電車2
横に立つ男はもう一度言った。
「Are,you,okay?」
聞き取りやすく発音された音から、ようやくそれが日本語でないと思い至った。
多分英語だろうとは思うのだけど、正直ローマ字読みが精一杯の俺の頭では内容を理解できなかった。
日本語分かります、と言おうと思ったけれど、あまりの状況に喉が詰まって掠れた高音しか出ず、しかもそれは電車の音に掻き消されてしまった。
英語が分からないという意味を込めてのつもりだったが、途中からは脇腹に這う手の感触がもう嫌でたまらなくて、とにかく首を横に振った。
(リョーイチ、リョーイチ、リョーイチ)
心の中で何度もリョーイチの名前を唱えて、早く駅に着け、早く!と祈るようにしてぎゅっと目を閉じた。
男が何かを言い掛けたが、それは車内アナウンスで掻き消された。
そして間を置かずして電車は目的の駅に停車し、目の前の扉が開いた。
俺は降りる人たちの波に押され、半ばホームへ投げ出されるような形で降り立った。
踏ん張りがきかずによろめいていると、腕が掴まれ横に引っ張られた。その手は車内で横に立っていた男のもので、俺が波に飲まれないようにホームの動線から逸れたところまで引っ張ってくれた。
空いているベンチに座るように促してくれたので、そのまま腰掛ける。
先程まで体験していた異常な事態を思い出して手が震えた。
(何だったんだろうあれは...)
後ろに居た人間の意図は全く分からないのだが、ただただ背中の傷を暴かれるのではないかという恐怖ばかりが頭を占めていた。
「Can you speak English or Japanese?」
そういえばこの男は誰なんだろう。身長がすごく高い。もしかしたらリョーイチよりも高いかもしれない。
英語か?外国語を話すみたいだけど、顔はさっぱりとした純日本人といった風だ。
問い掛けに反応せず俺がぼんやりと男を見上げていたからだろうか、男は座っている俺に視線が合うように屈み込んできた。
「あの、日本語、分かりますか?」
「っ、わ、分かる。わかり、ます」
咄嗟に返事をする。
「具合が悪そうでしたので...大丈夫ですか?」
「あの、えと、だいじょうぶ、です」
反射で大丈夫と答えながら、脳内で自問自答する。
(俺は大丈夫、なのか?うん、怪我もないし、大丈夫だろう)
そう結論付けるのに、脚は小刻みに震えて立てそうもないし、指先は悴んでバッグを握り締めた形のまま思うように動かない。
「...駅員さん呼びましょうか」
「だ、だいじょうぶ、です」
「.....降りる駅は、この駅で合っていましたか?」
「は、はい、あって、います」
(なんでだろう、着込んできたのに、寒い。蹲りたい)
「誰か、呼びましょうか」
(リョーイチ呼んで。リョーイチを呼んできて)
口を開けばそう言ってしまいそうで、首を横に振ることしかできなかった。
男は困ったような顔をしてそのまま立ち去っていった。
(電話、電話をすればいいんだ、電話をして迎えにきてもらおう)
リョーイチに呆れられるかもしれない。もうすっかり慣れたはずの駅に呼び出すなんて。
バッグから携帯電話を取り出すにも手が震えて手間取った。
小さなボタンを操作するにはどれだけの時間がかかるだろう。
もどかしく思いながらぎゅっと電話を握り締めた。
まだ心臓が嫌な音を立てている。
ふー、ふー、大げさに呼吸音を立てて深呼吸をする。落ち着け、落ち着け、リョーイチにはすぐ会えるんだから。自分にそう言い聞かす。
「電話、代わりにかけましょうか?」
いつの間にかあの男が戻ってきていた。手には買ったのであろうペットボトルが握られている。
俺がどうしたものかと男と携帯を交互に見て迷っていると、男はさっと俺の手から携帯を抜き取り、空いた手にペットボトルを握らせてきた。
ペットボトルは温かく、悴んでいた指先にじんわりと染みた。
「誰にかけますか?」
「りょ、リョーイチ...」
「りょういちさん、りょういちさん」
電話帳にはリョーイチの名前しかない。すぐに分かったようで、携帯を耳に当てた。
男は構内のアナウンスや騒音で通話しにくいと感じたのか、電話を持ったままどこかへ歩いていってしまった。
俺はぽつんとベンチで腰掛けたままその背中を見送った。
両手で温かいペットボトルを抱え込むように握って、じっと蹲った。




