乙女の祈り
――なんて良い天気。
電車に揺られながら、次第に焼けていく空を見ていた。さっきまで途切れながら浮かんでいた雲は風に消え、青とオレンジのコントラストが空を彩っている。
むこうの市とは違ってごみごみとした建物が立ち並ぶの中でも、空は同じように高く水のように澄み切っている。そんな空に、別れ際の浅田の言葉を重ねていた。
お前にあんな面があるって、意外だった。もっと見てみたい。
もっと見てみたい。その言葉にどんな意味があるのか弥生にはよくわからなかった。人の言っている事、行動や表情が示すものを理解するのは昔から苦手だった。無神経な言葉で人を傷つけるのはよくある事で、人の言った言葉の意味を理解できないせいで鈍い奴だと非難されることもよくあった。彼の言葉が理解できないのもきっとそのせいだと思う。
言葉を遣わずに音楽だけで語り合えたら楽なのに。
叶わない妄想を一瞬頭に浮かべて、弥生は小さくため息をつく。
ピアノは弥生にとって体の一部であり、唯一人に誇れる特技でもあった。祖母の勧めで三歳から習い始め、幼い頃から小さなコンクールで何度も賞を取り、中学の頃には全国大会に出場したこともある。あまり両親はその事で弥生を褒めた事はなかったが、祖母だけは練習する弥生を励まし、時には大昔に自分が培った技術を弥生に教えもした。
会話が苦手な弥生にとって、祖母は――ピアノは、唯一の外の世界との繋がりだった。
電車が速度を緩めていく。また戻ってきた。
こっちより向こうの方が好きだな。
窓の外で流れていくビルは弥生の好きな景色ではなかった。スーツを着込んだ大人は下を向いたりスマートフォンをいじったりしていて前を見ていない。それを見ても体が小柄だから押しつぶされそうだとか息苦しいといった感情を浮かべたことはなかったが、前を見ない大人の中を歩いているといつか自分もそうなるのだという得体のしれない感覚を嫌でも思い起こされて過呼吸を起こしてしまいそうになる。
自分を気になると言ってた彼もよく下を向いていた。
別れ際に不思議な言葉を投げかけてきた彼。いつも苦しそうに微笑む表情の下に、なにか重いものを背負っている彼。
別れ際の言葉が異性としての好意ではないことくらいは分かった。なんとなく直感がそう告げているだけなのだが。
自分の彼に向けるこの感情は何なのだろう。転校してきた彼の第一印象は、背が高くて、良く言えばクールで悪く言えば暗い人だった。冷たくて怖い人かもしれない、そう思った。しかし隣に座ってガイダンスを受ける彼が時々嬉しそうだったり悲しそうだったりと色々な表情を浮かべるものだから、そんな人間の奏でる音楽はどんなものなのだろうと気になって声をかけたのだった。
実際、彼はモーツァルトの次々変化する曲調をよく弾きこなしてみせた。細かく見れば音の粒はそこまで揃っているとは言えないし、指が回りきらずに所々遅れたり、テンポキープも若干甘い。それでも彼の感情表現――特にピアニッシモの繊細さ、dolceの甘くて優しい歌い方に彼の本質、心の中にある彼の暖かく優しい一面が見えて、思わず聞き惚れてしまったのだ。
表現力。普通ならその一言で片づけられてしまうそれが、弥生が今もっとも欲しているものだった。今のクラスに自分よりもピアノを弾ける人間はいない。それは彼も同じで、技術だけで見ればいくらでもいる大勢の中の一人に過ぎなかった。だというのに、彼のピアノには技術だけではない、言葉でも言い表せない不思議な魅力があった。
乗務員の声で我に返った。
いつの間にか電車は止まっている。他の客はもうみんな降りて、運転手が清掃の為に見回りをしているところだった。急いで鞄に買ってきた楽譜を詰めてから、ごめんなさいと立ち上がる弥生を、年老いた小柄な乗務員が怪訝な目で見ている。その視線が怖くて思わず電車から飛び出してしまった。
ここが終点で良かった。危うくまた乗り過ごすところだった。
考え事をすると周りが見えなくなるのは弥生の悪い癖だった。大抵はピアノと音楽の事。高校に入学してからはクラスメイトの事もまたよく考えるようになっていた。
ヴァイオリンで音大を目指す子。吹奏楽をしていたが、周囲と打ち解けられず高校は通信を選んだ子。自分と同じく小さい頃からピアノを習っていたが、両親の離婚をきっかけに不登校になり今の学校を選択した子。いつも明るい笑顔で授業をして、悩み事をなんでも聞いてくれる担任の先生。
一カ月前、その中に飛び込んできた彼は――。
いや、もうやめよう。これではまるで恋する乙女ではないか。
改札を抜けて駅の東口を目指した。夕方だけあって駅の構内はひどく混雑している。歩きずらかったが、学校や会社から解放されて嬉しそうにしている人々の中を歩くのは嫌いではなかった。
自分が変わり者なのはもう知っているし、変わっていると言われるのもなれっこだ。
駅を出て、二階になっている歩道橋デッキも通り過ぎると、人の波もだいぶ穏やかになる。頭上を埋めるビルは嫌いだったが、所詮はこの田舎。五分も歩けばそんなものは視界に入らなくなった。
そうして駅から少し歩いたところに、祖母の家はある。少し狭い道に入って通りから離れた所で車の音は気にならないし、駅から少し離れているから空気も汚くない。酔っ払いだって、わざわざこっちまで歩いてはこない。
そんな祖母の、今は自分の住んでいるこの家を弥生は気に入っていた。
ただいまとだけ短く言って廊下を横切った。祖母は台所か。料理の匂いを嗅ぎつけて、手も洗わずに廊下の突き当りを曲がった。
「ただいま、おばあちゃん」
祖母は自分と同じで小柄、パーマがかかって広がった髪はまさしく日本のおばあちゃん、といった雰囲気だ。細い腰に花柄の赤いエプロンを巻き付けて、台所で野菜を切っている最中だった。
「おかえり弥生。一人で楽譜は買いに行けた?」
「ううん、クラスの人が付き合ってくれたよ」
「エリカちゃん? 前橋だから……クルちゃんかな?」
おっとりした口調で、野菜を切っていた手を止めて祖母が記憶漁りに夢中になる。あまり物を覚えるのが得意でない祖母だが、高校に行ってようやくできた弥生の友達を覚えるのだけは早かった。
「ううん、先月転校してきた人。前橋に住んでるの」
「あれ、男の人? やよちゃんにも彼氏ができたの」
「違うわおばあちゃん。前橋に住んでただけだから」
そうかいそうかい、と言って、祖母が再び野菜を切る手を動かした。
「ピアノが弾けない人だっけか。仲良くなれそう?」
「うーん、わかんない。今度ピアノ弾いてあげるんだ」
「やよちゃんが? 珍しいねえ」
祖母が小さな肩をクスクスと揺らした。
「珍しいかなぁ。よく弾いてあげるよ。今のクラスの人に」
「じゃあ今度は私にも聞かせてな」
「うん。じゃあピアノ弾いてくるね」
そう返して、一階の奥にある自分の部屋を目指した。買ってきた楽譜を少しでも早く音にしたくてうずうずが止まらない。
「手ぇ、洗うんだよ」
ああ、そうだった。
こうして細かい事まで面倒を見てもらわないといけないのも、悪い癖だと思った。
第一節のテーマ。ここから後半に入っていきます。
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