入れ替わり
蒸し暑い夜だった。
サークルの連中から籍を置いているのだからそろそろ顔を出せと言われて重い腰を上げたのが数時間前。
暑気払いなんて名目ばかりだと思っていたが、確かにこうも暑いと冷えたビールの誘惑には抗い難いものがある。
店に着けば大学生は人生の夏休みなんて言葉を体現したような奴らがやれ飲めや歌えやの大騒ぎ。何が楽しいかは分からないがアルコールが回るにつれ雰囲気に呑まれて何だかこちらも楽しい気分になってくる。
久々に飲み会に顔出すのも悪くないもんだなんて、ちまちま枝豆を摘みながら思う。
一緒に来た早川も大して飲めない癖してグラスを空けるピッチが早くなっている。そろそろ声掛けて抜けるかなんて思いながらも、次々と追加されるおつまみから目が離せない。これ食べたら声を掛けよう。あとひとくち。あ、これも美味そうだな、を数回繰り返し、気付いたら解散ムードになっていた。
酒が入ると食が進む性質なだけであって、決して食い意地が張っている訳ではない。決して。
足元の覚束ない早川を支えながら夜道をふらふらと歩く。
帰る方向は一緒だ。何せ早川は借りているアパートが同じ上に部屋も隣だからだ。腐れ縁もここまでくるといっそ清々しいとすら思える。
肩を貸してはいるが、早川の頭が俺の腹あたりまで下がってきた。これは長く保ちそうにない。
「おいもうすぐ着くから頑張れよ」
見慣れたアパートはすぐ目の前、あと10メートルも歩けばエントランスである。
果たしてこの酔っ払いはこの励ましを聞いているのか、途端に歩みを止める。
「おーい」
「...吐く」
そう呟いた早川は崩れ落ちるように膝をつき路肩に蹲った。
吐きたいのに吐き出せないのか、乾いた咳を数回して肩を震わせている。
隣に膝をついて早川の背中を摩りながら、やはり飲み会を早めに抜ければ良かったと後悔の念が湧く。
大丈夫かと声を掛けようとして、それは声にならなかった。
思わず背中にあてていた手を引いてしまう。
「...っ」
急に目の前にある存在が覚束なくなった。早川の輪郭がぼやけ、陽炎のように揺らめき始める。街頭の少ない夜道で薄ら発光しているようにさえ見えた。
瞬き数回分の変化だったように思う。
気付いたら先程までの蒸し暑い夏の夜道に戻っていた。目の前には気分が悪そうに咳き込む背中。
咄嗟にその背中に手を伸ばす。
こんなことが現実にあるはずがないと打ち消すように。縋る思いで目の前の背中に手をあてた。
目の前で蹲っていたのは確かに早川で、中学時代からの親友で、身長は低いが運動神経がよく、お酒は弱いが明るい性格で集団の中心にいるような人間だった。こんな骨張った薄い背中なんかじゃない。今日は日頃からよく着ていたジーンズにカラフルな柄のTシャツを着ていて、悪趣味なショッキングピンクのビーチサンダルをひっかけてきていた。少しオシャレに無頓着なところがある奴だった。だからってこんな質素な白い割烹着のような服を裸足で着て歩いたりするような奴じゃない。将来禿げるかもなんて心配していたくらいの細い直毛で、少し伸びただけで女っぽくなるのを嫌がって常にさっぱりした短髪だった。こんな、伏せた顔が隠れる程の長さの癖毛、早川な訳がない。
訳が分からないまま、早川が居た場所にそのまま蹲る、早川ではない、誰かの背を摩った。
お前は誰だよ。
早川は何処行ったんだよ。
なぁ、この状況を説明してくれよ。