気付き S2
意を決しての行動ではあったものの、ドアノブは前後左右に動かしても、押しても引いても、開く気配はなかった。
迂闊にも期待をしてしまったせいで、裏切られたような気持ちになった。
項垂れそうになる頭を振り、思い直す。
何も今逃げなくたって、今後機会はあるはずだ。
男は飯も寝床も与えてくれる。今は男の勘違いを利用させてもらおう。
どうしても重くなりそうな足を無理矢理動かし、もといた部屋へと踵を返す。
布というのは豊かさが顕著に表れる部分で、沢山持っているほど豊かな証だ。
この部屋の壁の一部にも大きな布がかかっている。
天井に埋め込まれた光源で部屋は常に明るかったが、布の隙間からも光が漏れていた。
高価そうな布に触るのは躊躇ってしまうが、後ろから漏れる光の正体を突き止める為に、少しめくってみた。
布の後ろに隠れていたのは、頑丈そうな玻璃、その向こうに広がる真っ青な空だった。
しかし、視界に入った異様な光景に思わず後ずさる。
すると、後ろにあった座卓に勢いよくぶつかってしまい、バランスを崩して背中から座卓の上に倒れ込んでしまった。上に乗っていたグラスが倒れて転がり床に落ちる。水が床を濡らす。
慌てて体勢を戻そうとした途端、部屋の壁際に置いてあった無機質な四角い板の中に人間が現れた。
頭の中は大混乱だ。
板の中の人間は理解不能な言葉で捲くし立ててくる。それが俺を詰っているように聞こえて、逃げるように部屋から出て通路へと移動した。姿が見えない位置に移動しても声は止まず、逃げた俺を責めているようだった。
部屋を好き勝手に見て回ったことも、水を溢してしまったことも、板の中の人間が男に伝えるだろう。
もしかしたら逃げようとしたこともバレているかもしれない。
どんな温和な主人だって、そんなこと許してくれるはずがない。今度こそ打たれる。
男が出て行った頑丈なドアの前で膝をついて男の帰りを待つ。
言葉は通じないけども、精一杯謝ろう。許して貰えないまでも、気が削がれて打つ回数は減るかもしれない。
後ろから聞こえてくる声をじっと背中で受け止めながら、ただ男の帰りを待った。
然程待たないで男は帰ってきた。
ドアが開いた瞬間、俺は思い付く限りの謝罪の言葉を並び立てた、と思う。
頭に纏わりつく恐怖が、自分が何を口走っているのかさえ曖昧にさせていた。
何せここ数日打たれてなかったせいか、打たれることが非常に恐ろしいことのように思えた。間をあければあけるほど、痛みに対する耐性は薄れてゆくのだ。数日分の痛みが一度に濃縮されて襲ってくるんじゃないかとさえ思う。
しかし、男はいつもと変わらない様子で、俺を立ち上がらせる。その手はおよそ暴力とは対極にあるような丁寧なものだった。
俺の言葉が伝わっていないのは百も承知だ。しかし部屋に入れば溢した水が目に入るだろう。板の中の人間が告げ口するだろう。
恐る恐る男の後に続いて部屋へと入る。
男は直ぐに倒れたグラスに気付いたようだった。
しかし俺に拭くように指示するだけで怒っている様子はない。
いつの間にか増えた板の中の人間たちは口々に男に告げ口をしているようだった。床を拭きながらその様子を伺う。
すっかり床の水を拭き取ってしまってもその場から動けなかった。
打たれるその瞬間が来るのを今か今かと待ち構えていた。
男が手を挙げた。打たれると思った。
しかし男の手は俺に向かうことなく、板を指差した。
その瞬間板の中にいた人間たちは一斉に消えてなくなった。板はただの光沢のある黒い板に戻ってしまったのだ。
唖然とした。
そして今まで思いも付かなかったことが頭を過ぎった。
(これが、魔法、というやつなのかもしれない)
王都には世界に限られた人数しかいない魔法使いが集まっていると聞く。一般庶民にはお目にかかれない高貴な人だというから、魔法というものが具体的にどういうものなのか、魔法使いが本当に実在するのかさえ知らない者がほとんどだった。俺なんかはてっきり御伽噺や寓話の類だと思っていたくらいだ。
この男は魔法使いなんじゃないか。
この贅沢で不可思議な部屋も、ちぐはぐな格好も、それで全て説明が付く気がした。
きっと世俗に疎くて俺のような人間がいることも知らないのだろう。そう思うと今までの俺への対応も納得がいく。
それでも男が世俗のことを知ったら、今までなんて無駄なことをしてきたのだろうと思うに違いなくて、いつ勘違いに気付くだろうかと怯えることに変わりはなさそうだ。
世間知らずな男は、水を溢した俺を咎めるどころか甘く蕩ける様な食べ物を俺に与えた。
それはひんやりと冷たく、口に入れた途端にヤギの乳のような滑らかさに変わった。じんわりと甘い余韻を舌に残して消えていく不思議な食べ物だった。
俺はずっと男が勘違いをしたままならいいのに、と思わずにはいられなかった。




