Chapter1 Scene5 平和な日々、そして――
聖霊学院に転校してから数日経った、ある休日の昼下がり。俺は自宅の台所で、いつものように紅茶を淹れる練習をしていた。
美味しい紅茶を淹れるには、いくつかのポイントがある。例えば水。使うのは水道水でかまわないけれど、汲みたてが望ましい。
これは水に含まれる空気が少ないと沸騰しても対流が起こらず、茶葉の旨みや香りを上手く引き出せないからだ。
他にも蒸らし時間や、温度が下がらないようにする工夫等々。気を付けなくてはいけないことが沢山あって……俺はそのポイント一つ一つに気を付けつつ紅茶を淹れる。
そうして紅茶が入れ終わる寸前、いつものように天音がリビングに姿を現した。
「ゆ〜ずき、あたしにも頂戴」
「もちろん、天音の分も用意してあるよ」
俺が淹れた紅茶は二人分。あらかじめ確認した訳じゃないので、天音が姿を現さなかったら無駄になるところだけど……
天音はよほどミルクティーが気に入っているのだろう。俺が紅茶を淹れる練習を始めてからかれこれ五年。紅茶をせがみに来なかった日はただの一度もない。
なので練習で作る時は必ず、二人分用意するようにしているのだ。
「お待たせ、天音」
トレイに紅茶をのせてリビングへ。紅茶をテーブルに並べて天音の向かいに座る。
「と言うか、なんで休みの日に制服なんだ?」
休日にもかかわらず、天音が制服を着ていることに気付いて突っ込みを入れる。
「うん、柚希と同じ学校に通ってるって、少しでも感じていたくて」
「なんだそれ。……まあいいや。紅茶、冷めないうちに飲んでくれよ」
「それじゃ、頂きます」
天音はカップを傾けて一口、白い喉をこくりと鳴らした。
「……どうだ?」
「えへへ、今日も凄く美味しいよ。柚希の紅茶を毎日飲めるあたしは幸せ者だね」
「天音は大げさすぎだ」
なんて軽口で返すけど、本当は凄く、凄く嬉しい。
俺が練習を始めたのは、幼なじみを失った直後。いつか紅茶を淹れてやる――なんて、彼女と約束したことを思いだしたからだ。
でも、果たせるかも判らない約束のために練習を続けるのは辛い。それでも続けていられるのは、天音がこうして感想をくれるからだ。
「……いつもありがとうな、天音」
「ふふっ、もーっと感謝しても良いんだよ? ……なんてね。あたしは紅茶が好きなだけだから、柚希は気にしなくて良いよぉ」
「お前は出来た妹だよ」
外での暴走をさっ引いても――と、声には出さずに付け加える。
穏やかなひとときの後。俺がティーセットを片付けていると、不意にドアフォンが来客を知らせた。
「誰だろ?」
「あ、柚希は洗い物の途中でしょ? あたしが出るよ」
天音はそう言ってドアフォンに。短いやりとりの後、玄関へと歩いて行った。
そうして数分。
俺が洗い物を続けていると、玄関から天音の怒鳴り声が響いた。
「――天音!?」
洗い物を置いて、玄関へと走る。天音と対峙していたのは穏やかな物腰の、少し年上の女性。青みがかった髪のお姉さんだった。
「……ええっと、どちら様ですか?」
「あらあら、私を忘れてしまったんですか? 昔はあんなに激しく私を求めてくれたのに……つれないですね」
想像もしていなかった答えに、俺は思わず目をパチクリ。けれどその直後、俺をそんな風にからかう女性が以前にもいたことを思いだした。
「……もしかして、楓ねぇ?」
「あ た り」
悪戯っぽく微笑む。そんな楓ねぇを見て、急に懐かしさがこみ上げてきた。
彼女は月ヶ瀬 楓。咲夜ちゃんの家に引き取られた養女だが、咲夜ちゃんとは本当の姉妹のように仲が良かった。だから咲夜ちゃんといつも一緒にいた俺は、毎日のように楓ねぇに遊んで貰っていたのだ。
だけど、咲夜ちゃんと疎遠になって以来なので、かれこれ五年は会ってない。もちろんそのあいだ、電話やメールなどのやりとりも途絶えていた。
「ずいぶんと久しぶりだな……全然判らなかったよ」
「そういう柚希くんは、ずいぶんと素敵な男の子になりましたね。思わず、抱きしめたくなっちゃいました」
「――なっ」
気づいた時には、楓ねぇに抱きしめられていた。信じられないくらい柔らかな胸に包まれ、どこか懐かしくて優しい香りが胸を満たしていく。
だがそれも一瞬、楓ねぇは天音に首根っこをつかまれて引き剥がされた。
「ちょっと楓、柚希に手を出さないでくれる!?」
天音は俺を庇うかのように立ちはだかり、楓ねぇをキッとにらみつける。
割と本気の、気の弱い同年代の女の子なら後ずさりそうな視線を前に、けれど楓ねぇは涼やかな表情を浮かべている。まさに大人の対応――
「ふふっ、焼き餅かしら?」
ではなく、彼女はサラリと恐ろしいことを口にした。
自分のスタイルの良さを理解しているのだろう。胸を強調させる挑戦的な佇まいが、最高に天音を挑発している。
――そろそろ止めないと血の雨が降るかも? なんて本気で心配したのだけど、天音が怒りにまかせて口を開くようなことはなかった。
天音は大きく深呼吸を一つ。ふてくされたような口調で答える。
「……別に、妬いてなんかないよ」
「ふふっ、そんな顔で言われても説得力がないわね。良いじゃない。貴方はいつも、柚希くんに抱きついたりしてるのでしょ?」
楓ねぇの軽口に、天音は少し寂しげに、曖昧な笑みを浮かべた。
「そういや、天音ってスキンシップの類いはしないよな」
ふと思い立って呟く。その瞬間、楓ねぇの表情が凍り付いた。
「それは本当なんですか?」
「え、本当ってなにが?」
「スキンシップの話です。本当なんですか?」
「ほ、本当だけど?」
天音はいつも俺の側にいる。だけど、それは精神的な距離に限定される。
物理的には、手を伸ばせば届く距離にはいても、実際に触れ合う距離に詰め寄ってくることはほとんどない。
最近天音が俺に触れたのは転校初日。俺が自転車に轢かれかけた時くらいだろう。
それを伝えると、楓ねぇは信じられないと目を見開いた。そうしてその意図を問うかのように天音に視線を向ける。
「……別に。兄妹なんだから、普通のことでしょ?」
天音はそう言ってそっぽを向いてしまった。
「兄妹、だから? ……そっか、そう言うこと」
なにが判ったのか、楓ねぇは酷く後悔するような表情を浮かべた。そうして、おもむろに天音の側により、その体をギュッと抱きしめる。
「貴方の気持ちも考えないで、ごめんなさい」
「うぅん、楓は悪くないよ。それに、楓の言うとおりだもの」
「……私の?」
「うん。あたしはさっき、少し妬いてたの。あたしが勝手に、ね。だから、楓が謝るようなことじゃないよ」
天音は抱き寄せられるに任せ、穏やかな笑顔を浮かべた。なんだか完全に置いてきぼりで、二人がなにを言っているのかまったく判らない。
だけどまぁ、二人が納得してるなら良いか――と、俺は部外者の立場を甘んじて受け入れることにする。
それにしても、昔から『楓ねぇ、楓ねぇ』って感じで懐いてたけど、今でも仲が良いんだな。こうして並んでいるのを見ると、本当の姉妹みたいだ。
考えてみれば、咲夜ちゃんに嫌われたのは俺だけなので、二人が俺の知らないところで連絡を取り合っていても不思議じゃない――か。
「もしかして、楓さんを呼んだのは天音なのか?」
俺は頃合いを見計らって尋ねると、天音は楓ねぇの腕から抜け出してため息を一つ。
「違うよ。楓がいきなり押しかけてきたの。なんでも、あたし達が転校したのって、楓の差し金なんだって」
「……差し金? 意味が判らないけど……それで天音は不機嫌そうなのか?」
「――それは、えっと……違うけど」
あまり触れられたくない内容なのか、天音は俺から視線を逸らしてしまった。
良く判らないけど……言いたくないことなら無理に聞く必要はないだろう――と、俺は方針を変更。楓ねぇへと向き直った。
「立ち話もなんだし、取り敢えず上がってくれよ。尋ねてきたってことは、なにか話があるんだろ?」
「そうですね。それじゃお邪魔します」
「それで、楓さんはなにをしに来たんだ?」
リビングにあるソファ。向き合うように座り、俺は楓ねぇに尋ねる。
「あら、昔のように楓ねぇって呼んでくれて良いんですよ?」
「呼ばないから」
「どうしてです? さっきは楓ねぇって呼んでくれたじゃないですか」
「あれは、思わず口をついて出ただけだから」
心の中で呼ぶならともかく、この年で声に出して楓ねぇだなんて、恥ずかしくて呼べるはずがない。
「あっ、判りました。私のことをお姉ちゃんじゃなくて、一人の女性として意識してしまったんですね?」
「んなっ!?」
先ほど抱きしめられた時に感じた、楓ねぇの柔らかな感触を思いだして焦る。
――刹那。背筋にぞくりと悪寒が駆け抜けた。斜め向かいを見なくても判る。天音が凍てつくような視線を俺へと向けている。
「……ゆ ず き?」
「ちっ、ちちっ違うから!」
俺はギギギと、恐る恐る天音へと視線を向ける。予想に反し、天音は満面の笑みを浮かべていた。……ただし、そこに言いようのない迫力を湛えて。
「……ほんとに? 楓のことを、女性として意識した訳じゃない?」
「あ、あぁ。もちろん。そんな訳ないって」
「――なら、楓ねぇって呼べますよね?」
「うぐっ!?」
間髪入れずに楓が切り込んでくる。思い掛けずに構築された二人の包囲網に、俺はたじたじである。
「さぁ。楓ねぇって言ってみてください」
「いや、だからそれは……」
別にやましいことなんてないけど、久しぶりに会った幼なじみのお姉さんが綺麗になっていて、昔のように呼ぶのが恥ずかしくなったのも事実。
俺はそれを白状する恥ずかしさと、楓ねぇと呼ぶ恥ずかしさを天秤に掛け――羞恥に耐えながら「か、楓ねぇ……」と呟いた。
「あ~もう、柚希くんの反応は可愛いですねぇ」
か、完全にからかわれてるな。この流れはまずい。なんとか話を元に戻さないとと、咳払いを一つ。
「そ、それより、俺達の転校が楓ねぇの差し金って、一体どういうことなんだ?」
「そのままの意味ですよ。私が柚希くんのご両親にお願いしたんです」
「お願いって……どうやって?」
「あら、私のこと、本当に忘れちゃったんですか?」
楓ねぇはスッと目を細め、穏やかな微笑みを浮かべる。
その微笑みを見た瞬間、俺は思わず身震いをした。楓ねぇがそうやって微笑みながら、いろんな物事を、思い通りに動かしていたことを思いだしたからだ。
楓ねぇを一言で表現するなら、天才少女をおいて他にない。
養女として迎えられたのは、性格を気に入られたからと言うのもあるが、その才能を買われたというのが大きいと聞いている。
当時の楓ねぇは学生の身でありながら、父親の経営する会社を手伝うほどで、家では絶大な発言力を誇っていた。
あれから五年。今の楓ねぇがその気になれば、俺の両親に引っ越しを促すことだって不可能じゃないかもしれない。
「まさか、俺たちの両親を脅したんじゃ……」
「見損なわないで下さい」
楓ねぇは俺の言葉を遮り、強い口調で否定した。その迫力に気圧されて息を呑む。
「驚かせてごめんなさい。でも、柚希くんは咲夜を救ってくれた恩人です。その恩人や、恩人の家族を脅すなんて恥知らずなマネ、私は絶対に致しません」
「そっか……そうだよな。こっちこそゴメン」
いきなりの来訪に加え、天音が差し金なんて言うから警戒してしまったけど、思い返してみれば、楓ねぇは昔から俺達に優しかった。
出来るかどうかは問題じゃない。例えどんな理由があるにせよ、彼女は俺たちの両親を脅すなんてマネはしないだろう。
「でも、だったらどうやって両親を動かしたんだ?」
「さっき言ったでしょ、お願いしたって。今の状況の全てをご両親に話し、貴方たちを聖霊に編入させるようにお願いしたんです」
「今の状況?」
「ええ、それは――」
「――楓っ、これ以上、柚希を傷つけないで」
不意に天音が割って入った。一体どういう意味なのか。俺が見守る中、二人の視線が交差する。
その沈黙を破り、最初に口を開いたのは楓ねぇだった。
「私だって、柚希くんを傷つけたくはないわ。でも私は、咲夜が心配なのよ」
「楓……それは……」
「それに、現状を隠せば柚希くんが傷つかないって、貴方は本気で思ってるの?」
「それは、判らない、けど……」
天音は困り顔で俯いた。それはまるで、納得は出来ないけど反論も出来ないといった様子である。
「……一体どういうことなんだ?」
成り行きを見守るつもりだったけど、天音が困っているのを見てられなくて割って入る。そんな俺の心境を察したのだろう。楓ねぇはクスリと微笑んだ。
「ふふっ、そう言う優しいところ。私は大好きですよ?」
「ちょっと、楓!?」
楓ねぇの判りやすい挑発に、天音が過剰反応を示す。
「話が進まなくなるから、天音をからかうのは止めてくれよ。それより、どういうことなのか説明してくれ。そのために来たんだろ?」
「そう……ですね」
楓ねぇは頷くと、天音へと顔を向ける。そうして視線だけでなんらかのやりとりを交わした後、再び俺へと向き直った。
「実は、あの子は今、聖霊学院に在籍しているんです」
「……咲夜ちゃんが? まさか、レフィアに目覚めたのか?」
「いえ、そういう訳じゃありません。聖霊はレフィアに特化した学院ですが、生徒全員がレフィア保持者というわけじゃありませんから。……ご存じですよね?」
「ああ。天音だってレフィア保持者じゃないしな」
レフィア保持者が多いのは事実だけど、全員が保持者という訳じゃない。生徒の多くは、レフィアに携わる仕事を目指す一般人だ。
「では……なるほど。咲夜を心配しての言葉でしたか」
「まぁ、な」
俺は自分のレフィアを嫌っていない。それどころか、この力のお陰で幼なじみや妹を救えたと感謝している。
けど、それと同時。レフィアが使用者に優しくない能力なのも理解してる。自分勝手な考えだけど、咲夜ちゃんにはレフィアに目覚めて欲しくないと思ってる。
「話を戻すけど、俺達の転校と、咲夜ちゃんが聖霊にいるのは関係あるのか?」
「ええ、あの子に会って欲しいんです」
「どうして? 俺が彼女にどう思われてるか、楓ねぇは知ってるだろ?」
五年前を最後に、俺は彼女と一度も会っていない。けど、俺のレフィアの性質を考えれば、彼女が俺をどれほど憎んでいるかは想像に難くない。
「もちろん知っています。でも、今のあの子には、柚希くんが必要だと思うんです」
「俺が必要……って、どういうことだよ?」
まさか――と、嫌な予感を覚える。それは天音も同じだったのか、俺と同じように不安げな表情を浮かべる。
だけど、続けられた楓ねぇの言葉は、俺の予想とはまるで違っている内容だった。
「柚希くんは、咲夜がどんな性格だったか覚えていますか?」
「え、咲夜ちゃんの性格? ……えっと、明るくて優しくて、誰とでも仲良くなれるクラスの人気者って感じだろ?」
「そうですね。でも今は違います。憧れの対象ではあるけど、近寄りがたい。どこか冷たい感じのするお嬢様。それが最近のイメージです」
「……嘘、だろ? それじゃまるで別人じゃないか」
俺の知っている暖かみのある彼女とはまるで違う。対極に位置するかのような性格。そんな風に振る舞う咲夜ちゃんを、俺はまったくイメージできなかった。
「信じられないのは無理もありません。ですが……事実です」
「ここ数年で変わったって言うのか?」
「いいえ。あの日を境に――です」
「あの日を境に? それって、どういう……」
「これは推測ですが……人格形成に大きな影響を与える幼少期の思い出の大半を失い、性格に影響が出てしまったのではないかと……」
「――っ」
五年前のあの日。
俺がレフィアを使った直後、彼女の記憶にはかなりの混乱が見られた。彼女の持つ想い出の大半に俺が関わっていて、命の代償にその全てを失ったせいだ。
――つまり、
「咲夜ちゃんの性格が変わったのは、俺のせい……なのか?」
「レフィアの影響という意味でなら、その通りです」
「そんな……」
目の前が真っ暗になり、ソファの肘置きに寄り掛かった。
五年前のあの日。俺は彼女が向けてくれる好意的な感情や、想い出の全てを犠牲にしてレフィアを使った。
例え嫌われても良い。救ったことを理解されなくたってかまわない。それでも、咲夜ちゃんの日常を護れるなら――と思ったからだ。
なのに彼女は、レフィアの影響で別人のようになってしまったという。俺は咲夜ちゃんの記憶だけでなく、もっと大切なモノを奪っていたのかもしれない。
「……柚希、大丈夫?」
「あ、あぁ……悪い。大丈夫だ」
天音の泣きそうな視線に気づき、俺は自分を奮い立たせた。そうして深呼吸を一つ。自分を落ち着かせて楓ねぇを見る。
「咲夜ちゃんの性格が変わったのは判ったよ。でも、俺にどうしろって言うんだ?」
「あの子との絆を取り戻して欲しいんです」
「絆を取り戻す……って、どうして?」
「性格が変わってしまったのは、貴方との思い出を失ったから。つまり、貴方ともう一度仲良くなれば、あの子は変われると思いませんか?」
俺は楓ねぇの言葉を吟味する。
咲夜ちゃんの性格が変貌した理由が記憶の喪失にあるのなら、その記憶を取り戻すことで、昔の性格に戻る可能性はあるだろう。
だけど、
「判ってるのか? 俺と咲夜ちゃんがもう一度仲良くなったとしても、過去の記憶が戻るわけじゃないんだぞ?」
「もちろん判っています。でも、あの頃の咲夜が貴方の影響を受けていたのだとすれば、貴方と引き合わせることで、影響を与えることだって可能だと思いませんか?」
「それは、判らない……けど」
「判らないなら可能性はある――と、私は考えます。だから、お願いです。どうかもう一度、あの子に会ってくれませんか?」
「……会ってくれって、彼女は俺と会うことを了承してるのか?」
「機会はこちらで用意します。ただ……あの子の心まで操作できる訳じゃないので、再会することで敵意が明確になり、二度と会えなくなる可能性も……」
「まぁ、そうだろうな」
俺は咲夜ちゃんに徹底的に嫌われている。楓ねぇの予想は十分にありえることだ。でもそれは、レフィアによる後遺症。いわば彼女は記憶喪失のような状態だ。
咲夜ちゃんから好意や想い出が消え失せ、後に残ったのが嫌悪だけだとしても……俺にとって彼女は、今も大切な幼なじみに違いない。
もし、もう一度、彼女と仲良くなれるチャンスがあるのなら、どんな逆境にも立ち向かってみせると心に決めていた。
だから――
「判った。俺に出来ることがあるって言うなら協力するよ」
俺は楓ねぇに向かって、ハッキリと自分の意思を伝えた。
「……ありがとうございます。柚希くんは、素敵な男の子に育ちましたね」
「そ、そんな風に言われると、恥ずかしいんだけど……」
楓ねぇの熱っぽい視線に晒され、俺は思わずそっぽを向いた。
「ふふ、そう言って照れるところも可愛いですよ。約束します。咲夜を救って下さった暁には、お礼に私がなんでも、して――あげますね」
「――ちょっと、楓!? 女の子がそう言うこと口にするってどうなのよ!?」
横で聞いていた天音が割って入る――が、楓ねぇはなにを怒っているのか理解できないとばかりに小首をかしげた。青みがかった長髪がサラサラとこぼれ落ちる。
「どう……って、私はそのままの意味で、言っているんですよ?」
「判ってるよ! だからどうなのって言ってるんじゃないっ!」
天音が吠えるが、楓ねぇはしれっと受け流した。なんかこの二人、昔より仲良くなってないか? やっぱり、いままでも交流があったのかな?
なんて思っていたら、楓ねぇはソファから立ち上がり、手荷物を纏め始めた。
「準備があるので私はこれで。詳細は追って連絡しますね」
「もう帰るのか? 夕食くらい食べていけばいいのに」
「せっかくのお誘いですが、今日はそのお話をしに来ただけなので。今度ゆっくりイチャつける日に、柚希くんのお部屋に伺いますね」
「こなくて良いわよ!」
天音が再び吠える。しかし楓ねぇは「それではごきげんよう」と優雅に一礼。サラサラの髪をさっと指でかき上げ、甘い香りだけを残して帰ってしまった。
そうして楓ねぇが帰り、二人っきりになったリビング。俺はさっきから気になっていたことを天音に尋ねる。
「俺が咲夜ちゃんと会うのに反対なのか?」
「――っ。それは……そんなこと、ないよ」
一瞬目が泳いだ。図星だったらしい。
五年前。咲夜ちゃんに拒絶されて落ち込む俺を、天音はずっと側で見ていた。また俺が以前のように傷つくかもしれないって、心配してくれてるのだろう。
「俺だって傷つきたい訳じゃないさ。でも、俺は咲夜ちゃんとの失った絆を取り戻したいって、ずっと望んでたんだ。天音だって知ってるだろ?」
「……うん」
天音は少し困ったような表情で、ほんの少しだけ頷いた。
俺の苦しみと願い。その両方を理解しているからこそ、どうするべきか迷っているのかもしれない。そう思ったから、
「心配してくれてありがとな。だけど、大丈夫だから」
咲夜ちゃんとの絆を絶対に取り戻すと心に誓い、天音の頭を優しく撫でつけた。