Bleu nuit
*
次のレッスンはクラシックをお休みしよう。
そんな事を思いついたのは、ピアノを弾く手を止めてベランダで月を眺めている時だった。譜面だけ見ればなんてことはない、三日もあれば暗譜して弾けそうな曲だというのに、これは自分一人ではどうしても完成させることができない。そんな思いに駆られたのだ。
真っ白な壁紙で埋め尽くされた部屋に大きく居座るグランドピアノに反射して映る自分の顔は疲れている。ピアノが綺麗じゃないと綺麗な曲なんて弾けないから――。そんな事を言いながら、祖母が自分に気を遣っていつもピカピカにピアノを綺麗に磨いてくれているお陰で、こうして離れていても鏡のようにピアノが自分の顔を映し出してくる。
音楽は自分の心を映す鏡とはよく言ったものだ。
普段弾かない曲というのは、どうしてこんなにも心に負担をかけるのだろう。さっき譜読みの為に点けてそのままにしてあった机のライトを見て、弥生は大きくため息をついた。
今の自分に足りないものは感情表現。レッスンの度に言われるせいで言葉ではよくわかっているのに、それが一体どういう事なのかいまいちよく理解ができない。いくら強弱表現を大げさにして音色を変えてみても、あるいはテンポを揺らしてみても、先生の言う言葉は変わらなかった。
やろうとしている事は分かるんだけども、どうしても弥生ちゃんのピアノからは感情というものが感じられないのよね。
どうすればその感情が音色に載せられるのか。一体どんな指の動きをすれば良いのか。学校の担任の真由美先生も、師事しているピアノ教室の先生も、こればかりは体で覚えるものと言わんばかりに、肝心の所を教えてはくれない。
その大事なところを覚えないままここまできてしまった。技術的な事はどんどん覚えていくというのに、この指は自分の複雑な頭の中を表現するのに必要なことだけ頑なに覚えようとしなかった。
どうすればいいのだろう。小さい頃からそればかり頭の中で反復し続けて、ようやくその答えを運んできたのが彼だった。
細かくて小難しいモーツァルトの曲ではない。あの曲名もわからない、恐らくは外国の作曲家の簡単なピアノ。ゆったりとしたテンポで揺れる、朝焼けとも夕焼けともつかない海を連想させるその曲の中に、弥生が求め続ける答えが転がっている気がしたのだ。
この一カ月、あの演奏ばかり思い出す。最後まで聴けずに終わった曲。次第に乱れる息遣いとテンポ、苦しそうに変化していく顔と音色。
それすらも複雑な感情が絡み合って生み出された曲の一部なのだと思うと、この不思議なもやもやは弥生の中で大きく膨らみ続けた。
別れ際に彼が言った言葉をもう一度思い出した。
お前にあんな面があるなんて。もっと見てみたい。
私の音楽。決して単調ではないはずなのに、まるで機械の演奏だと講評に書かれる音楽。色んな面――私のどんな面を見て、彼はそんな風に思ったのだろう。
そういう自分だって、自分自身の全部を知っているわけではなかった。
ああ、どうして自分はこうなのだろう。
もっとうまくなりたい、と思った。
楽譜をなぞるだけじゃない。音に、言葉ではうまく伝えられない自分の気持ちを載せて表現する事ができたらどんなに楽しいだろう。音を通して自分を見つめることができたらどんなに楽だろう。
楽譜をめくりながらそう考えていた。
子洒落たタイトルに似合った旋律の数々。それを頭の中でなぞっていくと、楽譜のページが色とりどりの絵本に見えてくる。
自分には見えているのだ。楽譜に書かれた絵や景色が、解説を見なくともそのままページに描かれていて、鍵盤に触らなくとも作曲者の描く世界がそのまま自分の頭の中に映りこんでいくのが。
その景色が見えない他の皆に伝える術を持っていないのが悔しかった。
一度指を止めてしまうと、また鍵盤を撫でるのが辛くなってしまった。確か多動性といったか。小さい頃から言われていた落ち着きのなさを、医師はそう説明していた。
重い腰を持ち上げて部屋に戻ると、ベッドに仰向けに倒れた。発達障害と診断されたのはもう二年半前になるのか。最初こそ悩みはしたものの、他人と話ができない事だとか他人とは違う世界観を持っている事を考えれば、その診断結果に納得するのにそう長い時間はかからなかった。
何よりもその時告げられた診断結果に、納得できなかったことが他にあったせいもあった。
他の人には見えない、自分だけのともだち。気が付くとか気が付かないとか、弥生がそんな感情を覚えるよりも先に彼女は弥生の中に存在していた。何をするのもどこへ行くのも一緒で、自然に隣に立ってはアドバイスや共感をくれたり、悩みを聞いてくれたりもした。
外の友達を作らずに黙り込んでは自分の世界に浸る弥生を両親が気に掛けることはなかったし、弥生自身、いつも一緒にいて自分という存在を理解し受け止めてくれる存在がいるのは気が楽で、それがどんなに他人と違っていようと気にかけもしなかった。
イマジナリーフレンドという単語を知ったのは中学校に入学した後の事だった。空想の友達。まだ物心つかない子供の前に現れては、遊び相手になって子供の人格形成を手伝うのだという。そうして子供が自立した後は、自然にその姿をどこかへ消してゆく――。
<消えちゃうんだって。あき姉ぇ、消えないね>
<やよちゃん自立してないじゃん>
図書館で考え込んでいた弥生に、暁はそう言った。当然の事のようにそう言った口調は迷っているような、彼女なりの悩みを感じさせる。
<一人でやっていけるの?>
実際、弥生が大きくなってからも暁達はよく彼女をサポートしていた。中学校に入っても友達ができない事を気にしている弥生をよく励ましてくれたし、両親の暴力からも守ってくれた。彼女がいなくなったら、自分は生きていけなくなる。子供ながらにその事はよくわかっていた。
電気も消さずに目を閉じた。
もう一度考えをピアノに戻す。
――どうして私のピアノはこんなにもつまらないのだろう。
自分に問いかけるように心の中でそっと呟いた。このまま一人で考え込んでいたら頭がおかしくなりそうで、そのともだちに相談したくなったのだ。
「別につまらなくなんてないと思うよ」
その答えは決まって弥生に気を遣っている言葉だった。
弥生は、さっきまで眺めていた怖いくらいに丸い月を思い浮かべる。きっと彼女――早見暁を何か景色で表現するならあんな感じなのだろう。
「あき姉ぇは姉妹だからそんな事を言うんだよ」
「ひどい。本心なのに」
微笑む気配がした。
彼女がただの姉ではない事は弥生自身が一番よく知っている。家族であって、姉であって、自分にとって守り神のような存在であって、自分であって自分ではない他人であって。
「ねえ」
小声で、今度は口から言葉に出してみる。
「あき姉ぇは、彼のピアノをどう思う?」
「別に、なんとも。ピアノじゃなくたって、何とも思わないよ」
どこかで自分の事を見透かしている暁の答えに、弥生はただ、そうとだけ呟いた。
弥生の視点から物語は続きます。
淡々とピアノに、そして音楽に向き合う彼女の内面を描きます。
第一節はまだ続きます。
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