない、そんな想像ばかりが頭から離れず、男が非常に恐ろしい存在に思えてくる。
その男は俺に対してなのか独り言なのか、時折言葉を発したが、俺には全く分からない言葉ばかりだった。王宮でのみ使われている言語なのかもしれない。それでも今はその意味が分からなくてほっとしている自分がいた。