歩み寄る S3
リョーイチは怒らない。少なくとも、打たない。
そんな確信を持つと、リョーイチやこの国のことを知ることに積極的になれた。
もし誤解が解けたとしてもこの人ならそこまで酷い対応はしないのではないかという期待も、後押ししたのだと思う。
リョーイチは身近にある物の名前を教えてくれた。
水は「ミズ」
朝昼夜と出してくれる飯は「ゴハン」
色々な物を映し出す黒い板は「テレビ」
水浴び場のことは「オフロ」
日常で繰り返し使用する物を中心に覚えていく。
聞き慣れない発音だが、短い単語は覚えやすかった。
何を言っているのか分からなくてもとりあえずリョーイチの言ったことは繰り返し言ってみる。
そんなことを続けていると、段々こちらの国の発音のクセも掴めてきた。
リョーイチは他にも一部の魔法のことや、日常に必要そうな器具の使い方を教えてくれた。
テレビは「リモコン」を使って黒い状態にしたり物を映し出す状態にしたりと、切り替えることが出来る。天井の照明は壁にある凹凸を押すと点いたり消えたりする。
これらは「デンキ」という魔法で動いており、俺が操作出来たように、魔法使い以外の者も使用できるらしかった。
ペンの持ち方、ゴハンを食べる時に使う食器の持ち方も丁寧に教えてくれた。
どれもすぐに習得するのは難しく、練習が必要そうだった。
しかし時間は存分にあった。
朝起きると、大体リョーイチはまだ寝ているので、リョーイチが起きるまで本の文字を繰り返しなぞった。起きたら慌しくゴハンを食べてすぐ出て行ってしまうので、その間はテレビを見て過ごした。
トケイという、時間を表示するものがあり、それの数字に合わせてテレビをつけると、大抵同じような人間が現れた。
目で追いかけるのが精一杯だと思っていた内容は、子供向けの番組らしく、発音がひとつひとつ丁寧で聞き取りやすいと気付いた。テレビのあとに続いて発音してみたり、覚えたばかりの文字が出れば読んでみたりした。
昼過ぎにリョーイチが用意してくれたゴハンを食べる。まだハシを使いこなせない俺のことを考えて、手掴みで食べられるものを用意してくれている。
その代わり夜はハシを使う練習をさせられるのだが。
いつも飢えていたから、まさか満腹になると眠気が襲ってくるなんて知らなかった。
睡魔と闘いながら、リョーイチが帰って来るまで、本のなぞり書きと綺麗な絵の描いてある本を眺めていようと思った。
エホンという本は、綺麗な色合いで1ページ1ページ違った絵が描かれた本で、何度見ても飽きなかった。
文字も小さく隅に書かれているのだが、読めないのでだいたい絵だけを眺めていた。
緑豊かな木々に囲まれた風景、大きな湖が広がる風景、見たことのない様式の建物、人々の肌の色、服装、色鮮やかな花々、大小様々な動物。
ページを捲っていくと、いつも決まったところで手を止めてしまう。
それはこのエホンの中で唯一見慣れた景色だからだと思う。
果てしなく続く砂の海と、星々の輝く夜空。
俺が居たところは、太陽が近くとにかく毎日暑かった。熱せられた砂が風に舞う、乾いたところだった。日々熱から逃れるようにして生活していた気がする。
陽が昇ればその暑さを恨めしく思い、陽が沈めば倒れ込むように寝入った。
俺の世界はその繰り返しだった。
エホンのこの絵はとても綺麗だ。
砂の一粒一粒が光って見える。空にも沢山の星が輝いている。
もしかしたら、俺の立場が違ったら、こんな綺麗な景色を見れたのだろうか。
いや、夜の景色は幾度も見たことがあったはずだ。
こんな綺麗だと思うだけの感性が、余裕が、なかっただけで。
エホンはやはり絵でしかなく、綺麗なところを抜粋して描かれているのだろうが、それでも俺の居た所が見る人によってはこんなに綺麗に描かれるのだと思うとなんだか切なくなった。
いつか戻ることがあっても、俺は綺麗な景色だと思うことが出来るだろうか。
転寝をしてしまったようだった。
起きたらリョーイチが帰ってきていた。
すぐ傍でエホンを見ているものだから、思わず開いていたページを閉じてしまった。
ふと我に返って自分の行動に疑問を覚える。
お互いのことを知らなければと思った矢先なのに、故郷のことを知られたくないと思っている自分がいる。
故郷のことを知られたら。俺の立場が知られたら。この砂ばかりの国に戻されるのではないか。それは至極当然の流れだと思うのに、それに反する気持ちが育ってきているのを自覚してしまった。
ここは自分の居るべき場所ではないと分かっているくせに。
帰りたくないと思うなんて。




