歩み寄る 2
3歳児3歳児と自分に言い聞かせて相手をしてきたが、そもそもこいつは異文化圏の人間で、違う言語・文化が染み付いた上でこの日本にいるのだ。ひらがなひとつとっても、「あ」という文字がどんな発音かも分からないに違いなかった。
すっかりそのことを失念していた俺は、ただひらがなが書けるようになればいいと思い込んで、なぞり書きのひらがなドリルを渡して早々にバイト先へ戻った。
結果、書店のバイトから戻った俺は、すっかり埋められたドリルに関心しつつ、何も話せないことに変わりない事実にがっかりするのだった。
幸いなことに居酒屋のバイトは今日は入れていない。
夜、向かい合わせに座って、埋められたドリルを見て一緒に発音しながらもう一度書かせてみようとするのだが。
「あ」
「....」
「これの発音は、あ」
「....」
驚くほど、言葉を発しない。ひらがなの一文字をひたすら連呼するこちらが馬鹿みたいだ。
(しゃべれない訳じゃないだろうに...)
お互いが目を落としていて見ていた教材を閉じる。
(文字より先に、コミュニケーション、かな)
奴の真横まで移動する。今にも土下座しそうな怯え具合だが、なんとか耐えているようだ。
室内の光だけでは深く見える緑色の瞳をじっと覗き込む。目が合うとすぐ目を逸らす。怯えの色が濃い。
「名前、聞いていなかったな、俺は長谷遼一、お前は?」
今更ながら挨拶といこうじゃないか。
根気良く、自分を指差しながら、自分の名前を覚えさせる。
伝わったのだろうか。小さな、本当に小さな声で呼ばれた気がした。
「...イチ」
「もう一回、はせ、りょういち、言ってみ」
「....ハチェ・リョーイチ」
「せは言い難いか。遼一でいいよ。りょういち」
「リョーイチ」
思わず頭を撫で回していた。
教材にかかった費用も、バイトの休憩中に部屋へ戻ってくる手間も、この一言で報われた気さえした。
たった一言、名前を呼ぶだけのことが、これほど大きな進歩だと感じるとは。
奴は驚いたようだったが、振り払うことなく好きに頭を撫で回させてくれていた。
「今度はお前の番、お前の名前は?」
俺が指差して名乗ったように、奴の手を取って自分へと向けさせる。
自分が名乗る番だと伝わっているようだが、口を開く気配はない。
(名無しってこともないだろうに...まさか名乗りたくないとか?)
困った。お前と呼び続けるのも不便だろうし、何かあだ名でもつけるか。ないセンスを捻り出しそうになった時、小さく呟くような声が聞こえた。
「...レ、...ッヂ」
「なに?もう一回」
「...レ、....ッヂ」
何回か聞き直したところで、聞き取れない部分は聞き慣れない言語の発音であることに気付いた。
どうしても「レ」と「ヂ」しか聞き取れない。
「分かった、俺には発音が難しいから、お前のことをレイジって呼ぶな」
早々に諦めた。
「お前はレイジ」
「レィヂ」
「れ、い、じ」
「レ、イ、ヂ」
「そう、レイジ!」
出会ってから何日経っただろう、初めての自己紹介が成立した瞬間だった。
読み書きより先に、言葉を聞き慣れて、言い慣れてもらおう。
そう教育方針を転換させたはいいが、数日経ってもレイジは一向に言葉を発そうとしなかった。
「レイジ」
呼べば振り向くほどには、自分の名前と認識してくれているようだ。
しかし、レイジからは全く喋ろうとしない。
何とか後に続けて発音して欲しいと思っても、ただ虚しく、俺が一人で名詞を連呼して終わっていた。
「俺風呂入ってくるわ」
最近では風呂も一人で入れるようになった。もちろんレイジが一人で水浴びなんてしていなかチェックは欠かさないが。
確か今日は地上波初放送の映画がやっていたはずだ。それに間に合うように風呂から上がろう。無造作にテレビをつけて風呂へと向かう。
テレビから流れてくる言葉を聞いて勉強できたらいいなという思惑もある。
子供向けの教育テレビなんかは丁度いいと思ってよく見せている。結構食い付いて見ているように見えるが、レイジが喋らないままなので、理解できているのかイマイチその成果が分からないでいた。
(どうしたもんかな...)
頭を洗いながら今後の教育方針に頭を悩ませる。俺ってばなんて教育熱心なんだろう。まぁ答えは出ないんだけども。
重い溜息を吐きそうになった時、浴室のガラス張りの扉が勢いよく叩かれる音がした。
「リョーイチ!リョーイチ!」
レイジが呼んでいる。こんな大きな声で呼ぶなんて初めてだ。いや、そもそも名前を呼ばれるのは教えてから初めてのことなんじゃないか。
いや、感動している場合じゃない。切羽詰っているような声に不安を覚え急いで外へ出る。
バスタオルを巻きつけて濡れた髪もそのままに浴室から顔を出すと、レイジは慌てた様子で俺の腕を引っ張り部屋のテレビの前まで連れてきた。
いつの間にか映画が始まっていたようだ。
レイジはテレビを指差して俺の名前を連呼している。何を訴えているのだろう。まさか映画が始まったことを知らせてくれている訳ではないだろう。
「どうした?」
映画の冒頭部分は主人公が大規模な火災に巻き込まれた回想シーンだった。燃え盛る炎、崩れ落ちる建物、手に汗握る主人公の脱出劇が、大袈裟な演出と迫真の演技でテレビに映し出されていた。
「まさか、テレビの中の炎が出てくるとでも思ったか?」
冗談で笑い飛ばそうとして、レイジのテレビに向ける心配そうな眼差しとかち合う。
(今まで普通にテレビを見ていたから、なんとなく仕組みを理解しているもんだと勝手に思っていたが...)
レイジが今までいたところとの文化がかけ離れ過ぎているのだと改めて感じた。殊更丁寧に説明しなければ、こちらの常識は通用しないのだ。テレビの中の世界がこの部屋に直結していると思い込む程には。
「レイジ、ほら、ここ触ってみろ、熱くないだろ?」
テレビの画面に触れてみせる。レイジの手を引き、同じように画面へ触れさせる。
炎が飛び出てくる心配がないと理解してくれたのか、強張っていた表情が少し緩んでいた。安心してくれたようだ。
映画は王道アクション映画で、きっとレイジを驚かすような内容が満載だ。
(レイジにはまだ刺激が強過ぎるかな)
俺は大分過保護になってしまったようだ。楽しみにしていたはずの映画を途中で消しても惜しいとは思わなかった。
火事になると思って必死に俺の名前を呼んでくれたことが存外嬉しかったのだ。
俺には親馬鹿の素質があるかもしれない。




