気付き S1
何故か男は俺を打たない。
それどころかこれ以上ないほどの厚待遇でもてなし続けてくれている。
こんな贅沢させ続けた後に男が勘違いに気付いたら、きっと打たれるどころじゃ済まない。
早く誤解を解かなければ、と焦る気持ちとは裏腹に、その方法が全く思い浮かばない。
意を決して言葉で伝えてみても、通じていないようなのである。
確かに、男の喋っている言葉は全く分からない。男も、俺のしゃべっていることが分からないと思っていいだろう。
とりあえず俺に今出来る事といえば、男の機嫌を損ねないようにすることなのだが、それも非常に難しいことのように思えた。
何せこの部屋はどこもかしこも綺麗で不可思議なもので溢れており、自分がどう振舞えばいいのかも判断が全く出来ないのだ。俺が出来ることといえば、水汲みや掃除、家畜の世話、荷運び、畑の世話...せいぜいそういった類のことだけだ。この経験が役に立ちそうな気配は、今のところない。
男は俺の世話をする為に四六時中同じ部屋にいるのだと思っていたが、今日はどうやら様子が違った。
朝、飯を与えた後俺に対して何かを言い含めて(しかし俺には全く理解出来なかった)、グラスに一杯の水をテーブルの上に置くと、部屋から出て行った。
どうしたものか。手持ち無沙汰で部屋を見渡すが、何かこれといって自分が理解出来そうなものが見つけられる訳もなかった。
主人や監視役がいない時は大抵寝ていたし、そもそも働き詰めでそんなことは滅多になかったから、この状況が落ち着かない。檻にでも入れられていたら納得はするのだが、ここは檻にしては贅沢過ぎる部屋のように思う。
あまりうろうろ見て回ると怒られるかもしれない。
けれど今は誰もそれを咎める人間はいない。
(いない間だけ、ちょっとだけならバレない、よな...)
冒険心が恐怖心に勝った。
立ち上がって部屋の中を歩いてみる。数歩ですぐに壁に触れてしまうほど狭い部屋だ。足元に気をつけながら、ぐるりと一周する。床は木で出来ているようだが、壁は一体何で出来ているのか分からない。触った感じ固いが、石のような滑らかさもない。不思議な壁だ。王宮は外観は白い石で出来ていたけれど、部屋の内装はそうでもないらしい。
部屋にはひとつドアがついていて、そこを開けると通路へ出る。その通路はトイレや水浴び場へと繋がっている短い通路で、突き当たりに頑丈そうなドアがついていた。
通路を恐る恐る歩きながら、左右を見渡す。
この通路で男は料理をしていた。水が出る細い管がある。きっと井戸に繋がっているのだろう。
こんな狭い調理場であんな美味い飯が出来るというのが不思議だ。しかし調理場だというのに食べ物らしきものは一切見当たらない。どうやって飯を作っているのか、益々疑問だ。
調理場の向かいは、その綺麗さに用途が全く想像出来ずに戸惑ったトイレがある。今でも使用する度に罪悪感が湧く。
その隣は綺麗なタイルの敷き詰められた水浴び場で、無限に水が湧き出る富豪の象徴のような場所だ。
部屋としては小さく窮屈にも思える造りだが、その中に目一杯の贅沢を詰め込んだような部屋だと思った。
通路の突き当たり、部屋から出てまっすぐ歩いて突き当たる所に頑丈そうなドアがある。
朝、男はこのドアを開けて出て行った。
このドアの向こうはどうなっているのだろう。また別の部屋へと繋がっているのか、王宮へと繋がる通路へ出るのか、それとも外なのか。
(ここを開けたら、俺は逃げられるんじゃないか...?)
今まで考えないようにしてきたことが、ふと頭を過ぎる。
何も全く考えたことがない訳じゃない。酷い扱いをしてくる主人に買われた時なんて、走って逃げる体力さえあれば隙を見て逃げたしたい気持ちはいつもあった。現に逃げ出した仲間も数人いた。しかし、失敗に終わった奴らの末路を見てしまうと、臆病な俺はいつも現状を耐え忍ぶ選択をしてしまっていた。
今なら、沢山寝れたし腹も満たされている。走る体力も充分ある。
男は先程出ていったばかりだ。まだ戻る気配はない。
見つかったらただでは済まないだろう。しかし、いつか男が誤解に気付いた時だってただで済まない思いをするのだ。打たれると分かっていて打たれるのを待つことなんてないじゃないか。
逃げる理由ばかりが次々と浮かんでくる。
(このドアの向こうへ、出られたなら...)
ひんやりとするドアノブを握った。




