歩み寄る 3
少しずつだが、レイジが言葉を話すようになってきた。
「ご飯」
「ゴハン」
「頂きます」
「イタラキマス」
自信がないのかとても小さな声だが、大きな進歩だ。
「美味しいか?」
「オイシーカ」
「違う違う、そういう時は美味しいって言うんだよ」
「チギャウチギャウ...?」
まだ鸚鵡返しの域を出ないが。
しかし言葉を発することに抵抗がなくなったようで、教える方としても大分楽になったのだ。
「これは?」
「ミズ」
指差してものの名前を覚えて貰う。物覚えは良いみたいで、一度教えたものは不意に問いかけても答えが返ってくる。
俺の学んで欲しいという思いに触発されたのか、もともとのポテンシャルが高いのか。打てば響くことにしみじみと喜びを感じてしまう。
俺がバイトへ行っている間は、子供向けの教育番組を見せたり(テレビの操作を教えた)、文字の書き取りドリルをさせたり(鉛筆の持ち方から教えた)、絵本を読んだり(まだ絵を眺めているだけになっている)して待っていてもらっている。
言葉もそうだが、日常生活に支障がないように簡単な器具類の操作や食べ物の食べ方も覚えていった。
箸の扱いはまだ苦手なようで、フォークとスプーンで凌いでいる場面も多々あるが、それでも箸文化のない外国人だということを思えば上等だ。
テレビの内容に驚いている様子も目撃することは少なくなったし、高所恐怖症は薄れたのか外の様子を興味深げに眺めていることもある。
最初は機械類の操作にいちいち驚いていたが、とりあえず今は「そういうもの」だと納得して貰えているようで、もうテレビや電気のオンオフにいちいち驚くこともなくなった。
この急激な成長からは、レイジの学ぼう、慣れよう、という意志が強く感じられた。
何より変化したと思うことは、レイジの態度だ。
怯えることが少なくなったように思う。そして土下座の回数も圧倒的に少なくなった。
今までは俺の一挙手一投足に神経を尖らせて様子を伺っていたようだが、今はそこまで気を張っている様子がない。こちらに視線をよこさずテレビや教材に夢中になっていることさえある。
レイジの外見が西洋風なものだから、外国人はパーソナルスペースが狭くて陽気で積極的であるという勝手な俺の偏見に当て嵌めて、本当はもっと明るい性格なんじゃないかとか、おしゃべり好きなんじゃないかとか思うことはある。今のレイジは生来の性格なのか、育った環境のせいか、臆病で、大人しい。本当は無理をさせているんじゃないか、遠慮をしているんじゃないかと心配になったりもする。
それでも、怯えることが少なくなったように、このまま今の状況に慣れてもっと自然体に近付けるようになればと思う。
書店でのバイトを終えて一旦帰宅した時のことだ。
夜からは居酒屋のバイトが入っていたから、早々にレイジの飯の用意をして家を出るつもりでいた。
部屋のドアを開けると、テーブルに突っ伏しているレイジの姿が目に入った。
レイジはよく寝る方だった。夜も22時には船を漕ぎ出す健全男児で、こんな昼寝をしている姿は初めて見るが、特別おかしいとは思わなかった。
テーブルには何度もなぞったひらがなのドリルと絵本が広げられていた。
(ドリル、新しいの買ってやらなきゃな)
絵本はバイト先の書店の後藤さんにオススメされたものだった。ストーリー性よりも絵の綺麗さが際立った、文字が読めなくても楽しめる世界旅行の絵本だった。
エジプトだろうか、夜の砂漠を綺麗に描いたページが広げられていた。
親も一緒に見て楽しめる絵本というコンセプトの通り、普通の絵本のより繊細な色使いで砂や夜空が細かく書き込まれていた。
(子供向けだからって侮れないな...)
感心して見ていると、レイジがむくりと起き上がった。
寝起きで少しのタイムラグがあったが、俺が直ぐ傍に居ることに驚いたようだった。
レイジは慌てて絵本を閉じた。
(別に散らかしたって怒らないのに)
しかし絵本は閉じたのにドリルは開かれたままだ。違和感を抱えながらも、時間がないことを思い出し、手早く料理の準備に取り掛かった。
準備している間に風呂に入ってもらい、少し早い晩ご飯を食べさせてから家を出る。俺が居酒屋のバイトを終えて帰る頃にはレイジは寝ている、といったリズムが出来上がっていた。
今日は金曜日だったこともあってバイトが長引いてしまった。日付を跨いだのでレイジは既に寝ているだろう。
そっとドアを開けて中の様子を伺うと、レイジはいつものように眠っていた。
俺も寝る準備をしながら、バイトに出る前の違和感を思い出す。
(どうしてあの絵本だけ閉じたんだろう...見られたくなかったのか?)
レイジ用の勉強道具が固められている一角から絵本を引っ張り出す。
別に子供用だからといって大人が見ていて恥ずかしいものでもないはずだ。特にこの絵本なんかは1ページ1ページがとても綺麗な絵で大人でも見とれてしまうだろう。
パラパラと捲っていると、自然と砂漠の絵のページで手が止まった。
そのページがよく見られているせいで、開き癖がついてしまっているのだと気付いた。
余程この砂漠の絵が気に入ったのかとも思った。
(もしかしたら故郷の景色に似ているのかもしれないな...)
空と、砂が果てしなく広がる世界。それはここの風景とどれ程違ったことだろう。
この環境に馴染もうと努力してくれている影では、やはり故郷を懐かしく想っているのだろうか。
故郷が特定出来たところで、直ぐには帰してやれないのだ。
しばらくはホームシックと上手く付き合ってもらうしかない。
絵本を閉じて元の場所へと戻す。
レイジがこちらの環境に適応していく様子を、あたかも成長していく子供のように喜ばしいものだと想い込んでいた。
それはこちらが押し付けたエゴでしかないという事実が、重く胸に圧し掛かった。
「早川の為」という免罪符は、あたかも自分に正当性があるように思わせてくれた。早川の為、俺の為のことなのに、まるでそれがレイジの為のことのように思い込んでいた。
レイジにとって、きっと俺は、虐げる側、なのだろう。
そう思うと、歩み寄れたと思った距離は、些細な誤差のようなものに感じられた。
俺の面倒見の良さもここまでくると病的かもしれない。
早川の為だけじゃなく、本当の意味でレイジの為になるようなことをしたい、と思うなんて。




