未踏 2号 「あの時」
あの時
日が照ったり、雨が降ったりの変な日が暮れて、夜散歩に出たら、街には強い南風が吹いていた。生あたたかな、顔や身体にまとわり付いてくるような、人なっこい風。いつか浅虫の海岸を歩いていたときの風を思い出した。黄色い山肌と変に明るい空。人一人通らない海岸添いの道。あてもなく歩いている僕を、包むようにその風は吹いていた。
あの時
日が照ったり、雨が降ったりの変な日が暮れて、夜散歩に出たら、街には強い南風が吹いていた。生あたたかな、顔や身体にまとわり付いてくるような、人なっこい風。いつか浅虫の海岸を歩いていたときの風を思い出した。黄色い山肌と変に明るい空。人一人通らない海岸添いの道。あてもなく歩いている僕を、包むようにその風は吹いていた。
ふと君に手紙を書いてみたくなった。とあるファミリーレストランに入り君に想いを寄せる。
僕は生き延びて来た。今僕は生きて君とこうして語れるのが嬉しい。実に僕らは生き延びてきたのだと思える。この生き延びて来たという実感が僕に不思議なあの時を蘇らせる。
あの時。今まで馴れ親しんできた自然や、物、人々、それに望み。それら全てが意味を失った。意味は生まれ落ちたその時から、否定しがたく教え続けられてきた。初めて目にした景色の深さ、手を伸ばし触れた玩具達の重さ、あらゆる物が不思議であふれていた。
襲う空腹と充足。人や物を通して、刻々に自分が物と必要性の関係において在ることを知らされた。
物や風景は、自分が在ることを確かめる為の意味だけてあって欲しかった。虫や草花は同じ生きる者としての伴侶の意味と、彼等の生活の不思議さだけを示していて欲しかった。
不思議さだけが全ての意味だったのに、人々と比べてのものだったが、しだいに望みや実現したい自分の姿を思い描き、僕らは生き始めてしまった。生き始めると同時に不思議は消えて、物達は望みを実現する為の道具としての意味を持たされた。作られた意味にしかすぎなかったものだったが、意味が消え目まいとともに不思議が蘇ったあの時。
あの時を僕は君といつまでも共有したいのだ。
教えられた意味がどこかで信じられなかった僕だった。太陽が人や草花に光と熱を、草花は人や動物に酸素と栄養を。意味は全て何かの為に用意されていた。仕組みにしか過ぎないものに意味が与えられていた。木も石も風も意味など無いのに、僕自身でさえ意味など無かったのに、意味が在ると教えられ信じようとして来た。生き延びた今、はっきりと全ての物の無意味さが解る。夏の日盛りにひまわりの黄色、彼ら人の為に輝いているのではない。朝の鳥のさえずり、鳥達だけの話。木も石も人間どうしであってさえも互いに意味など無かったのだ。君も僕も恋をした。その時感じた物達との関係は知っている。その時の物達、いつもと変わりはしない。ただ君や僕が恋という未知に遭遇し、錯覚していたからに過ぎなかったのだ。未知や不思議さが物を一瞬美しく見せただけなのだ。不思議の目で物達を眺め続けられるなら、人はその時を連続させることが出来るだろう。が、人の営みとは不思議を忘却しいくことに外ならない。
君は僕のこんな青くさい実存解釈を笑わないだろうね。これから僕が語ろうとしている、あの時を共有した仲なのだから。
あの時、失恋がきっかけではあったが、君に電話した日、破綻は決定的だった。僕は彼女を得ることで人生に意味を見い出そうとしていたのだが、それは彼女にとっても両親にとっても迷惑なことだったのだ。十分に必要性における意味を知っている彼等にとって。僕の付焼刃のような行動は、彼等を不安に落としいれていた。僕が必死になればなるほど僕の本質は白日のものになり、あんなに家から出たがっていた彼女さえも、僕を訝るようになっていたのだった。僕は初め、意味ではなく彼女に美を見つけていた。彼女の控えめな笑顔に、周りの女友達とは違った関心の狭さに、彼女の押さえられた希望を感じとっていたのだ。僕において、快活や希望があるわけではなく、彼女の外見に漂う明るさを頼りに話しかけたのだった。
僕は確かに彼女の中に美を見つけた。かって、自分にもあった、よりよく生きようとした少年期の魂を思い出していたのだと思う。出身中学校を訊ねたとき僕は彼女との関係の中に入っていった。隣町の中学だった彼女と、地理や出来事が重なり関係を呼び戻した。記憶の中で僕は幸福感を味わった。色彩の失われていた過去の風景の中へ、彼女が彩りをもってやって来たのだった。
彼女の希望はキャンバスの色ではなく、草花の生きている物だけが持つ色の光だった。生き物として誰もが持つ光だったのに、そのとき僕は彼女の中にだけその光を見つけていたのだった。それは彼女が僕の中にもあった同じ光を見つけてくれたからだった。僕は彼女と手を握る事が出来たし、笑わせる事だって出来た。彼女もまた僕のそんな取り戻す明るさに増して輝いた。
彼女の希望、それは家を出る事だった。病床の義母、酒呑みの父、まだ中学生の義弟と小学生の義妹のいる家を捨てて誰かの所へ。家を出ない限り誰の所へも行く事が出来ない。
家から連れ出してくれる誰かを待つ彼女だった。
僕がその希望の役割を担うことになった。僕は君も知っているように、意味を与えられれば、自分の必要性さえわかれば、不思議なエネルギーを発揮するものだった。何をも恐れず、意味と必要性の限り、省みる自己を持たず立ち向かうのだった。
母は病気といっても慢性の腎臓病だったし。酒乱の父は、彼女の母を病死させた憎むべき男だった。戦う理由は充分そろっていた。彼女は罪をもたない。罪をもつのは彼等なのだ。僕はためらう彼女を制止して、彼女の家に乗り込んだのだった。
「彼女は僕と結婚します。彼女は家を出て僕と住みます」
僕はその時彼女を連れ出すことだけを考えていた。彼女が僕と結婚をする。彼女が家を出て行く。だから何も干渉してくれるなと言っていたのだった。
昼間から呑んでいたその男の開口吐いた言葉は「仕事は何をしているのかね」であった。
僕は自分の結婚の資格など考えたことはなかったし、結婚は彼女のことであり僕の資格など関係のないものと思っていた。彼女の意志だけで充分だと考えていた僕は、突然「お前は何者だ」と問われ、回答の出せない質問を浴びせられたように当惑した。
僕は一体何者なのか、答えを探して漂っている身であった。
「そんなこと関係ないでしょう」
結婚を申し込む僕が吐いた言葉だった。
「家具のセールスマンなんですって」
彼女のとり繕う声があつた。
「セールスマンか」
男は気抜けしたような、軽蔑にも値しないというように、今まで酒を呑みながらも威厳を崩さず、用心深く僕を観察していた眼に笑いさえ浮かべた。
「セールスマンで何が悪いんだ」
僕はセールスマンをしている自分が貶められたなどと思っていなかった。僕は他人に貶められるほど卑屈ではない、僕はその時初めて貶められている人々がいる事と、人が人によって貶められる事に対して怒ったのだった。
「貴方は何ですか、昼間から酒を呑んで、洋子さんの収入をあてにして、親として恥ずかしくないのですか」
僕は正しさを確信していた。悪いのはこの男だ、救われらければならないのは彼女だ。
僕は隣の部屋で寝ているという義母の分までと、喰ってかかった。
「君に説教される筋合はない、洋子は家族だ。君は自分の事を心配したらどうなんだ」
男は何の痛みも表さなかった。僕は彼女がその男と、家族にしっかり組込まれていることを知らされるばかりだった。
「ところで、君の家族はどうしているのかね」
家族?僕に家族などはない。突然、僕は自分にもあった家族の事を考えてしまった。
ここまで書いてきて、僕は君以外の読者を意識している事に嫌気がさしてきた。あの時の意味を考え、共有したいという君と僕だけの関係で書くはずだったのに、僕はいつかストーリーを追っている。人生の意味を無意味、存在そのもの、または現存在と規定してもなお残る存在そのものの人生。いかに生きようと変わりはない、規定や意味など問わず実存する人間、いつ費え去ろうと悔やまぬ覚悟をしていたとしても、投企によって主体をもって生きたとしても、交感をもって内的世界を生きたとしても、残る存在とはなんなのだ。
カフカがミレナを求め。キルケゴールが神を求め。ニィチェがツァラトゥストラを創り、カミュが反抗を説く、そしてサルトルは人は本来自由だと言う。が、一体それが何んだ。
何も解決などしていない。社会的、個人的な諸矛盾に対して、一人で立ち向かおうとした時、生き方は決まるが、なお解決しない不条理、無意味。このけっして倒すことの出来ない魔者に立ち向かうことだけが意味のような実存。時々訪れる錯覚だけが救い。涼風のように、それが時に病後であったり、かって信じた理想の名残りであったりするが、圧倒的部分は闇。
先程、散歩をしていて、人の営みにやりきれなくなった。同時に毎日同じ公園を徘徊しているだけの自分の散歩。窒息しそうな狭さへの恐怖に襲われた。変わりはしないグラウンドの人々、木々の緑、砂場の母と子、空気だって風があり涼しい、なのに息苦しく、壁に閉じ込められているような圧迫感。何処か遠くへ行きたい、今のこの時間から逃れたい、魔者から逃れれるだけ逃れたいと思った。が、何処へ逃げたとしても、何をしていても同じ。魔者の手からは逃れる事は出来ない。神は死んだ。何でも出来る。しかしそれは存在の範囲での事。唯一この魔者に立ち向かう有力な方法は、存在をやめる事。かつて一度この方法で戦った僕。解ったのは人の歴史がこの存在という魔者と戦っては破れた挫折の歴史である事。そのことが解っても、存在を続ける限り戦う他ない人間。あの時以来、僕は一人で、僕の戦いを始めた。これは人の徒労であり、人の無意味だったから。
僕は始め、読者や作品に関係なく、あの時を解明しようとしていたのだった。そして君にあの時の意味を理解して貰おうとしていた。君なら、僕のこの理屈ぽい文章も独断的な考えも、理解してくれる、時に一緒になって考えてもくれると思って始めたのだった。僕はあの時、君の「死ね」の言葉で自殺未遂をし、死んだつもりが生きてしまい、君にも助けられた。あの時、「一緒に生きて欲しい」と僕に言ってくれた君だったから、今僕は、手紙という形式で作品を書いているのだった。
なにしろ、僕はほんの少し希望を持ったがために、希望を失くしたのだった。セールスの仕事は、田舎では最も手っ取り早く金が入り、束縛が無かったからやっていただけ、続ける予定も見通しもなかった。東京にいる時は、仕事は何をしていても不安は無かった。
誰もが不安の中で生きていると思えたから。街には浮浪者も住み、彼等の孤独を思うとき不思議な安心があった。が、田舎の人口五万人位の町では、たとえ遊び人風情であっても土地に根をはやし、揺らがず人々と生きているのだった。僕はそんな田舎の張り巡らされた根に窒息しそうだった。妻子に去られたことより、その時僕にはもう行き所が無くなっていた。東京での生活に疲れ、田舎では人の付き合いになじめず、唯一彼女だけが救いになっていた。彼女を救うことによって自分を救いたかったのだ。ほんの少しの希望を抱いたがために、訪れた不安と絶望。彼女と出会わなければ、僕に危機はこれほど早くは訪れなかったと思う。君に心配をかけながらも、いまだに漂うように生き続ていたことだろう。
不安は人の属性なのだから心配はいらない。だが、絶望だけは全ての意味を奪う。絶望してなお人間であり続けるなど、観念上の絶望にしか過ぎない。絶望とは無意味を見てしまうことなのだ。人は他人が見てつまらないと思える事でいとも簡単に死んで行く。サラ金で、仕事上で、育児で、時に病気、ノイローゼと言われるもので、人それぞれによって切っ掛けは違うが、見ているものはみな同じものなのだ。無意味というもの、人は初め無意味であった。それが生きるに従って意味を付与され、自分でも意味が在ると錯覚してきただけのもの。錯覚に気がつき露になった自分の姿が無意味というもの。人の本質が無意味でなかったら人は死ねるわけがない。無知、貧困、が問題ではない。無知、貧困でなくても人は死ぬのだから、人が一人でも自らで死ぬということは、人の本質に無意味というものが在るということなのだ。無意味な者同士が見付けた意味、それが恋愛といういうものに思える。失恋とはその唯一無意味を忘れさせてくれる、人と人との関係においてさえ意味を失うという事なのだ。生まれてより、人との関係において意味を見い出そうとしてきた人がそこで全ての意味を失うことになるのだ。
その日僕は、けっして人がそんな事で絶望の渕に沈んでいくと思えないようなことで落ちて行ったのだった。
「君が本気で洋子に結婚を申し込みたいのなら、しかるべき仲人をたて、双方の家の了解を経てすべきだ。結婚というものは二人が好きになったから出来るというものではないのだ。人には家族というものがあるのだから」
反対をしているのではないと言いながら、男は彼女の前でぼくの本質を露にしようとしようとしていた。
「聞くところによると君は離婚の前歴があり、子供もいるという。その辺はどうするのかね」
「子供は妻の実家ですくすく育っています。僕のような親はいないほうがいいそうで」
僕は妻の別れ際の言葉を思い出して言っていた。
「そうは言っても子供は思い出すだろう」
僕は男に誘導尋問をかけられているようだった。
「君は子供が好きではないのかね」
「そんなことありませんよ」
僕は彼女が無条件に家を出て、僕のところへ来る事を信じて、最初の意気ごみも忘れて男と話し出していた。子供と僕の関係、僕が子供を求めないにしても、子供によって求められる父と子の関係。僕の生後一カ月で死んだという父、僕はかつて母の記憶からも抹殺されている父を強く求めたことがある。幼少期、父さえいればもっと現実に親しみをもつことが出来たかもしれないと。意味を見付けていく中途において父を失った自分の子供の事、僕は子供に僕の二の舞をさせてしまった、救いがたい自分に囚われていた。二重の意味で僕は自分の救いがたさを思っていた。子供に父を演じてやれるなら僕は僕の子供時代を救うことにもなったのに、僕は出来なかった。僕は自分の無意味さの上に罪さえ付け加えていたのだった。
僕はまたしても、自殺など考えたことのない者が一般的に理解出来そうなことで、あの時をとらえようとしている。親の反対や、僕における結婚の条件は重荷ではあった。だが、そんな事が、僕が突然見てしまったものにどれ程の意味があったか。彼女はその後、僕と駆け落ちさえしてもいいと言っていたのだから。
僕は初め、彼女への結婚の意思が僕に希望を感じさた。それが、絶望に変わっていったのだ。彼女の僕への理解が切っ掛けとして全過去が露になったのだ。人生の意味は、本質的に疑っていた、その僕の無意味がはっきりとしてしまったのだ。信じる事が出来ないのに結婚をし子供までつくった。そして再び同じ無意味を繰り返そうとしていると。
君はそんな僕を昔から信じることが出来ないようだった。君と知り合ったのは高校時代からだったが、君は生活者だった。親元を離れた君は一人アパートを借りて生活していた。
君の招きに応じて訪ねた六畳のその部屋には、コンロや食器棚、本箱、ステレオと物達がひしめきあい、壁には切り抜きの絵なども貼られ、君が物や生活を愛していることを知らされた。僕はといえば、現実というものがいつも何かのための準備のように思えて、親しめなかった。従って僕の部屋には、本箱もなければレコードプレーヤーも、現実を享楽するような物は何一つなかった。君が僕の部屋を訪ねて驚いたのは、部屋の狭さより勉強机もない、蒲団と鞄一つの生活のようだった。「何もないんだね」と暫くしてから言った君の言葉を今でも思い出す。僕は未だに物を揃えるのは苦手だが、君の部屋を最初に訪ねた日の印象を始めとして、次々と人と自分の違い、生きている実感の乏しかった自分の人生というものを思い出して行った。好きになって結婚したのではあった。子供も欲してつくったのだった。それは、何かのための準備ではない僕の初めての現実だった。その現実は僕に物と生活を愛することを強いた。僕は乞われるまま従った。が、それは僕の努力でしていることだった。綺麗だと思って買った鉢植えを、一週間後には枯らしてしまう水やりのように、努力を怠ると毀れてしまうものだった。現実が何かのための準備であるように思えてならなかった僕は、永くは努力を続けられなかった。
僕は彼女が駆け落ちをしてもいいと言ったとき、人生の無意味を思い出してしまったのだ。人生が何のための準備なのかを、見てしまったのだった。僕が幼少よりしてきたこと、それは死への準備だった。準備のための現実を、物に親しみをもつことで、人と関わって過ごすことで忘れるようなことはなかった。いつも靄のようにかすんでみえた現実。僕は認めたくなかったのだ、感じたくなかったのだ、物の意味や価値を。人が死への準備のために生きなければならないなど、絶対認めたくなかったのだ。が、僕は知らず知らずに認め準備をしていたのだった。彼女が切っ掛けではあったが、僕ははっきりと知ったのだった。唯一僕に残された意味があるとすれば、準備をやめること何かのために死ぬこと。その何かが君だった。君は僕の死を引き受けてくれると言った唯一人の人間だった。君は僕の人生の無意味への反抗をいつかきっと理解してくれると。
君に睡眠薬を呑みながら電話をかけたとき、ふと思ったことは人の死など生きている者が、二十年も会っていない知人友人のことを考えるようなものだと。死んでいるのか生きているのかも解らないが、その人間を知っているという関係だけだと。僕に親しい人間などいなかった。もともと僕自身も僕においても人は死んでいるようなものだと。死とは生きている人間の意識だけであって、それも百年前の人間の死などもはや死ではない。何処にも人の死など残ってはいないのだ。僕はせめて君の生きている間だけでも、僕の死を残そうとしたのだった。
僕は酒を飲みながら睡眠薬を呑んでいた。あの時、僕に山の緑も、空の青も浮かばなかった。忘れることが出来なかった人生の無意味、徒労感。僕は人の虚しさに泣いていた。
薄れる意識のなかで、僕は君に別れを告げていた。
昏睡してからのことは何もしらない。猛烈な吐き気と頭痛で目が醒めた時、ベッドの横にはおふくろがいた。何も知らないおふくろは、僕を助けてしまった。僕は再びは生きたくなかった。おろおろするおふくろに怒鳴り散らし、人や物にあたり続けた。
翌日、僕の死を引き受けた君がやって来た。唯一の僕の死の保証人である君を、僕は敵意をもって迎えた。生きてしまった僕には、もはや君は保証人ではなかった。が、君はあくまで僕の保証人であり続けようとしていた。君の「本当に死ぬ気だったのか」の言葉は僕に喜びを与えた。君が、まだ僕の死の確かな保証人であることが嬉しかったのだ。
散歩に出た喫茶店で僕は「どちらでもいいことなんだ」と言った。君はどこまで僕が死を意志していたのかが問題のようだったが、人の死への意志に量などない。僕は君の期待に応えられなかったことだけを悔やんだ。考えたつもりだったが正しい睡眠薬自殺の方法ではなかった。が、僕はその時もうどちらでも良かったのだ。他に方法はいくらでもあったし、再度の反抗を決めていたのだった。「今度は失敗しないから」僕が意志を示した時、君の態度は急変した。「僕が悪かった、許して欲しい」と、僕の死を自らの罪のように受け取る君だった。「死なないで欲しい、一緒に生きて欲しい」とも、死の保証人が僕の生の保証人になるべく、僕の死を自らの死のように哀訴するのだった。
僕は僕の死を君に残そうとしたが、それは君の意識上のことで、僕の死は以前として僕のものではあった。君が僕の手を握るに及んで僕は死を一時保留しようとした。君が僕の死だけではなく、生をも引き受けようとしていたから。君の涙とその後の笑顔を見ていると僕は幸福だった。僕は一瞬、物の無意味も、無関心も、死の準備のような人生も忘れていた。君が僕の目の前で今を生きていることが不思議だった。空も山も人も、存在そのものがその時僕の目の前に在ることがたまらなく不思議だった。世界は不思議で構成されているとさえ思えた。人生はこの不思議さが感じられるだけで充分だとさえ思えた。この時の不思議を僕は未だ君に伝える方法を知らないが、僕はその時、君の徒労、君の無意味を僕も一緒に生きようとしたのだった。
以来僕は君と生き延びて来た。君に伝えたかったこと。物も人も、あらゆる自然、存在は人にとって何の意味も持っていないということ、人が勝手に意味や理由を付けてきただけ。何か意味があると錯覚しているだけ。絶望を考える時、死を考える時、それははっきりとする。人と物との関係を意味付けにおいて考えるから、罪などというものをしょい込むのだ。自然において人は関係はないのだ。人がいなくとも万物は生きていける。人が種としも絶滅した後に何の意味や目的があるとするのだ。自然は人の意味や関係など記憶しはしない。人にとって意味や価値があるのは生きている人間においてのことなんだ。この生きてる人間において、最も価値と意味があるものとすれば、それは無意味の理解なのだ。
無意味の理解だけが人に勇気を与える。自然が勇気あるのは、彼等意味付けではなく無意味を行っているからなのだ。人以外の生物においての勇気の源泉、それは意味や目的を持たない中にあるのだ。
今君と共有したいもの、この自然において無意味、無関係な者同士の意味と関係をしっかりと結びたいということなのだ。この世界に投げ出された存在しなくともいい人間同士で、一人でいいのだ。この世界で自分たちの無意味を確認しあった上で、結び合う人間が。
僕が今生きて、この無意味と戦おうとしたとき、君に対する僕の絆をどうしても確認しておきたかった。君は僕の申し入れを受け入れてくれるだろうね、あの時を何にも替えがたいものとして共有した仲なのだから。
君に長い手紙を書いているうちに深夜になってしまった。店内に客はポツン、ポツンといるばかり。くすんだ橙色の明かり照らされ、アベックが顔を付き合わせ、小声でヒソヒソと無意味を話し合っている。
了
G線上のアリア
「もう僕は駄目だ」
Kは涙声で繰り返すばかりだった。
予期していた事とはいえ、私はKにはうんざりしていた。
離婚の痛手から立ち直るようにして育てて来たKの恋が、暗礁に乗り上げていたのだった。
「今、彼女を失ったら僕は絶望だ」
数日前、私を訪ねた時の、Kの言葉だった。
恋人はKより十歳ほど年下で、可愛相な境遇の娘なんだと言う。可愛相な者同士が引き合わされたようにして結び合った愛なのに、恋人の父親が、Kの離婚の前歴や、定職の無さを理由に妨害をはかっているのだと言った。
私は、二人の意志がはっきりしてさえすれば家を出て来ればいい事だし、親の理解はそ後の事で、先ず彼女の心をしっかりと捕らえることだ。と恋人の居るKの故郷へ送ったのだった。
「しっかりしろよ、高校時代、あの、どんな事にも恐れずぶつかっていった、あの勢いで 」
私はじれったさをこらえ、Kを励ました。
「もう駄目なんだ」
Kは泣きながら繰り返すばかりだった。
「死ぬなら死ねよ 」
私はKの意気地の無さに、遂には腹を立て電話を切っていた。
どうしてやる事も出来なかったし、離婚してまだ間がないというのに、私にはKの神経が解らなかった。
「行ってあげたら」
電話の側に居た妻が言った。
「いいんだよ、Kみたいなやつ」
私は・ 離婚の子・ であったし、Kを悲しむ前にKの二人の子供を悲しんでいた。
その日、私は何も手につかなかった。
考え込む度に、妻はKの所へ行くことを勧めた。
夜、私はKの実家の方へ電話を入れた。「死ね」と言ったKとは口をききたくなかったし、Kの母に先づ様子を聞いて見ようとした。
「今、病院から帰ったところなの、今日私が帰って来なかったら、死んでいたところだった」
Kの母の息堰切った声があった。
Kは睡眠薬自殺を計っていた。
翌朝、私はKの故郷であるY市へ向かった。
急行で行っても八時間、いつも不便なY市だと退屈した車中だったが、その時ほど時間の立つのが早いと思った事はなかった。
私はKを死に追いやろうとした。そのKが助かった。何をしてやったら良いのか、Kのために何が出来るのか、私は考えなければならなかった。
Kは母と、駅へ私を迎えに来ていた。
青黒い死斑のような跡を、頬の落ちた顔に浮かべてKは立っていた。
「出歩いても大丈夫なのか」
私はやつれ果てたKの肩を、ぎこちなく抱いていた。
「ああ、大丈夫だよ」
Kはボソッと呟くと私から逃れて後ろを向いた。
Kの母は私とKを見守るように立っていた。
「君のために僕はこうしてここに居る。君が元気になるまで僕は付き添う。これが僕に出来る唯一の事だと思うから」
私は、Kにしてやれることは何より一緒に居てやることだと思った。
だがホテルへ着いてからのKは、失敗した口惜しさ、彼女への憎悪、絶望など少しも無かったように、人の死など何んでもないことのように、矢つぎ早やに話すのだった。
私とKはKの母が手配しておいてくれた、Y市郊外のホテルへ車で直行した。
Kの身体が見るからに痛々しかったから。
胃の洗浄をして、栄養注射だけで食事を何も受け付けないとKの母が行っていた。
私は車中彼女とのその後の経過、自殺未遂の事など、過去は聞きたくないし、Kも話さないで欲しいとたのんでいた。
私はKに又してもうんざりしてしまった。
「もういいから、解ったから」Kは本当に死ぬ気だったのだろうか、未遂に至ることを計算していたのではないだろうか、私はKに愚弄されているような、たまらない気分になった。
Kは私のそんな気分を感じてか、押し黙った。が、気まずい雰囲気になってしまった。
私は、Kはまだ興奮から醒めていないのだ、間違うば死ぬところだったのだ、と思い直しKを気分転換に、川沿いにあるという喫茶店に連れ出した。
外は身体にまといついて来るような闇だった。蛙の啼き声と、私とKの鳴らす下駄の音が闇の中に響くばかりだった。
私はKに何も話せなくなっていた。Kは絶望の淵にあり、私に救いを求めていると思い駆け付けた。だが、絶望もしていない、Kは私になど何も求めてはいない。
Kも私のそんな気持を察してか、うなだれて語らなかった。
川沿いの道に出た時だった。
「蛍だ!」
私は葦の茂みを飛ぶ数匹の蛍を見付けて言った。
「あっ、あそこにも」
私は何年ぶりかに見る蛍に一人興奮していた。
「うん、ここは昔、蛍川って言うぐらい、蛍が生息していたんだ」
Kが重い口を開くように、暫くして設明を加えた。
「蛍の群舞いって見たことある?」
私は以前本で知った、幾千の蛍が繰り広げる光の饗宴を思い出して聞いていた。
「小さい頃、何度か見たよ」
Kは蛍に余り興味を示さなかった。田舎にいて珍しいものでもない光景であろうが、私がふと見付けた安らぎに共感することもなく、私の質問以上は応えず歩き続けた。
川面に灯りを映した瀟洒な店があった。黄色いランプが下がり北欧風の白壁と、漆黒の梁材がむき出しになった、閑静なその店に、客は私とKの他はなかった。蛍の川と闇の中の一軒家、私は幻想的な雰囲気の中で、Kは本当に死にそこなったのだ、そのKが今、生きて私の目の前に居るのだと思いたかった。
Kは自分から話しかけてくる訳でもなく、相変わらず黙り続けていた。
「本当に死ぬ気だったんだろう」
私は思い余って言っていた。
Kの瞳が白く光ったかと思うと、涙をうるませ私を睨んだ。
私は「死ね」と言った以上の残酷な自分を見付けていた。
「ごめん、僕が悪かった」
私は自分自身が嫌になっていた。Kの腑がいなさからではなく、Kに対し、他人に対し、いつも容易には素直になれない自分自身がだった。
Kが本当に死んでいたら、どんなだったんだろう。精神病だった父の死を願ったように、私は数年もすれば忘れたのだろうか。いや、Kにだけは悔恨を残しただろう。私は過ちを二度も冒すところだった。
「僕は人を愛せない、僕は心から君のように、男らしく人を愛せる人間になりたいと思ってきた。別れた妻も僕は必死で愛した、でも僕は駄目なんだ。愛せないんだ。今回の彼女との事も、自信が持てなくなってしまったんだ。僕は駄目な男なんだ。僕は人を愛せない不能者なんだ。悩んだ末、僕に残されているものは生命を懸ける位しかなかったんだ」
Kは店員や私をはばかることなく、泣いて語った。私は嘗て、Kの此れ程の嘆きを聞いことがなかった。
「許して欲しい」
私も泣いていた。Kは愛されたかったのだった。母のように人から愛され、人を愛したかったのだった。私にとっても愛の形はKと変わりはなかった。養護施設で育った私は、未だ二児の父親となっても、妻をどこかで母に見立てているところがあった。
Kは幼児期、母が再婚し、母を義父に奪われたという、埋め合わすことの出来ない心の間隙をもっていた。
Kの妻は母にはなってくれなかった。
「君は幸福になる資格を持っているんだ。今にきっと、君の理想とする女性が現れるよ、諦めないで何処までも探し続けて欲しい」
私は夏の夜のロマンチックな気分からではなかった。高校時代から悩んでばかりのKには、心から幸福になって欲しいと願って言った。
「なれるんだよ僕等は」
私はKの手を握っていた。
Kも私の手を握り返していた。
帰り、私とKは手を握り合って歩いた。私は初恋の、手を握り合う事が精一杯だった、遠い昔に忘れてしまっていた感情を蘇らせていた。
握り合った手が離せなかった。離すとその感情が消えてしまうような、かけがいのないもののように、私は人通りに出ても彼女の手を離さなかった。彼女は恥ずかしそうにうつ向いていた。私は人を睥睨するように、ゆっくりと踵に重心をかけて誇らし気に歩いた。
汗ばんだKの硬い手があった。
「ホモって感情分かる?」
私はKに聞いていた。
「世にいう性倒鎖は分からないけれど、友情と愛情が一体になったような世界はあると思う」
私とKは高校時代から・ ホモ・ じゃないのかなどとからかわれた。だが私はけっしてKを好いてはいなかった。励ましはしたが、Kに依存したり、Kに友情を感じたりした事もなかった。どこかで、いつも私がKを庇護する立場ばかりだったから。
「僕は今、初めて君を真の友人だと思う」
私は初めて口にする言葉のせいか少し上擦った。
「僕はずっと昔から、君に最初に会った日からそう決めていた」
Kは普段の、なんの恥らいもない声で言った。
私はひどくうろたえた。Kは手紙ではよく僕のバイブルへなどと書いて来たが、何とも思っていなかった後ろの席の女の子に、突然好きだったと告白された時のようなとまどいを感じた。
「悪かったよ、僕は今日から真の友人になるから、挫けそうになった時、僕だって君に助けを求めるから、その時はきっと受け止めてくれよ」
私は少年のようにこれらを言い終えると、深い感動を覚えていた。それは人生において、こんなことってあるのだろうかと思えるほどのものだった。どんな悔しい時でも、一人で耐えて来てしまった私であった。やっと最近になって、妻に対し少しは素直になる事が出来るようになった私であった。
「俺は愛するぞお、人生を愛するぞお」
Kは私の手をふりほどくと、駆け出し、闇の中に向かって叫んでいた。
狼の遠吠えのように、それは暗闇に響き渡った。
「俺だって愛するぞお、人間を愛するぞお」
私は少しアレンジして叫んだ。人生については分からなかったが、人間については愛して行きたかった。
暗闇の堤防の上にKが立っていた。
「ホラ、あれが蛍の群舞いだよ、小さいけど」
来る時見た、葦の茂みの辺りを指差してKが教えてくれた。無数の蛍が一つの塊のようになって葦の上を飛び交っていた。闇に様々な光跡を描きながら、仲間同士で戯れて合っているようだった。
「すごいなあ」
私は初めて見る光景に見とれていた。こんな自然がどこにでもあったなら、僕等人間はもっと愛し合えるのに、私はKと自然の不思議さに心を奪われていた。
翌日、健康を恢復したKがY市を案内してくれた。KはY市で高校一年まで過ごしたが、非行と暴力事件のかどで退学になり、隣県の私が通っていた夜間高校へ転校して来た。
退学になったとはいえ、Kにとって母校は思い出深いもののようだった。
「校舎は面影もないが、あの裏山、あそこが僕等の喫煙室だった」
Kに昨日までの淀みはなかった。忘れていた、恐れず進んだ青春の自分を取り戻して行くようだった。
「早めに引き払って東京へ来いよ」
私は一人ホームで見送るKに言っていた。
Kと別れて一ケ月が立ってからだった。
Kシス、アスシキ というKの母からの電報を受け取ったのは。
KはY市を見下ろすK岳で死んだ。夏山の荷揚げ人夫をしていて、誤って転落したのか、故意で落ちたのか、遺書も無いままに、数百メートルの断崖を落ちていったのだった。
了
手
吊り皮にすがりつくようにして、両手でぶら下がっている。職人風に髪を短く刈り上げ青い地肌を見せた頭には、切り傷のような跡が二ケ所、三ケ所見える。日に焼けた顔、首。どこかの会社のネームの入った灰色の作業服。洗いざらしの膝の突き出た綿パン。踵の擦り切れた靴下。安物のビニールサンダル。
これらの物や身体を二つの手で吊り皮に託し、バスの揺れるに任かせている五十才位の男。春一番も過ぎ去った小春日和の日曜日。車中は行楽帰りの家族、買い物帰りの若い夫婦などで混雑している。洗いざらしなどではなく、更の服、泥などは踏まない皮の靴、吊り皮に並んだ手は一様に白くしなやか。夕日に赤く透けてさえ見える。ただその職人風の男の所だけが黒く、太い両の手が際立ち、絵のように鮮やかに私の目に映っていた。
左の人差指の爪の半分がもげて短くなっている。指の爪はどれもひじゃけて石のよう。
爪の根元は墨でふちどりをしたように黒く、土や、油や、機械やら、あらゆるものをしっかりと握り、動かしてきたことが分かる。それに比べ、隣の女の、青年の、そして私の手の何と白く、弱々しいことか。
「手を見せたまえ」
赤軍がヨーロッパ行きの列車の前で、検問を行っている。
色の白い、農夫の出とは思えない若い将校が次々と捌いていく。骨太の黒い土や油を染み込ませた手は乗車許可。か細く白い手は乗車不可。赤軍は亡命貴族を探しているのだった。それは恐ろしい程の的確さで、農民と貴族が判別されていった。将校の前に出された夫々の人間の人生は、全てその人の手が語っていた。鎌の切り傷、黒ずんだ爪、雑巾のような手の皮。
主人公の手は一見して、白い透き通った手、逃げることも、人生をやり直す事も出来ない貴族の手だった。
将校は容赦なく主人公を捕らえて行った。
母の手を思い出していた。女子挺身隊で十二の年から糸を紡いだ、骨太の足の皮のように厚い手。タイル工場の選別仕事、ダイカスト製品のバリ取り、掃除夫。常に水と油と土にまみれて来た手。今では指の関節がコブのように固まって、指先は再び曲がることがない。それでもまだ働き続けている。
母も疲れては、吊り皮に、職人風の男のように、すがりつくようにしてぶら下がるのだろうか。
職人風の男の黒い手も、母のコブの手も、乗車許可。いつだって許可されて良い。要領良く生きることもなく、生活から逃れることもなく、子を産み、育て、生きて来た。
人間の手が、使うためにこそある証明のように。
了