歩み寄る 1
奴の背中の傷痕は、きっと故意的につけられたモノで、痩せた身体からも虐げられてきた側にいた人間であることが分かった。
あらゆるメディアから戦争だ貧困だ虐待だと問題が取り沙汰されているが、しかし、安全な日本のそこそこ恵まれた環境で暮らしている俺にとっては、痛ましく思えど、遠く離れた世界の話だった。
そのまさに渦中にいたであろう人物が目の前に来たとして、俺はきっと正しい対処法なんて分からない。そんな自信にも似た確信を持っていた。ただ憐れんだ目で見ることしか出来ないだろうと。
早川が目の前から消えていなくなったという異常事態がなければ、きっとこいつのこともただただ憐れんで、早々に自分の生活圏内から切り離して終わりにしただろう。
しかし早川との唯一の手掛かりとして接すると、憐れみよりよりも先に手が出た。もちろん暴力的な意味ではなく、世話を焼くという意味で。
どうも出会って直ぐに3歳児だと思い込んで対処したのが自分の中で定着してしまっているらしかった。
もちろん、可哀想だと思った。しかし俺も早川を連れ去られたという被害者意識があったからか、ただ一方的に憐れむだけに終われなかったのだろうと分析してみる。
怯え癖があるのが鬱陶しくも感じるが、直してやりたいとも思う。
がりがりな手足に肉をつけてやりたいと思う。
謝るだけでない言葉を交わしてみたいと思う。
こういう時に自分の面倒見の良さが発揮されるというのが複雑ではあるが、今まで弟妹や早川の面倒を見てきたことを思えば自然な流れのようにも思えた。
誰かの面倒をみることで安心している自分がいる。今まで何かと世話を焼いてきた早川が居なくなっても、その代わりの奴が現れれば安心するのだ。自分の悪癖に気付かないフリをして、湧き出そうな罪悪感に蓋をする。違う、これも早川の為だと自分に言い訳をして。
大学が夏休みに入ったのはタイミングが良かったとも言える。
周りの奴らに早川の不在に気付かれ騒がれずに済み、講義に出て奴を放置する時間を増やさずに済む。
しかし、節約生活に勤しむ俺は夏休み中はがっつり稼ぐ計画を立てていた。
ただでさえここ数日はバイト先に無理を言って休みを貰っていたのだ。そろそろ戻らないとバイト先への心象が悪くなるし、来月の収入に響く。
「いいか、これは昼飯な。水はこれな。ペットボトルの開け方教えたよな、好きな時に飲めよ。3時頃には一旦戻ってくるからな」
仕事に出てる間子供を家に一人にして大丈夫か心配する親の気持ちが今なら分かりそうだ。
奴は分かってるのか分かってないのか、じっと食べ物を見ている。
腹が減ったら食うだろうと楽観的に思いたいが、何も指示しないと動かない奴のことだから何も口にしないかもしれないという不安の方が大きい。
奴は怖がりな上、高所恐怖症らしかったから、一人で部屋を出てどこかへ行くなんてことはないだろうし、その辺は安心してもいいだろう。部屋に居さえすればとりあえずは安全だろうから安心してもいいだろう。
そうやって自分に言い聞かせて安心させないと側を離れられそうになかった。
バイトは書店と居酒屋を掛け持ちしている。書店は朝~夕方、居酒屋は夜、といった風にシフトを入れている。学校がある間は比率は居酒屋の方が多かったが、夏休み中の昼間はほぼ書店のシフトを入れていた。
昼間の書店は意外と主婦が多く入っている。もちろん同じような学生もいるが、夏休みにはもっと割りの良いバイトの方へ流れていくのか、全体的に年齢層が高めだ。
オープンしたばかりの午前中は客も少ない。新刊の陳列や補充を済ませてしまうと後はバックヤードでの仕事になる。裏へ回ろうと歩いて、ふと立ち止まる。ジャンルごとに担当分けされていた為、今まで全く関わってこなかった一角、幼児向けの絵本や小学生低学年用教材から目が離せずにいた。
「どうしたの長谷君、何か探しているの?」
声を掛けてきたのは小学生のお子さんを持つ主婦の後藤さんだった。
後藤さんはこのコーナーを担当していた。
「あの、....三歳くらいを対象にした、日本語の勉強になる本ってありますか?」
「まぁ!どうしたの!プレゼント?オススメ沢山あるわよ!」
自分の担当に興味を持ってくれて嬉しかったのか、後藤さんは興奮気味に色々教えてくれた。
(絵本、は、いるか?読みか聞かせ...出来る自信ないな。DVD、は高い...ひらがなのドリル...小学生向けだが買っておくか)
あれもこれもと勧めてくれる勢いに圧されて、そのままレジへ。
(3000円........)
手痛い出費になってしまった。絵本や教材は意外と良い値段するのだ。今まで自分には縁のないコーナーだと思っていたが、これから沢山お世話になりそうである。
今日はピークもなく、2時頃には昼休憩に入ることが出来た。休憩は1時間で、書店から家までは自転車で10分程だから一旦帰ることが出来る。
急いで自転車を飛ばす。
エアコンをつけているとはいえ、水分を摂らなければ熱中症で倒れかねない。
大丈夫だと思いつつ、やはり不安は拭えなくて、部屋へ向かう足も駆け足になる。
「生きてるかー」
部屋のドアを開けてみると、奴は床で小さく丸まって眠っていた。
昼飯用に置いておいた菓子パンは手付かずだったが、テーブルに置いてあるペットボトルの水は半分程減っている。
(寝てるだけだよな...)
まさか熱中症で倒れた訳ではないよな、と心配になり、そっと額に手を当ててみる。
するとびっくりしたのか奴は飛び起きた。
「悪い、驚かすつもりはなかった」
相変わらず怯えてはいるが、根気良く起き上がらせ続けた甲斐あってか土下座の回数はだいぶ減った。
「昼、食べてないな、食べろよ、これ」
差し出された菓子パンをおずおずと受け取ってくれた。
俺も自分用に買ってあった菓子パンを出して遅い昼食にする。
直ぐにまたバイト先へ戻らないといけない。行儀は悪いが、食べながら書店で買ってきた教材をテーブルに並べ説明していく。
「これをなぞって、あ、い、う、って書いていくの」
「これは名前を覚えてな。この絵はりんごだろ?ここにり、ん、ごって書いてあるの」
「この紙は自由に使っていいからな」
奴はもそもそとパンを食べながら分かったような、分からないような、どちらとも取れない顔をして聞いている。
(多分、分かっていないんだろうな...)
気が遠くなる。3歳児への日本語教育はまだ始まったばかりだ。




