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過ぎゆく面影


 五日後の火曜日、スクーリングの日でもないのに学校に足を運んでいた弥生は一人音楽室のピアノの前に佇んでいた。

 授業が終わるまであと十五分。学校が終わったら少しピアノを見てほしいという弥生の無理な願いを、担任は嫌がることなく受け入れてくれた。

 与えられた時間は一時間。普通に考えればこの簡単な曲を見てもらうのには十分すぎる時間に感じたが、自分のピアノに足りないものの事を考えればまだ足りないと思った。

 結局いくら練習しても、曲を思うように弾けるようにはならなかった。日曜日のレッスンで楽譜の読み間違えがない事も確認してもらって、強弱やテンポの揺らし方も一緒に考えて音色も曲に合わせて調整した。これ以上自分ではどうしようもできないところまで練習したのに、決して納得のできる仕上がりとは言えなかった。


 彼の真似をしてピアノの前に立っていれば何か思いつくだろうかとも考えたが、ずらりと並べられた白と黒の鍵盤を見つめていても見えてくるものは何もない。


 一体彼は何を考えているのだろう。頻繁にこうしている彼を見ながら思い浮かべるその考えを、弥生は頭の中で繰り返していた。

 そっと白鍵の上を人差し指で撫でる。

 指で押すだけ。指で押すだけで、みんな自分の世界を音にして響かせる。

 私にはできない事。小さい頃から才能があると言われ続け、小さな賞ならいくつも取ってきた。それなのに、自分は周りの皆と同じようにピアノを弾くことができない。


 窓から、隣の音楽室で流されているDVDの音楽が聞こえてくる。今日は一年生のスクーリングの日で、多分これから感想文でも書くのだろう。

 この学校には音楽室が二つあった。一つは通常の音楽の授業で使う部屋。そこまで広くはない教室にピアノと椅子が並べられている普通の音楽室だったが、向こうのグランドピアノの方が弥生は好きだった。

 こっちのピアノは、なんとなく音が重い感じがする。

 もう一つの音楽室、いま弥生がいる部屋には二メートル近くある机が綺麗に列になって並べられていて、すべての机にフルサイズのキーボードが備え付けられていた。それを授業で使ったことはないし、あまり興味を持ったことがなかったが、よくよく考えてみると普通科の音楽コースの割にはお金がかかっている。


 窓から流れてくる音楽に耳を傾けた。声楽。いや、オペラか。甲高い女性の歌声は小さな音量でもよく聴きとれる。

<マリオ、本当に死んでしまうなんて。ああ、どうしてこうなってしまったの?>

<スカルピアが殺されたぞ! 犯人はトスカだ!>

 こんな歌詞だったか。嘘の処刑だと言われていた銃殺刑は本物で、銃弾を何発も体に浴びたマリオ・カヴァラドッシにトスカが涙を流すのだ。

<罪を償うわ>

<何で?>

<私の命で!>

 それだけ言い残してトスカは屋上から身を投げる。いかにもイタリアオペラらしい展開で、物語は幕を閉じるのだ。

 どうしてイタリア人はこんなにも人の死が好きなのだろう。男遊びや恋といったものの結末は、大体登場人物の誰かが死んで終わってしまう。恋とか愛の結末が死だというなら、どうしてそこに惹きつけられるのだろう。それが美しいというのなら、オペラの作曲家たちはよほど心が捻じ曲がっていると思った。

 こんな時間にトスカの最後を聴いているという事は、一年生はあのつまらないオペラを全編見せられたのだろうか。そんな事を考えると彼女たちに同情したくなった。人の死というものは、決して美しくなどないのだから――。


 チャイムが授業の終わりを告げた。静かだった教室の中で、女子たちの話し声と鞄を漁る音が次第に大きくなっていく。

 音楽コースは今年の一年生もほとんど女子だけで成り立っているらしかった。放課後の解放感は生徒たちの話し声のボリュームを上げるというのに、男子の話し声は全くと言っていい程聞こえてこない。


 わざわざ高校生活を音楽に振るほどなのだから、ある意味自然といえばそうなのだろうか。


 話の内容に興味を持てずに、弥生はピアノの前に座った。

 先生に見てもらう前に指を慣らしておかないと。何を弾こうか考えるより先に指が動き始めた。ショパンの別れの曲。今までこの曲を納得できるレベルで弾けた事はなかったが、暗譜している中で気に入っているこの曲をゆっくりなテンポで弾くと指慣らしに丁度良かった。


 別れといっても、この曲からは決して悲しい別れというものを感じない。新しいスタートラインに立つ前に、あちこちに散らばった暖かい思い出を友と語り合う――。

 出てくる低音に負けないように、でも音が尖らないように優しく右手の音量を維持する。次第にそれを情熱的に、優しいフォルテへと変化させていった。

 指慣らしだから、ゆっくり、確実に。中盤に差し掛かると少しずつ指が忙しくなって、ショパンらしさを感じさせる少し激しいフレージングが入ってくる。ここをミスタッチせずに弾けるようになったのは、確かこの曲で指慣らしをするようになって一年ほど経った時だ。

 丁寧に音を重ねる。思い出。別れを惜しんで語り合う思い出――。

 再び静かなフレーズの後に、曲の頭へと戻った。同じことを繰り返すだけではいけない。芸術として、激しいフレーズを過ぎた後の優しさに変化を持たせなければいけない。一回目よりも音量を落として、眠りに落ちる前の一声をそっと呟くかのようにゆっくり、確実に一音一音を鍵盤の奥まで押し込んでいった。

 最後の和音を弾き切ったあとに、そっとペダルを戻して指を持ち上げた。やはりこの曲は指を温めるのに丁度良い。感情表現が大事な曲というのはよく言われている曲だが、人に聴かせる訳でもないからそんな事は関係なかった。


 人に聴かせるといえば、最近そんな機会がなかったことを思い出した。中学の中頃から音楽教室の発表会でしか人前で演奏していない。ある出来事をきっかけに、祖母が自分を人前に出すのを拒むようになったのだった。


 音楽室のドアが開いた。

「弥生ちゃん、お待たせ。ちょっと名簿とか置いてくるからもう少し待っててね」

 担任の真由美先生だった。一瞬だけ顔を出して、最近出産したというふっくらした腰を軽々翻して廊下のほうへ歩いていく。

 立ち振る舞いやや喋り方、その匂いから表情に至るまで、女性らしさに満ち溢れた人だと思う。長い髪を肩のあたりでゆるく一つにまとめて落ち着いた雰囲気こそ出しているものの、話してみればそんな雰囲気はどこかへ行ってしまって、同年代のように生徒の目線に立って何でも相談できる。あの人が担任で良かったと感じた。


 音楽の表現力の他に自分に足りていないものといえば、あの女性らしさもそうだ。


 同年代の女子と会話する機会がほとんどなかったのだから無理もない。男子に至っては余計に話さなかったのだから、接し方すらわからなかった。


 今、同じ二年生の男子は二人。一人は一年生の時から一緒の、二つ歳上のピアノ弾き。ニヒルな雰囲気を醸し出しては人をからかう彼の事は苦手だった。そしてもう一人。

 どうしても彼の事を考えるとあの演奏を思い浮かべてしまう。自分に足りないものを感じれば感じるほど、最後まで聴きたかったと願わずにはいられなかった。


「弥生ちゃん、おまたせ」

 若干息を切らせながら真由美が教室に入ってきた。出産してから一年以上は経っているはずだが、それでもその体で職員室のある二階とこの四階を往復すれば疲れるのも無理はなかった。

 落ちた体力で自分の為に一時間も時間を作ってくれた事が、急に申し訳なく思えてくる。

「それで、今日はこの間の続き?」

「ううん。臨時でお願いしたいのは新しい楽譜を買ったからで。クラシックじゃない曲です」

「春月くんと買いにいったやつ?」

 ハルキ、という単語に指がピクリと動いた。彼と買いに行った楽譜。彼が好みそうなジャンルの楽譜。

「弥生ちゃんらしくない本を買ったんだねぇ」

 ピアノの譜面台に立てかけてあった楽譜を手に取って、真由美が大げさに驚いてみせた。確かにこんな楽譜を買ったのは初めてかもしれない。クラシックの他にディズニーや流行歌のピアノアレンジの楽譜なら買った事はあったが、癒しだとか大人の、だとか、そういったジャンルで始めからピアノ用に作られている楽譜を買った記憶は少なくとも弥生の中にはなかった。


「勧められたの?」

「ううん。自分で選びました」

 珍しいねぇ、と元々大きい目を丸くしながら真由美が楽譜をめくっていく。楽譜を見るとき、先生にはどんな景色が見えているのだろう。周りの人にはわかってもらえないかもしれないけど、音楽の先生になるくらいの人なら自分が楽譜を見ている時に見える景色も、もしかしたら共有できるかもしれない。


「影響された?」

 その言葉に返す言葉が見当たらず、うーんと間を濁してみせる。影響されたと言われれば間違いなくされているだろう。でも彼のピアノは技術的に見ればお世辞にもうまいとは言えなかったし、ピアノを始めたのもつい最近だと言っていたから、素直に影響されたと言うのはなんとなく悔しかった。


「不思議な魅力があるよねぇ、あの子のピアノ。本人は黙っちゃって、あんまり喋ってくれないのに」

「先生も聴いたことあるんですか?」

 こうして話に上がってくると食いつかずにはいられなかった。真由美先生はどんな曲を聴いたのだろう。それはどんな風に、どんな世界観で奏でられたのだろう。

 そりゃあね、と呟いて、残念そうに真由美は肩をすくめてみせた。

「三十分のレッスン枠、毎回十分で終わっちゃうけどね。でも何ていうのかなあ、あの子はもう自分の世界を持ってる。不思議な才能だよね」

 不思議な才能。自分の世界。どちらも自分だって持っていて、ピアノの技術だって自分の方が上なのに。自分のピアノはどこかで彼に及ばない。


 負けたくなかった。


「それで、どの曲を聴いてほしいの?」

「このプロローグっていう曲です」

 真由美から返された楽譜のページを開く。日曜日のレッスンで言われた事や自分で気付いた事が書き込まれていて、このページだけインクの黒が滲んで少し汚れて見えた。

「弾いてみて」

 促されるまま人差し指を黒鍵の上に置いて、弾く前に音をイメージする。プロローグ。始まりと名付けられた曲名の意味はまだ分からない。

 深く息を吸い込んで人差し指を押し込んだ。何か壮大な物語の、静かな一ページ目をめくるように。



ここから第一節のラストへと続いていきます。


pixivにも投稿しています。


https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8261844

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