Chapter4 Scene3 最後の時間
約束の日。
俺は星空の下、町外れにある並木道を歩いていた。
向かうのは、俺が五年前までは頻繁に通っていた、そして五年前を最後に通うことのなくなった、咲夜の住む屋敷。
街並みは随分と変わってしまったけれど、この辺りは少しも変わっていない。
「……まるで、五年前に戻ったみたいだな」
「いつか、お二人が戻ってくるまで当時のままにと、両親のお願いがあったんです」
俺の独り言に楓ねぇが答える。けど、俺は驚かなかった。
俺が屋敷に通っていた頃はいつも、楓ねぇがこうして出迎えてくれていたから。だから、今日もそうかもしれないと予想していた。
それよりも――と、俺は楓ねぇの言葉について考える。
両親とは、楓ねぇにとっては義理の、咲夜の両親のことだろう。そして二人というのは考えるまでもなく、五年前にここから去った俺と咲夜のことだ。
つまり咲夜の両親は、俺のことも気に掛けてくれていたと言うこと。
「……実はさ、少しだけ不満に思ってたんだ」
唐突に切り出すけど、楓ねぇはなにをとは聞かなかった。俺がなにを言おうとしているのか、もう理解しているのだろう。
――五年前。俺は咲夜にレフィアを使い、そして嫌われた。だから、疎遠になってしまったのは仕方のないことだと思っている。
でも、咲夜の両親や楓ねぇの協力があれば、もう少しマシな関係を築けたはずだ。なのに、楓ねぇ達は協力してくれるどころか、俺と咲夜を引き離した。
俺はそれを、ずっと不満に思っていた。けど、先ほどの言葉を聞いて、ようやくその理由に思い至った。
「咲夜が天音だったから。だから、俺達を近づけないようにしてたんだな。そうしないと、記憶を失った天音が混乱するから」
「ええ、その通りです。当時は二人をどうするか、ずいぶんと悩んだんですが……元に戻れる保証もなかったので、伏せておくことにしたんです」
「そっか……」
「ですが、そのせいで柚希くんに辛い思いをさせてしまったことは、本当に申し訳ないと思っています。お詫びに、なんでも、して上げますよ」
「いや、気にしてないよ。今にして思えば、楓ねぇが強引な手段を取るなんて、咲夜の為だけだもんな」
俺はさり気なくスルー。なのに――
「お詫びに、な ん で も して、あげますよ?」
楓ねぇは二回言った。
「…………」
「突っ込み待ちですよ? 主に性的な意味で」
「だあああ、もうそういうのは良いから!」
俺はスルーできずに突っ込んだ。ちなみに性的じゃない方の意味でだ。
「つれないですね。でも、本当になにもないんですか?」
「……協力して欲しいことはあるよ」
「引き受けましょう」
「……まだなにも言ってないんだけど」
「なんでもすると言ったでしょ?」
「あのなぁ。こっちは真面目な話をしてるんだぞ?」
「聞かなくても判ります。私がどうして、柚希くんを頼ったと思ってるんですか?」
「それは……俺に癒やしのレフィアがあるからだろ」
「違います。柚希くんが、優しくて素敵な男の子だからです」
「――っ。その表現は……凄く、恥ずかしいんだけど」
「でも、事実ですから。柚希くんなら、咲夜を一番に考えてくれると確信したからこそ、頼りにしたんです」
「……そう、か」
どれだけ苦しい立場に立たされても、俺は必ず咲夜のためにレフィアを使う――と、楓ねぇは確信しているのだ。だから、後のフォローについても考えを巡らせている。
「もしかして、楓ねぇがなんでもするなんて言ってるのは、そのせいなのか?」
俺は自分を犠牲に咲夜を救おうとしている。だからその代償として、楓ねぇはその身を差し出そうとしているのかもしれないと尋ねる。
その問いに対して、楓ねぇはクルリと背を向けた。そうして静かに星空を見上げる。
「否定は……しませんよ。今回の件がなければ、私がこんな風に振る舞うことはなかったでしょうから」
それを耳に、俺はやっぱりと言う思いを抱いた。
だけど――
「だって私は……勝てない戦はしない主義ですから」
ぼそりと付け加えられた楓ねぇの囁きを、俺は理解できない。でも、たっぷり十数秒も考え、ようやく一つの可能性に思い至った。
「それって、もしかして――」
俺がその可能性を言葉として紡ごうとした瞬間、楓ねぇはさっと詰め寄り、俺の唇を人差し指でふさぎ、どこか寂しげに微笑む。
「この話はおしまいです。そろそろ屋敷へと参りましょう。あまり遅くなっては、咲夜が拗ねてしまいますから」
五年ぶりに訪れた月ヶ瀬邸。なにもかもが懐かしい。そんな思いを抱きながら、楓ねぇに続いて廊下を進む。
そうしてたどり着いたリビング。
そこには椅子にも座らず、神妙な面持ちで佇む夫婦の姿があった。
「……小父さん、小母さん。お久しぶりです」
「あ、ああ。久しぶりだね。柚希くんは、その……元気にしてたかい?」
「――貴方っ」
小父さん言葉を、小母さんが慌てて遮った。
「そう、か。そうだな……我々があんな仕打ちをしたのに、元気にしていたかなんて、口にして良い言葉ではなかったな。すまない、どうか許して欲しい」
俺が思う以上に胸を痛めていたのだろう。二人は揃って頭を下げた。
俺の中で様々な感情がわき上がり、それらは泡となって消えていく。そしてやがて、一つの感情だけが残った。
「頭を上げてください。俺は二人を恨んだりなんてしてませんから」
「……本当かい?」
「ええ。レフィアを使ったのは俺の意志ですから、気にしないで下さい」
二人は顔を見合わせる。そして意見を求めるかの様に、楓ねぇへと視線を向けた。
「大丈夫よ。柚希くんがそういう男の子なのは、二人も知ってるでしょ?」
楓ねぇが安心させる様に頷いた。
「……ありがとう。長年の胸のつかえが取れたようだよ」
小父さん達はもう一度頭を下げ、ホッと一息。表情を和らげた。けれど、一呼吸置き、再び表情を引き締める。
「それで、今日来てくれたのは、その……」
「咲夜の病気を治すためです」
「あんな目に遭ってもまだ、柚希くんはレフィアを使うというのか? キミは、それで平気なのか?」
「平気じゃ、ないですよ」
「ならば、どうして……」
「咲夜に生きていて欲しいからです」
「そう、か。キミはそこまで、咲夜のことを想ってくれているんだな?」
「そ、それは……」
咲夜に対する想いを二人に答えるのは恥ずかしい。だけど、この状況で嘘はつきたくなかった。だから俺は「そうです」と頷いた。
「そうか。こんなことを言える立場ではないかもしれないが、娘をよろしく頼む」
「……ええ、任せて下さい」
頷いて退出しようとするが、
「あ、ちょっと待て。まだ話は残ってるの」
そこを小母さんに引き留められる。
「なんでしょう?」
「話って言うのは、天音ちゃんのこと」
「天音の……レフィアのことですか?」
天音がレフィアを使ったのは咲夜のためだけど、周りに多大な影響を与えたこともまた事実だ。恨み辛みの言葉が出るのも覚悟したのだけど、小母さんは首を振って俺の予想を否定した。
「えっと、ならどういうことでしょう?」
「あのね、天音ちゃんは実の娘じゃないわ。でも、この五年間、本当に娘のように思って接してきたつもりよ。楓と咲夜に次ぐ、三人目の娘として……ね」
「……そうですか。それを聞いたら天音も喜ぶと思います」
「本当に?」
「ええ、天音もそんな風に言ってましたから」
「……良かった。なら、いつでも遊びに来てと、天音ちゃんに伝えてくれるかしら」
「ええ、必ず伝えます」
咲夜の部屋を訪れると、彼女は穏やかな表情で俺を出迎えてくれた。だけど俺が持つトレイに乗せられた紅茶を見て目を見開いた。
「……それは? 柚希が淹れたの?」
「咲夜に飲んで欲しくて、キッチンを借りたんだ。良かったら……飲んでくれないか?」
ベッドサイドに座る咲夜にトレイを差し出すと、彼女はありがとうとカップを手に取り、その水面を静かに見つめた。
「……咲夜?」
「この紅茶は、あたしのために淹れてくれたんだよね?」
「ああ、そうだよ。他の誰でもない、咲夜のために淹れたんだ。だから、キミに飲んでもらいたいんだ」
「うん……」
咲夜は震える手でゆっくりと、カップを口元に。コクリと白い喉を鳴らした。そして幸せそうな吐息を一つ。泣きそうな顔で微笑んだ。
「…………美味しい、凄く美味しいよ。本当に、凄く」
「そう、か……」
「柚希……約束、忘れないでくれてありがとうね。柚希が毎日、あたしのために頑張ってくれてたの、凄く嬉しかったよ」
果たせないと思ってた約束を果たすことができた。それだけで、嬉しくて泣きそうなのに……そんなことを言われたら本当に泣いてしまいそうだ。
だけど、幼なじみとしての記憶を持つ咲夜と過ごせる最後の時間。悲しい思い出にはしたくないと涙をこらえる。
「ねぇ、柚希も一緒に飲もうよ」
「うん、そうだな」
俺は咲夜の隣に腰掛け、カップに手を伸ばす。そうして紅茶を飲み終わるまで、俺達は穏やかな時間を過ごした。
このひと時が永遠に続けば良いのにと願う。けれど、楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。すぐに二人のカップは空になった。
「……お礼に、なにかさせて欲しいな」
わずかな沈黙のあと、咲夜がぽつりと呟いた。
「お礼?」
「うん、なにが良いかな……柚希はなにか、あたしにして欲しいことある?」
「して欲しいこと? 特にはないけど……」
「遠慮しないでいいんだよ? 今だったら、なんだってしてあげるから」
咲夜の声が微かに震えている。俺は彼女がなにを言いたいのか理解した。
「……そういうのは良いんだ」
「どうして? 柚希は思い出がなくて平気なの? あたしがなにかしてあげられるのは……もう、これが最後なんだよ?」
「そう、だな……」
レフィアを使えば、今度こそ幼なじみである咲夜はこの世から消えてしまう。それは抗いようのない事実だ。
「けど、それでも俺は諦めないよ」
「……柚希は、あたしともう一度仲良くなれるって、そう思ってるの?」
記憶の喪失が死も同然だと言い切る咲夜にとっては、予想もしない言葉だったのだろう。驚きに目を見開いている。
「すぐには無理でも、いつか、きっとなれるさ」
「……判ってる? あの頃とは違う。もし柚希といつか仲良くなれたとしても、それまでに、あたしが誰とも親しくなってない保証なんて、何処にもないんだよ?」
「そう、だな……」
いくら記憶を失っているのだと周りが説明しても、好きなんて感情はコントロール出来るものじゃない。
たとえば、長い月日をかけて友情を取り戻したある日。恩人の貴方には教えておきたいからと、咲夜に彼氏を紹介される。
そんな未来だって、あるかもしれない。
「それでも、俺は可能性を信じたいんだ」
「……柚希は、奇跡を信じてるんだね」
「信じてるよ。そういう咲夜は信じてないのか?」
「そう、だね。奇跡はあると思う……けど、誰かが授かる奇跡の裏には、無数の残酷な現実があるんだよ?」
「……そうかもな」
「願った奇跡が都合よく起きるなんて、夢物語の中だけだよ。だから、あたしはそんなの期待しない。だって、信じて傷つくのは柚希だから」
「……そっか。咲夜は俺のことを心配してくれてるんだな」
それが判って安心する。咲夜が俺のために不安がってるだけなら、迷う必要なんてない。俺は大丈夫だと続けた。
「心配はいらないよ。必ず奇跡を起こしてみせるから」
「奇跡を、起こす?」
「そうだよ。偶然を期待するんじゃない。奇跡が起きるように努力をするんだ」
「……本気で言ってるの?」
「ああ。だから、咲夜も信じてくれないか?」
「奇跡が起きることを?」
咲夜の問いかけに、俺は小さく首を横に振った。
「奇跡をじゃない。俺を、だよ」
「……ずるい、ずるいよ。大好きな柚希にそんな風に言われたら、あたしに否定なんて出来るはずないじゃない」
咲夜は困ったように眉を落とす。けれど長い沈黙のあと、咲夜は静かに顔を上げた。そうして、かくたる意思を宿した瞳で俺を見る。
「判った。あたしは柚希を信じるよ。その代わり、柚希も約束して?」
「約束? なにを約束すれば良いんだ?」
「うん。あのね、あたしはいつかきっと、柚希のことをもう一度好きになる。全部忘れても、いつかきっと思いだしてみせる。だから、だからね……」
咲夜はその先の言葉を、何度も躊躇して口ごもった。それはきっと、その先を口にしたら、俺を苦しめるかもしれないと危惧しているから。
だから俺は、咲夜の髪をそっと撫でつける。
「……柚希?」
「約束するよ。俺は決して諦めない。もう一度好きになって貰えるまで、俺はずっと咲夜の側にいる。絶対にだ」
「柚希……ありがと」
そのやりとりを最後に、俺達のあいだに再び沈黙が降りた。
もう、ほかに話すことはない。これ以上思い出を重ねれば、レフィアを使うのが辛くなる。だから、俺は覚悟を決めて咲夜を見つめる。
「それじゃ……」
「うん、良いよ。さよなら――なんて、言わないからね?」
「ああ。またな、咲夜」