歩み寄る S1
男は言葉を教えようとしてくれているらしい。
男が何かを問い掛けて俺の返答を待つような場面は何度かあった。もちろん何を言っているのか分からないから答えようがないので黙っていたが、何より、言葉を発するということに戸惑いがあった。
言葉というのは、一方的な伝達手段であって、俺は専らそれを聞く側だった。発言することは求められたことがなかったのだ。
俺は物心ついた頃からずっとそういう立場だったのだけど、稀に大人になってから売られてくる奴らがいた。そういう奴らは最初はよく喋った。しかし、その内容次第では買われた主人から酷い折檻を受けると知ってからは無口になった。
喋っていいことなんてひとつもないのだ。
喉は渇くし、主人の機嫌を損ねて打たれかねないし。伝える気力もないし、そもそも伝えたいこともないし。
唯一発言の機会があるとしたら、返事か、謝罪の時くらいだろう。
それでもその発言が何かに影響を及ぼすようなことはなかった。
今までの生活では、発言することの必要性が全くなかったのだ。
薄っぺらい本を渡されて、そこに字の練習をするようにと指示された。
紙というものは高級品だったと思う。ちゃんと見たことはないが、裕福そうな人が持っているイメージがあった。
初めてまともに見る紙は、この部屋に置いてあるあらゆるものに見劣りしないほど滑らかで綺麗な白色をしていて、これまた綺麗に綴じられていた。
触れても汚れやしないかと躊躇ったが、男はこの本に書いてある文字をなぞって書けと言う。
紙に触れることも初めてだが、ペンを持って何かを書くということも初めてだ。
今までやらされてきたどの仕事よりも繊細かつ集中力のいる仕事だった。
紙の綺麗な余白部分を汚さないように、丁寧に、慎重に、文字をペンで辿っていく。ペンは握り込み過ぎると上手く書けず、力加減が非常に難しく感じた。試行錯誤してなんとか上手になぞれるようになる頃には腕と肩が痛くなってしまっていた。
男は帰ってくると、本の内容の確認をした。
満足のいく出来ではなかったのだろう。大きな溜息を吐いて、いつもなら机を挟んで向かいに座るのに、わざわざ隣までやってきて座った。怒られるのだろうか。蹲りたくなる衝動をなんとか抑えて様子を伺う。
何を思ったのか、男は自分を指差し名乗った。
どうやら自分の名前を覚えさせたかったようだ。
ちゃんと聞き取れたか不安だが、男の名前は「ハチェ・リョーイチ」というらしかった。
そして次に俺の名前を聞いているようだった。
どう反応していいのか分からない。
名前というものは一般的な人間が名乗るもので、俺のような奴らは専ら身体的特徴を名前代わりに呼ばれていた。主に瞳や髪の色で、俺は赤毛だったから前居た所では赤っぽい色という名前で呼ばれていた。その前は緑目、だっただろうか。小さい時は周りより身長が高かったから、のっぽや背高と呼ばれることもあった。
俺にとっては、名前というものは名乗るものではなくて付けられるものだったし、その都度変わる流動的ななものだった。
男、リョーイチは、俺がどのように呼ばれていたのかを知りたいということだろうか。
近々で使われていた呼称を伝えればいいのだろうか。
そもそも発言してもいいのだろうか。
怒られはしないだろうか。
それとも何も言わないでいる方が怒られるだろうか。
逡巡の後、思い切って押し出した声は、自分でも驚くほどか細く不安定な声になった。
何度か聞き直されたが、リョーイチは結局俺のことを「レイジ」と名付けたようだった。
レイジ、レイジ。
頭の中で反芻する。
どんな意味かは分からないが、短くて覚えやすくていい名前だと思った。
レイジ、俺のここでの名前はレイジ。
呼ばれたらすぐ反応出来るように、頭の中で何度も繰り返し唱える。
俺の、名前は、レイジ。




